57話 「朝凪」
誰かに教わって始めたものが、
いつの間にか自分の好きな時間になっている。
そんな瞬間は、
きっと少し嬉しい。
仕事終わり。
アパレルショップのバックヤード。
澪はロッカーへ背中を預けながら、
スマホを見ていた。
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『お母さん楽しかったってずっと言ってる』
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少しして既読がつく。
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『俺も楽しかった』
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澪が少し笑う。
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『めっちゃ気に入られてたね』
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『距離感近すぎてビビったわ』
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『ごめんね昔からあんな感じw』
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『まぁ嫌いじゃない』
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その言葉が、
なんだか少し嬉しかった。
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「澪〜上がり?」
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「はい!お疲れさまでした〜」
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ロッカーを閉める。
夜風が少し涼しい。
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帰り道。
コンビニでカフェオレを買って歩く。
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『明日休みだー』
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『いいな』
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『海行こうかな』
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送ってから、
澪は少し立ち止まった。
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……自然にそう思ってる。
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最初は、
蒼に教わる為に海へ行っていた。
でも今は、
なんとなく海へ行きたいと思う。
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『お、いいじゃん』
『波も悪くなさそう』
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『1人で行ってみよかな』
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少し間が空く。
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『行ってこいよ』
『もう普通に乗れるだろ』
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澪が少し笑う。
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『でも板どうしよ』
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『この前お前ん家置いてっただろ』
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「あ」
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部屋の隅。
蒼が置いていったサーフボードが立て掛けてある。
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『ワックス塗っとけよ』
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『先生みたい』
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『コーチである事に変わりはないしな』
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『えらそー』
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『事実です』
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澪が笑う。
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ベッドへ寝転がる。
海。
波。
朝の空気。
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少し前まで、
全部知らなかった景色だ。
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翌朝。
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まだ空は薄暗い。
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「……ねむ」
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眠そうな声を漏らしながら、
澪はウェットとボードを抱える。
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部屋を出る。
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澪のアパートから海までは歩いて行ける距離だった。
早朝の住宅街は静かで、
車の音もほとんど聞こえない。
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空は曇っている。
薄い灰色の雲が広がっていて、
夏の終わりの朝特有の湿った空気が漂っていた。
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サンダルの音だけが、
静かな道に響く。
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海が近付くにつれて、
潮の匂いが濃くなる。
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堤防を越える。
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波の音。
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まだ人も少ない海。
灰色の空と海が繋がって見えた。
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……なんか好きかも。
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晴れた海も綺麗だけど、
こういう朝の海は静かで落ち着く。
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澪は砂浜へ降りる。
湿った砂が足に沈んだ。
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ふと、
最初の日を思い出す。
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「あのー、サーフィンやってますか?」
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あの日。
海で見た蒼は、
どこか遠い人だった。
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怖そうで。
疲れてて。
でも優しかった。
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「よし……」
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ウェットへ着替え、
海へ入る。
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冷たい水。
曇り空。
静かな波。
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パドルする。
沖へ出る。
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波待ち。
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最初の頃は、
立つ事で必死だった。
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でも今は、
少しだけ周りを見る余裕がある。
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遠くの水平線。
風。
波の流れ。
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波が来る。
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澪はボードを返し、
勢いを合わせる。
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立つ。
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少しだけ不安定になりながらも、
波を走る。
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風が気持ちいい。
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「っ……!」
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そのまま波を抜け、
海へ落ちる。
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冷たい。
でも、
楽しい。
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澪は海の中で笑っていた。
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何本か乗る頃には、
少しずつ空が明るくなっていた。
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雲の隙間から、
光が差し始める。
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海の色も、
少し青く変わっていく。
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「はぁ……」
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澪はボードを抱えて浜へ戻る。
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なんか今日、
1人でもちゃんと楽しかった。
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それが少し嬉しい。
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シャワー室へ向かう。
すると。
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「あ!」
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小学生くらいの男の子が、
澪を指差した。
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「もしかして澪ちゃん?」
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「あ!この間の!」
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澪が笑う。
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「なんで私の名前知ってるの?」
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「あのお兄ちゃんから聞いたんだよ!」
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「蒼の事かな?」
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澪がスマホを取り出し、
蒼の写真を見せる。
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「うん!このお兄ちゃん!」
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「あーやっぱり」
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男の子が笑う。
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「この間のお姉さん怖かったって話したんだよ!」
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「それはぼくが、おばさんって言うからでしょ〜?」
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「ごめんなさいw」
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澪が吹き出す。
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「お兄ちゃん澪ちゃんの事ニヤニヤしながら話してたよw」
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「えぇ〜?」
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なんか想像つく。
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「あのお兄ちゃんは蒼って言うんだよ」
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「蒼君と澪ちゃんね!」
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「カップルカップル〜!」
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「お似合いだね!」
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「やめなさいw」
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澪が笑う。
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「学校は?」
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「今日振替で休みなの」
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「そうなのね」
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「気を付けて遊びなよ!」
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「はーい!」
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走って行く後ろ姿を見ながら、
澪は少し笑った。
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……私、
おばちゃんみたいな事言ってる……w
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でも。
少し前までの自分なら、
こんな風に誰かと笑って話したり、
海で知り合った子供に声を掛けたり。
そんな事、
多分出来なかった。
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蒼と出会って。
海を知って。
波を待つ時間を知って。
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少しずつ、
自分の世界が広がっている気がする。
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空を見上げる。
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曇っていた空は、
いつの間にか晴れ始めていた。
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波の音が聞こえる。
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その音が今は、
少しだけ心地良かった。
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海は変わらない。
曇りの日も、
晴れの日も、
ただ静かに波を返してくれる。
その中で少しずつ、
人だけが変わっていく。




