第1話 走る男
ひっくり返した服に汗が染みこんでいく。
それは奇妙な姿だった。
夕方が終わろうとしている時間。オレンジから紺色に移り変わる世界をヴァレリウスは走っている。
後ろを振り向くことはしなかった。
振り向いてはいけないのだ。
ヴァレリウスは無言で、必死に走った。
走りながらも、哀れな狼狽が見て取れて、染み込む汗は冷や汗なのかもしれない。
服装、表情、走っている様子なども異常だったが、それでいて全くの無言だったことが、さらに強烈な違和感を感じさせた。
前からオズモンドという男が歩いてくる。
オズモンドは、ヴァレリウスと同じ町に住んでいる体のでかい嫌な奴だ。今日は新しく買った、銀のバックルのベルトを見せびらかすために町中を歩いていた。
そして、やっと自慢をする相手を見つけたので声を掛ける。
「よう!ヴァレリウス!」
この薄暗い中、まあまあ離れた距離の人物を判別できるのだから、視力を自慢した方がよさそうだ。
ヴァレリウスは無言のまま走っていて、オズモンドの声に気づいているのかどうかもわからない。
オズモンドは「どうした?何かあったのか?」と声を掛けようと思ったが、ヴァレリウスは全くスピードを緩める様子がない。このままいくと、「どうした?」の「どう…」あたりで横を通り過ぎてしまいそうな勢いだ。
オズモンドはとっさに足を出す。
必死に走っていて、視野も狭くなっているヴァレリウスが、それを避けられるはずもなく、転んで吹っ飛んで、一回転して止まった。
汗のしみ込んだ裏っ返しの服に、乾いた砂がびっしりついている。
「おい、ヴァレリウス!俺様を無視するなんていい度胸だな」
子供の頃のオズモンドはガキ大将で、ヴァレリウスはそのグループの下っ端だった。
二人はその関係を大人になっても引きずっていて、オズモンドは寝っ転がっているヴァレリウスをニヤニヤと見降ろしている。
「うう……う…」
自分のうめき声に気づき、ヴァレリウスは慌ててその口を両手でふさいだ。
口を押さえている手は震えていて、その顔は恐怖におびえ、縮こまった首を振って必死にあたりを見回している。
まるで何かに追われているようだ。
自分を転ばせたオズモンドのことなんて、どうでもいいと思うほどの恐怖に追われていた。
裏返して縫い目の見えている服に身を包み、ガクガクと震えている。その震えで、引っ付いた砂が全て落ちていくのではないかと思うほど…。
そんなヴァレリウスの様子を見て、オズモンドも少々、気味が悪くなってきた。
絶望の表情のヴァレリウス。まるで立ち上がり方を忘れてしまったかのように、無様な足取りで立ち上がり、ふたたび走り始める。オズモンドに対しては何も言わず完全に無視していて、いや、そもそも、うめき声以外の声を一切発していない。
ただ、ヴァレリウスは「なにか」から逃げなけれなならなかったのだ。
「おい待て!止まれ!待ちやがれ!!」
もちろんヴァレリウスは止まらない。
「ちっ、気味の悪いやつだ…」
そう言って歩き出したオズモンドだが、やはりどうにも気になるようで、
「…くそっ!」
そう吐き捨てて、ヴァレリウスを追いかけた。
視力のいいオズモンドだが、ヴァレリウスの背中がやっと見える程度に離されてしまった。
「あいつはどこに向かって走っているんだ。たしか、あの突き当りを右に曲がった道の先にあいつの家があった気がするぞ…」
ヴァレリウスの背中は突き当りを右に曲がった。
数回だけ行ったことのある、ヴァレリウスの家への道を思い出しながら走る。
「ハァ…ハァ…ハァ……くそっ!いくら暇だからって…何やってんだ俺は…ハァ…ハァ…」
しばらく走って、戸の開いた小さな家を見つける。
「あれだ!」
おぼろげな記憶が補正されていく。
入口の横に、壊れた農具や何かに使って余った石材などが置かれていて、それは一年以上前に来た時の記憶と重なった。
開いた戸に手をかけて中を見る。
「おい!ヴァレリウス!!」
「ひゃあぁぁぁっ!!!」
驚き、飛び跳ねたヴァレリウスはガタガタ震えながら振り返る。
手にはナイフが握られている。




