第68話 正々堂々勝負するヒノくん
朝、ホテルで俺は愛猫のファシアちゃんと涙の再会をしていた。
先輩のスマホの向こうに映る愛猫は、見るからに機嫌が悪かった。
画面に映る俺へ、何度も体当たりしてくる。
「ファシアちゃん、ごめんね。今日の夜には帰るからね」
「シャー!」
俺が優しく声をかけても、返ってくるのは聞いたこともない怒り声だけだった。
昨日、俺がホテルに泊まったせいで家に帰らなかった。
それが相当ご立腹らしい。
ファシアを飼い始めてから、外泊なんて一度もしたことがなかったからな。
「ファシアちゃん、朝までヒノくんの部屋をウロウロしてたんだよ。かわいそう!」
先輩まで、なぜか俺を非難してくる。
貴女は、俺が指定されたホテルに泊まる義務があったの、知ってるじゃないですか……。
「おーい、ファシアちゃん!」
「シャッ!」
どれだけ宥めても、愛猫の怒りは収まりそうにない。
これは帰ったら、マッサージ一時間コースだな。
愛猫の機嫌取りを諦めた俺は、先輩との通話に切り替えた。
たまにファシアの顔だけが画面にフレームインしてくるのが面白い。
「じゃ、先輩。練習に行ってきますね!」
「はーい。頑張ってね。今日も応援に行くね!」
それから、大会本部に指定された練習場へ、知り合いの車で向かった。
さて、いよいよ今日が本番だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
四回戦、俺は少し苦戦を強いられた。
相手は事前に聞いていたプレースタイルとは、まったく違う戦術を使ってきた。
アウトレンジからの体当たりだ。
「まったく……山崎くんは余計なことを教えてくれちゃって」
しかも完成度が高い。
相当練習したんだろう。体格に劣る俺は劣勢だ。
勝負は、互いに一本ずつ取った状態だった。
とはいえ、俺も無策なわけではない。
鍔迫り合いになり、睨み合いの状態になる。
その瞬間、審判から注意が入った。
「分かれて」
接近戦は審判が判定しづらい。
なので、基本的には試合が少しでも止まると、審判は二人の距離を取らせる。
相手は何度も何度も接近戦を仕掛けてくる。さらに、その勝負をわざと膠着させる。
すると、どうなるか。
「赤、反則! 時間空費!」
……鍔迫り合いを仕掛けた側が反則を取られるんだよなぁ、これが。
審判には事情がわからない。相手が無意味に時間稼ぎを狙っているように判定する。
この反則宣告を受けてから、相手は途端に俺へ接近戦を仕掛けなくなる。
反則は二回で一本になる。次に同じことをしたら、すぐ二回目の反則宣告になるからな。
中途半端に距離を取って攻めてこようとした瞬間、俺の胴が決まった。
「それまで! 勝負あり。白の勝ち!」
今回は苦戦したな。
なんとか時間を稼いで、相手に反則を取らせることができた。
控え室に戻ると、丹下くんが爆笑していた。
なんで警備員はこいつを控え室に入れるんだろう。
有名人だし、選手じゃないことくらい一目瞭然のはずだ。
「相変わらず、剣道精神の風上にも置けない卑怯な戦い方だなぁ」
「うっせえ。勝てばいいんだよ、勝てば」
ちなみに丹下くんは、自然に接近戦に持ち込むふうに見せるのが上手かった。
性悪そうな見た目どおり、かなりの演技派だ。
彼との対戦では、逆に俺が一度反則を取られたことすらある。俺が接近戦を仕掛けられているのに……。
今でもあの時を思い出すと腹が立つ。
「そんなことより、武見くんの情報を教えてよ」
おそらく準決勝で当たるであろう、優勝候補だ。
「武見くん……なぁ」
なぜか丹下くんの顔が曇る。急に口数が少なくなった。
しばらく黙ったあと、真剣な声で聞いてきた。
「ヒノくんは、今大会の武見くんの試合、見たんか?」
「一応、客席から撮ったビデオは見たけど?」
丹下くんは小さな声で何かを呟いた。
「……直接見るのが条件か」
「え……何て?」
丹下くんの声が小さすぎて、聞き取れなかった。
俺が問い返しても、彼は答えない。
ただ、似合わない笑顔を無理やり作って言った。
「まあ、ヒノくんなら対戦したらすぐ分かるわ! 頑張ってな!」
そう言って去っていく彼。
彼を追って控え室を出て、後ろ姿を眺めた。
奴は警備員と親しそうに会話していた。
……警備員、仕事してくれ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「あぁ、なるほどな……」
準決勝、武見くんとの戦いだ。
向かい合った瞬間、俺は丹下くんが何を言いたかったのかを悟った。
武見くんは左ふくらはぎが肉離れしている。
もう少し専門的に言うと、腓腹筋の筋損傷――筋挫傷だ。
とても剣道ができるコンディションではない。
そんな情報は、噂レベルですら耳に入ってこなかった。
きっと陣営が隠しているんだろう。
丹下くんはこのことを言いたかったのか。
俺はビデオを何回も見返したが、まったく分からなかった。
やっぱ、奴は化け物だよなぁ。観察力がすごい。
警察官とか向いてそうだ。
「ヤァァァッ!」
武見くんが突っ込んでくる。
予想どおりの短期決戦、接近戦だ。
俺はなんとか凌いだ。
左足を怪我していて、この踏み込みができるのか。
そして彼は、仕掛けが不発に終わると素早く引いた。
四回戦で俺が『反則狙い』の戦術を使ったのが、効いているんだろう。
距離を切って、審判の注意を食わない形に戻しているわけだ。
ここが勝負だ。俺は相手の右胴を狙う。
「胴ッ!」
相手は辛そうだ。そりゃそうだ。
引くときには左足が一瞬、支点になる瞬間がある。
その瞬間に反対側の胴を狙っている以上、衝撃は全て怪我をしている左足で受け止めることになる。
それを繰り返す。
三回目あたりで、相手は俺の戦術に気づいたようだ。
面の奥から憎々しげな視線が飛んできた。
五回目あたりで、相手が明確にふらつき始めた。
「胴ッ!」
「赤、胴あり!」
初めて試合が動く。
俺の胴が、今までとは逆に左へ吸い込まれていった。
俺は周囲を見渡す余裕すらあった。
満員の府立体育館。
膠着したようにも見える試合で、初めて決まった一本。
観客たちはここからも名勝負が見られると思っているだろう。
だけど残念。あとは一方的な戦いになる。
武見くんの炎症はどんどん酷くなっていく。歩くのすらしんどそうだ。
彼は踏み込んでこない。もうそれもできないのだろう。
少しふらついた瞬間、俺は一撃で決めてやることにした。
「胴ッ!」
「赤、胴あり! それまで、勝負あり! 赤の勝ち!」
これで、少なくとも準優勝は確定した。
俺は顔が緩まないように意識しながら、立ち合い線に戻る。
そして蹲踞の姿勢に戻り、審判の掛け声を待つ。
そこで違和感を覚えた。
――バタン
武見くんが後ろ向きに倒れた。
あぁ、そうか。あの左足の状態で無理にしゃがもうとするからだ。
俺は慌てて駆け寄る。
武見くんは滝のような脂汗を流しながら、面の奥から俺を睨みつけてくる。
審判が駆け寄ってくる。
「武見くん! 大丈夫かね! 武見くん!」
看護師が駆けつけ、担架が運ばれてくる。
そのタイミングで俺は審判から、控え室に戻るよう指示された。
「すごい精神力だな……」
酷い怪我を押して出場して、それで全国ベスト4。
急性期の肉離れの特徴は『痛み』だ。とにかく痛い。
鎮痛剤を飲んでいても、鍼で抑えても痛い。
控え室では、また丹下くんが待っていた。
「いつも通り容赦ないなぁ、ヒノくんは」
「全力を尽くさないのは無礼に当たるからね。君も同じことしただろ?」
「まぁ、そうやけどなぁ」
椅子に座り込み、少し息を整えた。
そして、丹下くんに決勝の相手の情報を聞いた。
「決勝の相手はどんな感じ?」
彼はなぜか残念そうな顔をして、天を仰ぐ仰々しい演技をしてから答えた。
「君が得意なタイプの相手やで」
しかも大学名を聞く限り、俺への対策はできていなさそうだ。二回戦で戦った相手と同じ大学だったからな。
選手の特徴を教えてくれる丹下くん。
ちょっとした癖、得意なパターン、苦手なパターン。
ビデオを見るより数倍役に立つアドバイスだ。
綾辻先輩の分析より、何倍も密度がある。
一通りアドバイスを終えると、捨て台詞を吐きながら控え室を出ていった。
「あぁ、こんな卑怯者が日本一なんて世も末やわ」
「うっせぇ、警備員に突き出すぞ」
――俺はその日、中学時代からずっと夢見ていたことを叶えた。
『日本一』。俺は全国の大学生の頂点に立ったのだ。
綾辻先輩、大学の仲間、練習に付き合ってくれる仲間。そして、丹下くん。
俺は本当に周囲に恵まれているなぁ。
表彰式、俺は自然と流れる涙を止めることができなかった。




