第57話 敗北の味
十三、この街はいろんな顔を持っている。
まず、阪急沿線に住んでいる人が真っ先に思い浮かべるのは交通の要所だろう。
阪急の全路線が止まる駅は、乗り換えの拠点でもある十三と大阪梅田だけだ。
そして次に浮かぶのは、飲み屋街だろう。
大阪にはいくつもの有名な飲み屋街がある。
十三はその中だと、少し地味な扱いをされがちだ。大阪市民の中には、十三を「飲み屋街」として意識していない人もいる。
だけど俺は、十三が好きだ。
職場から近いのもあるが、とにかく安くて美味い。しかも個人店が多い。
俺は丹下くんを連れて、一軒の店の前に立った。
「この店が最近のお気に入りなんだよ」
「暑うなってきたのに、おでんかいな。まぁええけど」
俺たちは二階の座敷に案内された。まだ開店直後なので、そこまで人はいない。
立ち飲み屋が多い十三で、じっくり座って談笑できるのがこの店のいいところだ。
「日野くんは医学部と鍼灸院の二足のわらじ履いとるんよな。いつも忙しそうで大変やね」
実は俺たちが会うのは二年ぶりだったりする。
高卒で警察に行った彼と、医学部に入った俺。
正反対の人生と言っていいかもしれないが、意外に話が合う。
「実は、プロ野球球団のスタッフもやってるんだよね。三足のわらじなんだ」
俺の答えに、丹下くんが少し目を開いた。
「そら、いつLINEしても予定が空いてへんわけやな」
俺の休みなんてほとんどない。
丹下くんも警察官。三交代みたいな変則的な勤務体制で、さらに忙しい。
俺と飲みにいく調整なんてものは、ほとんどできないわけだ。
少し話していると飲み物が運ばれてきた。
彼はチューハイ、俺はハイボール。小さくグラスを合わせた。
「それにしても、日野くんが医学部行くとは意外やったな。高校の頃はスポーツ推薦で大学行くと思ってたわ」
「声はかけられてたんだけどね」
その時はあんまり剣道を続けることに興味がなかった。
俺は二年生の時に足首を捻挫したことがあった。
その影響で、その年のインターハイには出られなかった。
その頃に鍼灸師にかかったんだけど、それが運命の出会いだった。
「怪我の功名というか、その時に鍼灸師になりたいと思ったんだよね」
鍼灸師が小さな鍼を打つと、筋肉が震える。痛みが消える。
魔法みたいだった。
目を丸くしている俺に、施術者は丁寧に説明してくれた。
君の筋肉の余計な緊張をほぐしているんだよ。痛みの元をブロックしているんだよ。
――そして俺は思った。この目があるなら、もっと上手くやれるんじゃないかと。
それが鍼に興味を持ち始めたきっかけだ。
その時、俺は他の部員にマッサージすることにハマっていた。
でも、鍼というのはマッサージよりも、さらに自分の能力を活かせるのではないかと思ったのだ。
あの時のことを思い出して黙った俺に、丹下くんもしみじみと呟く。
「二年のインターハイなぁ。あの時、君に出てこられたら確実に負けとったわ」
そして、変なことを言い出した。
彼は剣道が鬼のように強い。
一度戦った時以降、高校時代に何度も戦ったが、彼に一度も勝てたことがない。
「いや、君なら俺相手でも余裕でしょ」
「そん時はまだ、君の変態戦術に対応する戦術が完成してへんかったからな」
あぁ……コイツが生み出した、あの忌々しいアウトレンジ体当たりのことか。
実はあれは結構難しい。
剣道で接近戦になること自体は珍しくないんだが、そこでの打ち合いが続くことは通常ない。
有効判定が取られにくくなるし、あまりに両者が近くなりすぎると審判が離れるように指示するからだ。
審判に見逃してもらえるギリギリの近さで殴り続ける。
それがかなり難しいわけだ。
そして俺ももちろん、接近戦を練習するので、極めて有利というわけでもない。
ひとしきり愚痴をこぼした丹下くんは、最後に降参するように両手を挙げた。
「ほんま、キミの戦術は嫌らしいわ」
「キミのせいで、俺の対戦相手全員が体当たりしてくるようになったんだけどね……」
二年生の冬にコイツと対戦してから、俺の対戦相手は揃いも揃って体当たりをしてくるようになった。
今まで楽勝だった試合が、急に能力が活きない接近戦ばかりにさせられた俺の身にもなってほしい。
大学に行かなかったのは、それが一つの理由だったりする。
俺の体格は丹下くんほど恵まれていない。剣道のトップ選手の中では小柄な方だ。
年齢制限がなくなった大会で、接近戦で勝ち続ける未来が見えなかった。
でも、そのおかげで俺はもっと大きな使命に気づくことができた。
苦しむ人を救う。才能あるアスリートたちを活躍させる。
「本当にキミに出会えて良かったよ」
小さく笑う俺に、丹下くんは笑い出した。
「良かったんか、悪かったんか、どっちやねん」
確かに、少し前まで恨み言を言ってたのに、そんなことを言い出したら奇妙にしか思えないだろう。
丹下くんだけではない。剣道の腕を競い合った好敵手全員に感謝している。
あのまま勝ち続けたら、俺はきっと鼻持ちのならない傲慢な人間になっていたと思う。
負けたからこそ、俺は成長できたのだ。
全く。俺は周りの人に恵まれてばかりだな。
いつにも増してそう思った。
いつもの十三。親友と過ごす時間は、あっという間に過ぎていった。




