第56話 脊椎
さて、丹下くんの脇腹の痛みは筋挫傷だ。
まず筋挫傷に対する根本的な治療は、基本的には『放置する』だけだ。
医者や鍼師は治療魔法が使えるわけではない。
断裂した筋組織そのものを、その場で繋げられるわけじゃない。
……正確に言うと、筋組織を縫合する手術は整形外科的には存在する。だが、この程度の怪我でそんな侵襲性の高い手術はしない。
「じゃ、痛みを落としていくね。鍼が痛かったら言ってね」
まずは神経をかばうように、体が防御的に固めている筋肉を緩めていく。
外腹斜筋の損傷部そのものより、周囲が防御反応で固まりすぎている。肋骨弓の際から腹横筋にかけて緊張が連鎖し、疼痛が増強している。逆に、損傷の芯はまだ触らないほうがいい。
丹下くんは仰向けの態勢なので、俺の手元は丸見えだ。
頭を少し持ち上げて、俺の施術をまじまじと眺めてくる。
「鍼は慣れてるけど、私服のやつが刺してくるん、ちょい怖いわ」
「まあ、手は消毒してる。施術着に着替えるの面倒なんだよね。どうせこの後、飲みに行くし」
そう言った後、俺は一気に集中する。
まず、不要な緊張だけを緩める。
筋肉の防御的な緊張は身体にとって必要だ。
全部取れば、動きは良くなるし痛みも減るだろうが、そのぶん患部に負荷がかかる。
今回は痛みをゼロにするのが目的じゃない。守るべき緊張まで抜くと、傷んだところに荷重がかかって悪化する。動ける範囲を広げつつ、患部は守らせたままにする。
「よし、これで患部の周りの筋肉は緩んだね」
「うーん、あんまり効果わからんわ」
丹下くんは腹を擦っている。
「ここは動く時に痛くなるから、まだ実感しにくいかもね」
これで治療の第一段階は終わった。
そして、ここからは俺の目に頼らない伝統的な鍼の力だ。
「じゃあ、次はうつ伏せになって、力抜いてもらえるかな」
「わかった……痛っ。やっぱこの姿勢、脇腹にくるな」
ここからの施術では、俺は鍼の種類を変える。
さっきまで使っていた3番という細めの鍼ではなく、6番の鍼にする。
しかも長い。太くて長い、見た目が凶悪なやつだ。
今回は、深層に『届く刺激量』が要る。太さと長さを上げるのは、乱暴にするためじゃなく、狙いを外さず一回で決めるためだ。
6番というのは、髪の毛の3倍くらいの太さだ。
強い刺激を与えたい時に使う。
6番は、俺が実務で使う最大の太さだな。
一応、日本の規格上は10番まである。
俺は8番という激太の鍼までは常備している。
だけど8番の鍼は使ったことがない。こんな太さのものを患者さん相手に使うのは可哀想だ。痛すぎると思う。
「ちょっと刺す時に痛いけど、すぐ慣れると思うから」
俺は鍼鞘を使って、その長くて太い鍼を刺した。
これくらいの太さでも、皮膚は問題なく貫通することができる。
「痛っ、ちょっと今のはさっきより痛いかも」
「痺れとか息苦しさがあったら、すぐ言ってね」
今、背中に刺した目的は脊椎の近くを刺激することだ。
俺が得意とするエコー鍼が筋肉を改善させるのを目的とするなら、こっちは痛みを取るのが目的だ。
実はこちらの方が鍼の基本的な考え方には近い。俺の普段の施術は少しだけ邪道(というか西洋的、整形外科的アプローチ)に近いわけだな。
「あれ、なんか痛み止まったわ……背中に一本だけ打ったんよな?」
俺の理想は一撃必殺だ。
まあ、これで痛みが弱まらなかったら、別に目星をつけていた場所に刺していたけど。
「流石に痛みが止まってはなくない? 多少は減ったと思うけど」
「いや、これくらいの痛みならないのと一緒やわ」
えぇ……。十分に痛いと思うけど。変態なんだろうか。
やっぱり、機動隊の警察官というのは痛みも感じなくなるんだろうか。
この鍼は麻酔のような効果を発揮する。
患部とは遥か遠くの背中に刺した鍼。
これは痛みのスイッチをオフにすることができる。
昔から経験的に、背中に鍼を打つと痛みが和らぐことは知られていた。
それが腹の筋肉であってもだ。
一応、解剖学的にもこの現象にはそれなりの説明が付けられている。
そもそも、痛みというのはその箇所で発生しているわけではない。
脊髄で処理されているのだ。
体の各部位から上がってきた信号は、脊髄の対応する部位に集まる。
それを脳が検知して、痛いと錯覚する。
「今打ったのは、君が痛めた筋肉の信号を処理する脊髄の部位、その近くなんだよね」
なぜ、脊髄の近くに鍼を打つと痛みが止まるのか。
デルマトーム、ミオトーム、抑制性介在ニューロンとか、いろいろ学説はあるらしいが、西洋医学的には完全に解明されてはいない。
というか、その原理を解明しなくても困らないから、研究が後回しにされている。
医者なら鎮痛剤で痛みを抑えられる。
最悪の場合は医療用麻薬のオピオイドで痛みを抑えられるからな。
東洋医学の神秘(?)というやつだな。
機序は諸説あるけど、再現性はある。臨床では『痛みの出力を落とす手順』として成立している。それで十分だ。
俺は鍼を抜き、刺入点を指で押さえて止血を確認する。皮膚の赤みと出血がないのを見届けてから、丹下くんにゆっくり上体を起こしてもらった。立ちくらみがないか、呼吸が乱れていないかも確認する。
「じゃあ、施術は終わり。飲みに行こっか」
本当は施術後に飲酒はしない方がいいけど、それは一般人の話だ。ゴリラには関係ないだろう。
「お前、めちゃくちゃ腕ええな。全然痛うないんやけど」
「痛くなくなっても筋肉は傷ついているから、無理に動いちゃダメだよ」
……絶対まだ痛いはずなんだけどなぁ。
筋トレのしすぎで脊椎の中まで筋肉になってしまったんだろうか。
もう治療は終わったので、俺は飲みに行くモードに切り替わっている。
「さ、飲みに行こうか。十三にはおすすめの居酒屋がいくらでもあるんだよね」




