第43話 何もしないということ
早川選手は、挨拶の時以外ほとんど喋らなかった。
返事は短く、視線も必要以上にこちらを向けない。
――たぶん、犬飼コーチはそこまで同意を取ってないな。
無理やり呼ばれてきたわけではないが、積極的に期待している感じでもない。
その曖昧さが、早川選手の立ち姿から滲んでいた。
「ちょっと、投球フォームを見せてもらってもいいですか?」
俺がそう言うと、早川選手は一瞬だけ犬飼コーチの方を見る。
犬飼コーチは小さく頷いた。
犬飼コーチが短く声をかける。
「よし。じゃあ、室内練習場行こうか」
医務室を出て、少し外を歩き、屋内練習場に入った。
空気が一気に変わる。
天井の高い屋内練習場。人工芝の匂いと、反響する足音。
さっきまでの静かな部屋とは、明らかに別の世界だ。
早川選手はブルペンキャッチャーに向かって、淡々とボールを投げ始めた。
最初の一球。
ミットに収まる音は、乾いていて悪くない。
きっと本心では、
「野球素人に何が分かるんだ」
そう思っているはずだ。
それを一ミリも表に出さないのが、名門野球部出身者の凄さだ。
監督への絶対服従。地獄のような大学野球。
それを耐え抜いた人間は、礼儀という点では頂点に近い。
早川選手からは浮ついた雰囲気は一切感じなかった。
――今のところ、鍼でできることはないな。
もちろん、体のメンテナンス程度ならできる。
だが、今はそれをするタイミングじゃない。
俺は、よく「人間MRI」と呼ばれることがある。
だが、MRIでもできないことがある。
それは――動いている筋肉を、その場で見ることだ。
フォーム、タイミング、筋肉の収縮。
十球ほど、タブレットに細かく記録していく。
早川選手は、ややサイド寄りのオーバースロー。
スリークォーターと言っていい。
安定している。
少なくとも「今日は」。
横目で見ると、先輩が俺のタブレットをしげしげと覗き込んでいた。
ごちゃごちゃの線と略語だらけのメモ。
何を書いているかは分からないはずだが、興味深そうに眺めている。
「やっぱり、コントロールが安定しない感じですかね?」
腕組みして投球を眺めている犬飼コーチに、話を振る。
「たまに、ええ感じの時もあるんや。
でもな、次の試合に出したら四球だらけ。
それを去年はずっと繰り返しとる」
ブルペンの外で見た、ベンチの沈黙。
その空気が、言葉の端から想像できた。
――ダメ元で、見てほしかった。
そんなニュアンスだ。
最後に、俺は早川選手本人に尋ねる。
「今日の調子は、どうですか?」
「……まあ、今日はマシな方です」
――『マシ』。
その言い方が、少しだけ引っかかる。
投球ごとに、筋肉の動きに大きなブレはない。
だが、日によって差が出るタイプに見える。
となると――
あと、何回か見る必要がある。
「ありがとうございます。
また、明日も来させてもらいます」
そう言って、俺は何もせずにその場を離れた。
背中に、早川選手の視線を感じる。
少しだけ、呆気に取られているような気配。
少しだけ話してくれたところによると、
今日は「神業鍼灸師が来る」と犬飼コーチに言われて、集合練習から抜けてきたらしい。
身構えていたら、自分よりも年下の若者が来て、
しかも鍼も打たずに帰っていく。
意味が分からないだろう。
鍼師というのは、原因が分からなくても何かをする職業だ。
実際、俺もバイト先ではそうしている。
彼のよくないところ、直した方がいい筋肉も、見つけてはいる。
鍼を打てば、今よりは多少はマシになるはずだ。
だが、俺は敢えて何もしなかった。
――今、手を出すと根本原因を捉えられなくなる。
「犬飼コーチ、相談があるんですけど。
早川選手の投球を記録している映像、もらえませんか?」
「おぅ。メディア室にあるやつ貸したるわ。
あとで返してな」
渡されたDVDは、五枚。
少し角が丸くなっていて、年季を感じる。
きっと何度も見返されたんだろう。
「ヒノくん、今日は早川に治療してくれへんのか?」
「最低、三回は見せてください。
日ごとにコントロールがズレるってことなので、
どこかの筋肉が、うまく再訓練できてないんだと思います」
犬飼コーチが、一瞬だけ目を見開いた。
「まぁ、君がいうならそうなんかな」
俺のタブレットには、すでに大量の情報が入っている。
ここからが、机上戦だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ランチ営業をしている居酒屋で、宮崎名物を食べる。
宮崎といえば、やはりチキン南蛮だ。
本場だけあって、店ごとに流派が違うらしい。
ソースにムラがある。
どこから食べるか少し迷っていると、先輩が声をかけてきた。
「ねぇヒノくん。
さっき、早川選手……治療しなくてよかったの?」
もっともな疑問だ。
医療者は、患者との信頼関係を築く仕事でもある。
医者なら薬。
鍼師なら、一本の鍼を刺すこと。
患者にとって何かしてもらったという実感は、大事だ。
だが、俺は何もしなかった。
鍼は良かれ悪かれ筋肉を大きく変えてしまう。
「次に行った時、
鍼の影響でフォームが変わってたら、考察できないですから」
「なるほどねぇ……
でも、ちょっと可哀想な気もしたな」
「犬飼コーチとの信頼関係があるから、できるやり方ですね」
本当は、メンテナンス程度ならできた。
ピッチャーの治療経験が少ない分、投球への影響を読み切れなかったのもある。
「トミー・ジョン手術って、
授業では概要しかやらないからさ。
ヒノくんの方が詳しい気がする」
「医師国家試験には、ほぼ関係ない知識ですから」
トミー・ジョン手術は、整形外科の一つの到達点だ。
手術の技法の進化も素晴らしいが、それよりも手術後のリハビリが凄い。
かつて成功率一%と言われた手術が、
七割を現役復帰させるまでに進化した。
その裏には、何百人もの失敗事例――アスリートの死が積み重なっている。
「早川選手が戻れてない以上、
どこかでリハビリが噛み合ってないんです」
「なるほどねぇ」
原因が分からないまま治療するのは、意味がない。
むしろ、害になることすらある。
――もし見誤れば、壊す。
それでも。
この目があるなら、辿り着けるはずだ。
「それにしても、本場のチキン南蛮って美味しいですね。
甘酢がちゃんとしてる」
「そうでしょ。大阪のチキン南蛮とは、作り方からして違うんだから」
その後は、猫を取りに別荘に帰り、
一緒に宮崎観光をたくさんした。




