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服の下を透視する能力を得たら、あなたは何をしますか?  作者: メモ帳パンダ
右肩に棲むもの

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第42話 リハビリ

「ファシアちゃん、今日はお留守番できるかなぁ?」


「ニャン……!」


 甘えた鳴き声を出しながら、ファシアは俺の足首にぐるりと体を擦りつけてくる。

 俺が上着を手に取った瞬間に、必ずやる仕草だ。


 何度も見ている。

 それなのに、そのたび胸の奥が少しだけ締め付けられる。


 本当は連れて行けたらいい。

 慣れない別荘だし、環境が変わって落ち着かないだろうから、できるだけ一緒にいてやりたい。

 ――でも、これから向かうのはプロ野球の春季キャンプ地だ。

 ペット同伴可、なんて都合のいい世界ではない。


 部屋の出口で、ほんの数秒だけ立ち止まる。

 そのあと俺はしゃがみ込み、ファシアの頭をゆっくり撫でた。


「すぐ戻るからな」


 指の腹に、いつもより少しだけ強く押し返してくる感触。

 それを合図に、少し大げさなくらいの別れを済ませる。


 最近は、留守番をしてもらう時、YouTubeをつけておくことが多い。

 テレビの前に座らせ、リモコンでアプリを起動する。


 この子は自然系のドキュメンタリーが好きだ。

 特に鳥が出てくる映像になると、反応がはっきり変わる。


 画面の中で羽ばたく野鳥に、首をかしげ、耳がぴくりと動く。

 ヒゲがわずかに前を向き、口を少し開けたまま、ぽけっと見上げている。

 どうしようもなく、かわいい。


 もっとも、そのまま十分もしないうちに、丸くなって眠ってしまうことが多いのだけど。


「行ってくるね」


「……」


 返事はない。

 ファシアの意識は、すでに画面の中で飛び立つ野鳥に完全に奪われていた。

 俺の方を見る気配すらない。


 少し寂しい。

 でも同時に、これなら大丈夫だろう、という妙な安心感もある。

 やっぱり、動くものには敵わないらしい。


 外に出ると、すでに車の運転席には綾辻先輩が座っていた。

 運転は、基本的に先輩に任せている。

 俺も免許は持っているが、正直に言えば、完全なペーパードライバーだ。


「もうナビはセットしてあるから、出発できるよ」


「ありがとうございます」


 別荘を出て、車は静かに走り出した。


 キャンプの本拠地である球場までは、車で二十分ほど。

 窓の外には、低い建物と、やたらと空の広い景色が流れていく。

 日差しは柔らかく、潮の匂いがわずかに混じっている。


 正直、宮崎には来たことがなかった。

 だから、もっとのどかな場所を想像していたのだが――


 意外と、というと失礼かもしれないが、ちゃんと発展した都市だ。

 コンビニもあるし、ロードサイドの店も多い。


 何より印象的なのは、道路から海までの距離の近さだ。

 無粋なテトラポットや高い堤防がなく、視線を少し横にやるだけで、青が広がっている。


「宮崎って、もっと田舎だと思ってました」


「それ、宮崎の人に言ったら怒られるよ」


 先輩が笑いながら、ハンドルを切る。


 やがて見えてきたのは、地方都市にありがちな、少し年季の入った球場だった。

 だが、近づくにつれて、乾いた打撃音や掛け声が風に乗って聞こえてくる。


 綾辻先輩は、思っていた以上に立派な球場に、少し驚いた顔をしていた。


「市民グラウンドくらいだと思ってた」


「宮崎は、春季キャンプの聖地みたいなものですから」


 プロ野球の春季キャンプは、ただ球場があるだけでは成立しない。

 雨天時に使える屋内練習場、宿泊施設、移動動線――

 そのすべてが揃って、初めて球団を呼べる。


 宮崎市は、それを公費で整備した。

 だから今、こうして複数球団が同時にキャンプを張っている。


「別荘の近くにも、野球場あったよね?」


「はい。あそこでは、東京に本拠地を置く人気球団がキャンプしてます」


 散歩圏内に、某有名球団のキャンプ地。

 この時期の宮崎で、ホテルが取りづらくなる理由だ。


 球場の入口付近には、サイン待ちをする若いファンの姿があった。

 ユニフォーム姿の高校生や、タオルを握りしめた大学生。


 本来、プロ野球選手を街中で出待ちするのはマナー違反だ。

 だが、春季キャンプだけは例外的に、サインに応じてくれる場所が用意されている。

 ――この時期だけは、選手とファンの距離が、少しだけ近い。


「すみませーん、犬飼コーチに呼ばれたんですけど」


「ゲートまで案内しますね」


 入場証をスタッフに見せ、案内された通路を進む。


 隣を見ると、綾辻先輩が妙に楽しそうだ。

 表情は控えめだが、歩くテンポがわずかに軽い。

 関係者しか通れない裏動線。

 その距離感が、特別感を際立たせている。


 小声で、そっと囁いてきた。


「見て。ヒノくんの好きな選手じゃない?」


 指差す先にいたのは、我が球団のスーパースター、遊撃手の大和田選手。

 派手なプレーはしないが、毎日同じ精度で結果を出す男だ。

 俺が一番信用しているタイプの選手。


 まさか、野球に興味のなかった先輩が、俺の好きな選手を覚えているとは思わなかった。


 ありがたいな、と思う。

 同時に、俺は先輩の趣味を、どれだけ知っているんだろうかと、ふと考えてしまう。


 そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。


「ヒノくん! よう来てくれたな」


 犬飼コーチだ。


「早速やけど、医務室に来てくれや」


 その一言で、空気が切り替わった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 医務室で向き合っていたのは、六大学野球のスーパースター。

 ドラフト一位で鳴物入りで入団した男――早川選手だった。


 大学附属高校のエースとして、チームを宿願の夏の甲子園の頂点に導いた投手。

 以前、引退試合を見に行った時、先輩が「好きだ」と言っていた選手でもある。

 プロでまだ結果を残せていないにも関わらず、異様なほど名前が知られている。


 俺は、投手の命とも言える肘に触れながら、静かに考えていた。


 腱や靭帯を損傷した野球選手は、基本的に引退を余儀なくされる。

 犬飼コーチも、肩の腱の怪我に泣かされた一人だ。


 だが、例外が一つだけある。

 手術を受ければ、現役を続けられる可能性がある靭帯。


 内側側副靱帯。

 そして、その手術は――トミー・ジョン手術。


 無言で肘を見続ける俺に、犬飼コーチが少し焦れたように口を開いた。


「ヒノくんから見て、早川選手の肘はどうや?」


 早川選手は、入団直後にトミー・ジョン手術を受けている。

 手術から、すでに三年近くが経っていた。


 リハビリは終わっているはずだ。

 だが、成績は伸び悩んでいる。


「医学的には……手術そのものは、成功していると思います」


 アンカーで腱を骨に固定する。

 よく誤解されるが、アンカーが肘の動きを支えるわけではない。


 重要なのは、移植した腱が骨に定着することだ。

 それには、年単位のリハビリが必要になる。


 俺の目には、その定着がかなり良好に見えている。

 移植された腱は、驚くほど綺麗だ。


 術後、球速も回復している。

 むしろ、手術前より速くなっているという。


 トミー・ジョン手術の成功率は高い。

 現役復帰の確率は、九割近い。


 だが――

 一軍レベルに戻れるのは、七割。


 残りの三割は、どこかで躓く。

 努力が足りないわけでも、才能がないわけでもない。

 ただ、噛み合わない。


「早川選手のトミー・ジョン手術は、外科的には完全に成功しています」


「俺の時みたいに、鍼でパパッと解決……って感じでもなさそうやな」


「そうですね」


 鍼は、あくまでツールの一つだ。

 だが、頼まれた以上、俺は逃げない。


 この投手を、もう一度、投げられる状態にする。

 犬飼コーチが辿り着けなかった場所へ。


 そのために、やれることは全部やる。

 腹の奥で、静かにそう決めていた。

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