94. 恋をしている 後編
2024/1/27 解説を修正。64話→65話と直しました。
アンヌは二の句が継げなかった。
今朝早く、アングレーム公はミタウを発った。このことを知っていたのは、王と少数の臣下、そしてセラン夫人のみ。
我が女主人でさえ、知らされていなかったという。
それだけではない。
ちょうど今朝、我が女主人は泣き腫らした顔だった。寝具を整えた女官の話では、枕も濡れていたというのだ。
アンヌは、とうとう怒りを抑えられなくなった。
主従二人しかいない場で、強く訴えた。
「彼はテレーズ様のご夫君として、とうていふさわしい男性ではありません!」
「落ち着きなさい、アンヌ」
こんな状況だというのに、我が女主人はあり得ないほど、ゆったりと構えている。
「いっそのこと、テレーズ様から陛下にお話をして、結婚を解消なさればよろしいのに」
「あなたは、私の代わりに怒っているつもりなのね」
なら、と我が女主人は続ける。
「聞き苦しいことを怒鳴るのは、もう止めにしなさい」
心外だった。この宮廷にいる誰もがアンヌと同じ考えでいるはず。それを聞き苦しいと言われた。
「私は決めたの。誰が何と言おうと、アングレーム公の帰りを待つって」
こちらの気持ちを尻目に、我が女主人は微笑みを浮かべる。無理に作った表情には見えず、怒りや悲しみ、諦めといった感情もうかがえない。
「だって、私はあの人の妻。アングレーム公妃だもの」
アンヌは思った。ひょっとして、と。
休憩時間になり、礼拝堂に行った。
今朝のことをマリ神父に話すも、彼は驚いた様子を見せない。
「もしかして、妃殿下のお気持ちを知っていたのですか?」
「あいにく、答えかねます」
またこの返事。
(テレーズ様は殿方の好みが少し、というより、だいぶ変わってるんだわ)
とでも考えないと、アンヌは自分を納得させられない。
「マリ神父」
「はい」
「夫婦とは二人で一体であり、引き離すことは出来ないのですよね?」
「ええ。それが神の教えです」
「なら……」
大きな問題は、まだ残されている。
何故アングレーム公は、結婚を完遂させないまま、我が女主人を残していったのか。
あの伯父にして、あの甥だから。
むしろ他の理由があるだろうか。
そういえば、結婚式の前日にダヴァレー伯が話していた。アングレーム公には同性愛者という噂もあると。
思い出した途端、アンヌは血の気が引いた。
戦場へ行くというのは口実。彼がコンデ軍に加わるのは、男あさりが真の目的ではあるまいか。
我が女主人は、すぐにでも目を覚ますべきだ。
たとえ惚れた相手であろうと、不能かつ同性愛者の男を好きになったところで、女性の側が幸せになれるはずがない。泣きを見るだけだ。
「今は別々であっても、いずれは一体になる時が訪れます」
アンヌの考えは、ぴたりと止まる。
マリ神父の口調は穏やかだが、その声には、確かにそうだと言い切る意思が感じられた。
この胸にある怒り、焦燥、やり切れなさが、自然と影をひそめる。アンヌの心を落ち着かせてくれるのは、いつもマリ神父だ。
「そうですよね。きっと自分自身のことと重ねて、だから余計に不安だったのかもしれません」
「……不安なのですか?」
「もちろんです。女なら、誰だって不安になるものですよ。夫になる殿方とは、これから初めて顔を合わせるのですから」
「そうでしょうね。まだ会ったこともない相手なら」
アンヌ自身、実感が湧かない。
今年の春、自分の夫となる男性がミタウにやって来る。自分が結婚するのだと。
だがこの縁談は、実家の父の意向。すでに決まっていることだ。
「でも、マリ神父から聞いている言葉を思い出せば、不思議と心が落ち着くんです」
「私から、聞いている言葉?」
「はい。これも神のご意思、と」
アンヌは胸の前で両手を組み、目を閉じた。
礼拝堂が、しばし静寂に包まれる。
「さて、私はそろそろ部屋に戻ります」
その言葉で、アンヌは目を開けた。
「お仕事の邪魔をしてしまいましたね。私も勤めに戻ります」
マリ神父は宮廷司祭であるだけでなく、王の秘書も務めている。決して暇を持て余している人ではない。
それなのに、二十歳そこそこの小娘のおしゃべりに、いつも付き合ってくれた。
アンヌの結婚は、今年に入ってから急きょ決まった。
年が明けて間もない頃、実家から急ぎの手紙が届いた。
父が倒れた、と。
幸い大事には至っていないというが、父は年齢的にいつ何があってもおかしくない。
実家に戻ることを周りから強く勧められたが、アンヌはミタウを離れたくなかった。
我が女主人を一人残していきたくない。ただでさえ、アングレーム公との結婚が痛ましい状態なのだから。
ミタウに留まっているうちに、実家から次の手紙が届いた。
病床に就く父には、心配事があるという。
それが、子供たちの中でただ一人未婚の末娘、すなわちアンヌの将来。
父の望みを叶えるため、すぐに縁談はととのえられた。ミタウで結婚式を執り行えるよう、結婚相手の彼が、はるばるここへ来てくれることになった。
相手の男性はダグー子爵という。年齢はアンヌより五、六歳上。
つい先日実家から届いた手紙には、彼がどういった家柄の出なのかといった話が詳しく書かれていた。
ただアンヌが最も気になる事柄、彼個人のことや人柄については、ほとんど分からない。
結婚式を執り行えば、もうショワジー嬢とは呼ばれなくなる。
ダグー子爵夫人が、自分の称号だ。
先ほどはマリ神父の前で強がったものの、本当は不安でたまらなかった。
自分の夫となる人までもがアングレーム公と似たような男だったら、この先の人生お先真っ暗だ。
けれども、嫌な考えが頭をもたげるたび、振り払うことに努めている。
末娘のために父が選んでくれた相手なのだから、きっと素敵な男性だと。そう信じることにしている。
■■■
部屋に戻ると、マリ神父は言った。
急ぎの仕事があるわけではない。
彼女と話していて、胸が苦しくなった。適当に理由を付け、あの場から離れたかっただけだ。
少し時間を置き、礼拝堂に戻る。
誰もいない会衆席。
祭壇の前に立つ。
見つめる先は、はりつけにされたイエス・キリスト像。
(これは、きっと……)
マリ神父の胸に圧し掛かる深い失望は、男としての浅ましい心。
夫婦となる二人は、神の意思で結び合わされるのだと。もう何度自分に言い聞かせただろう。
カトリックの聖職者は、家族以外の女性と親密な間柄になってはいけない。特定個人に恋情を抱いてはならず、恋人を作るなど、もってのほか。
彼女への想いは、どうあがいても実らない。自覚した時から分かりきっていた。
それでも、押しとどめておくことが出来なかった。
(きっと天罰だ)
一人の女性に恋をした、罪を犯した聖職者への天罰。
彼女は、もうすぐ他の男のものになる。顔を合わせたこともないような男の妻になるのだ。
マリ神父は絶望の淵にいた。
どれくらい、その場に立ち尽くしていただろう。
ふと、悪魔がささやいた。
もしも。
祭壇の前で夫婦の誓いを交わしておきながら、その誓いを早々に破り捨てて愛人を作る。そんな男が結婚相手だとしたら、彼女はきっと自身の不幸な運命を嘆くはずだ。
(その時こそ、私がショワジー嬢を支えて……)
悪魔が消えて、正気を取り戻した。
「愚かなことを」
唇をきつく噛みしめ、己を戒めた。
【94. 恋をしている 後編】
≪補足≫
恋がご法度というのは、カトリックの聖職者のみならず、修道士や修道女についても同様です(第65話解説より)。




