93. 恋をしている 前編
テレーズは何も聞かされていなかった。
「あの腰抜けは、コンデ軍に加わると言っている。そなたを生娘のままにしてな」
王が呆れ顔で言ったこと。
なんでも、従兄は結婚式のあと日を置かずして、パーヴェル一世に手紙を書いていた。ロシア軍の旗下で戦いたいと志願する手紙を。
その願いは聞き入れられず、コンデ軍に入ることになったという。
従兄の意向に、王は強く反対していたようだが、最終的には許したらしい。もっとも、許可をしても快くは思っていないようだが。
テレーズは自覚していた。
従兄と話をしなくては。そのためには、受け身でいるのではなく、自分から彼に声をかけなくてはと。
彼とは毎日顔を合わせていた。
朝のミサのとき、食事のとき。
だが、いつも思いとどまってしまった。寝所を別々にすると言われた時のように、突き放されるのが怖かった。
また彼の方も、相変わらずテレーズに何も言ってこなかった。
従兄が出立する前日。
夜中、テレーズは寝所で一人、腹を抱えながら寝ていた。
こんな時に限って、月のものが来た。鈍痛を訴える下腹部が、たまらなく恨めしい。
(私、逃げてるんだわ)
自分でも分かっていた。
今の体調を理由にして彼の元に行かないのは、言い訳に過ぎない。起き上がれないほどの痛みではないのだ。
本当に恨めしいのは、自分の臆病さだった。
■■■
アングレーム公は、夜明け前に身支度を終わらせた。宮殿にいる人々が起き出す前に、出発しようと決めていた。
窓の外を見れば、積もった雪が暗闇を照らしている。ミタウの雪が解ける時季は、もう少し先だろう。
部屋に従者が来た。馬の準備が整ったという。
馬車ではなく、馬に乗っていく。従者も連れていくが、ごく少数だ。
今行くとアングレーム公は答えたが、
「少し待っていてくれ」
そう言い直し、部屋を出た。
向かう先は、従妹の元。
まだ寝ている時間だろうが、むしろ眠っていてほしい。起きていたら、別れの言葉を言わなくてはならない。
まず夜の番をしている女官の元に行く。
この日の番は、セラン夫人。
アングレーム公が姿を見せると、夫人は驚いた顔をした。
「妃殿下を起こしますか?」
「いや、その……寝顔を見たいだけだ」
アングレーム公はとっさに答えたものの、言葉にした途端に気恥ずかしさを覚え、目をそらした。
「出立が本日で幸いでしたね」
セラン夫人が微笑む。
「昨夜の番は、私ではなくショワジー嬢でした。出立が昨日の今頃でしたら、あなた様は追い返されていたかもしれませんよ」
自分たち兄弟の傅育官だった、セラン侯爵の妻。
またそれだけでなく、この宮廷に仕える老女官たちの中で、アングレーム公が唯一親しみを持つ相手。それがセラン夫人だった。
夫人と共に、従妹の部屋に入る。
続き部屋の最奥、見慣れた扉の前で夫人は立ち止まった。
「今の時刻ですと、妃殿下はまだお休みなさっています」
お入りになる際はお静かに、と言って、夫人はきびすを返した。
一人残されたアングレーム公は、改めて寝所の扉に向き直る。同衾を止めて以来、久しぶりに足を運ぶ場所。
音を立てないように扉を開けた。
暗がりでは、室内の様子はよく分からないが、アングレーム公が寝ていた頃と特段変わっていないようだ。
寝台に近づくと、あるものが目に留まった。
壁際に四角い物が置かれている。よく見ると、それはケージ。
中には、ココがいる。
アングレーム公がそばに寄って床にしゃがんでも、起きる気配はない。護衛の任は務まっていないが、今はそれが幸いだ。
従妹と同衾しなくなってから、ココとも疎遠になっていた。
これからは本当に離れ離れになる。
その体を撫でることが出来ない代わりに、心の中で伝えた。
(ココ、テレーズのことを頼んだぞ)
立ち上がり、続いて従妹の元へ。
天蓋のカーテンを引き、寝台の端に腰かける。
すると従妹が身じろいだ。アングレーム公は腰を浮かせ、息をのんで様子をうかがった。
彼女は目覚めない。
ひとまず胸をなで下ろし、今度は、より慎重に腰を下ろした。
波打つブロンド、うつぶせ寝のせいで半分隠れている顔、色白の肌、枕の横に置かれた左手。
日が差し込む時間であれば、今よりもはっきりと彼女の姿が見えたはず。そう思うと口惜しい。
以前は、毎朝目覚めるとともに見ていた寝顔。こうして眺めるのは、これが最後になるかもしれない。
王族は一兵卒に比べて、戦場で命の危機にさらされることは少ない。だが戦場それ自体が危険な場所であることには変わりない。
また戦争とは別の問題。
弟に従妹の相手をさせるという話も、忘れていない。
振り返れば、再会を果たした日から今日まで、アングレーム公は酷く不格好な男だった。
十年ぶりの再会となった、あの日。
従妹は馬車から降りるなり、泣きながら駆け寄ってきた。
その姿を目にしたアングレーム公は、何と声をかけたらいいか分からなくなった。
どうすれば、従妹は泣き止むか。ヴェルサイユで別れた日のように抱きしめるのは、さすがにぶしつけだと思った。
アングレーム公が何も出来ないでいるうちに、従妹の涙は止まった。王に抱きしめられ、泣き止んだようだ。
それから自分たちは向かい合ったものの、早々に出てきた話題は手紙のこと。
ウィーンに送っていた手紙は、我ながら思い出すたびに恥ずかしくなる内容ばかり。それを蒸し返されたせいで、ただでさえ話し下手な男はますます何も話せなくなった。
あの日のアングレーム公の姿は、従妹の目にどう映ったのだろう。決して良い印象を与えることはなかったはずだ。
(なのに君は、私に笑いかけてくれたな)
理由の分からない謝罪をされた翌朝。
誕生日の朝。
この寝所で、たわいもない話をしながら過ごした時間。
従妹の笑顔は、アングレーム公にとっての喜びだった。だが、もらった分の喜びを、少しでも返せただろうか。
離れがたいと、手放したくないと思っている。
けれども繋ぎ止めておく勇気がない。
こんな男には、彼女に触れる資格もなければ、男としての欲で汚す資格もない。
ならばせめて。
再会した日の口づけを、やり直したい。
手の甲へ口づける挨拶は、親しい間柄でなくても出来る。夫になる資格もないようなぶざまな男でも、触れることが許される場所。
色白で温もりのある手の上から、無骨な手を重ねた。抱きしめたいという衝動を抑え、ゆっくりと体を倒した。
もう従妹を起こしてしまっても構わない。口づけの許しを請うことしか、頭になかった。
彼女の薬指には指輪がはめられている。結婚式の日以来、この手から指輪が外されていた日は、アングレーム公が知る限り一度もない。
それはまた夫の方も同じだった。指輪の交換をした時から、今この時も。
■■■
たった今、扉が閉まった。
テレーズは、おそるおそる枕から顔を上げた。
胸の鼓動が鳴り止まない。息も苦しい。このまま心臓が止まってしまいそうだ。
体を起こし、天蓋のカーテンを開けた。
人の気配はない。寝台の近くにココのケージがあるだけだ。
従兄は、もう出立してしまったのだろうか。
何も言わずに行くのなら、どうしてこの部屋に来たのだろう。
どうして、あんなふうに触れたのだろう。
テレーズはカーテンを引き、再び枕に顔を埋めた。
(あれは、夢じゃない……)
この手に、口づけをされた。
最初は、夢の中のことだと思った。
寝台がきしみ、誰かが腰かけた。テレーズの左手に、冷たい手が重ねられた。
すぐそばに従兄がいるのだと、覚醒しきらない意識の中でも分かった。
夢にしては、はっきりとした感覚。
ほどなくして現実だと気づいた。
従兄が体を倒したのか、彼の吐息を感じるほど、互いの距離が縮まった。テレーズは息を殺して、寝たふりをしていた。
初めは遠慮がちに触れて、それから優しく押し当てられた、彼の唇。
金属のような硬い物が触れる感覚もあった。あれは眼鏡だったのかもしれない。
彼は、テレーズの左手にしか触れなかった。
触れた場所に目一杯の気持ちを込めるように。別れを惜しむように。
いいや、違う。
別れを惜しんでいるのは、他でもないテレーズの方だ。
ネズミに遭遇したところを従兄に助けられた、あの夜を境に、それまで寝所を支配していた重たい空気が和らいでいった。
彼が狩猟から帰ってこなかった夜、自分一人しかいない寝所を、初めて寂しいと思いながら眠りに就いた。
その翌夜から、寝所での会話が増えていった。
寝所にいる間は、彼からぎこちなさが消える。普段の姿からは想像できないほど言葉数が増え、さらには話しながらよく笑う。
日中は相変わらず、彼はテレーズの元に来てくれない。だからこそ、二人になれる夜の時間が段々と待ち遠しくなった。
裸眼のときには目つきが悪くなる表情も、いつしか気にならなくなった。
この寝所で、二人きりで過ごす時間が、特別なものに変わっていた。
ところが、昨年暮れに突然告げられた。同衾を止めると。
理由を尋ねても教えてもらえなかったが、テレーズは彼の言うことを受け入れた。
その日の夜は、一人寝の枕を涙で濡らした。
突き放されてしまったことが悲しかった。そしてそれ以上に、自己嫌悪に苛まれたのだ。
よしんば心無い噂が本当のことで、彼が子供を作れない体だったとしても、テレーズは構わないと思ってしまった。
この先も一緒にいられるなら、結婚が不完全なままでもいいと思ってしまった。
テレーズは、彼と恋愛をするために結婚したのではない。初恋の続きをするために結婚したのではない。
一体何をしにミタウまで来たのだと、自分自身を責めた。
それでも、彼のことを恨めなかった。まして嫌いにもなれなかった。
もしも嫌いになっていたら、暖かくして過ごすようにと言伝をもらった時、嬉しい気持ちにはなっていない。
戦場に行くことを知らされてから昨夜まで、テレーズの方から彼を訪ねるべきか、あんなにも悩んでいない。
嫌いになれないほど、アングレーム公のことを好きになっていた。
先ほどまで、彼に触れられていた感覚はまだ残っている。
彼の手は冷たいにもかかわらず、テレーズの左手には、確かに温もりが生まれた。
だがその熱も、時間が経てば消えてしまう。
逃がさないように、右手を上から重ねた。
「行かないで」
想いが、口からこぼれた。
今さら声に出したところで、伝えたい相手に届くはずもないのに。
あと数分でも時計の針を戻せたなら、彼を引き止められたのだろうか。
顔を見て、送り出せたのだろうか。
小声で告げられた、行ってくる、という言葉に返事をすることくらいは。
考えれば考えるほど、涙が止まらなくなる。
人が起こしに来るには、まだ早い。
しばらくは誰の目も気にせず、彼のことを想って涙を流せる。
彼は先ほど、この手にどうやって触れていただろう。思い出しながら、彼の唇が触れた場所に、自分の唇を押し当てた。
それは、秘め事のような口づけだった。
【93. 恋をしている 前編】




