80. 今や王妃となった者
マリー・ジョゼフィーヌは、だまされたのだ。
実家トリノの人間にも、嫁ぎ先であるヴェルサイユの人間にも。
『フランスはヨーロッパ随一の大国。その王家に嫁ぐことは大変な名誉だぞ』
サルデーニャ王として在位中だった祖父が、孫娘に向けた言葉。
『女の幸せは、嫁ぎ先の家柄で決まるものだ』
『お父様のおっしゃるとおりよ。王太子妃の地位こそオーストリア大公女に奪われてしまったけれど、それであなたの人生が決まったわけではないわ。世継ぎの母になればいいのだから』
父と母が、娘に向けた言葉。
『ヴェルサイユでお待ちになっているのは、どのような殿方なのかしら』
『プロヴァンス伯がうらやましいわ』
仕える女官たち、そして妹。
誰も彼もがこんなことを言って、ジョゼフィーヌのことをだました。
生贄の羊としてヴェルサイユへ送り出したのだ。
不幸な未来を知らない花嫁は、輿入れの馬車に乗り、王宮を出発した。
その日のトリノは、お祭り騒ぎだった。
人々の歓声、鳴り響く大砲、楽隊の演奏。沿道に詰めかけた民衆は、フランスへ嫁ぐ王女を一目見ようと、押し合いへし合いしていた。
首都を離れてからも、行く先々で、花嫁は盛大に迎えられた。
ヴェルサイユで待つ夫は、ジョゼフィーヌのことを愛し、幸せにしてくれる王子様だと。
何ひとつ疑うことなく、信じていた。
フランス王太子のすぐ下の弟、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ。
この男は、極めつけのペテン師であった。
フォンテーヌブローで対面した瞬間から、花嫁はこの男にあざむかれた。
一挙一動から発せられる気品。
若いながらも、威厳と凛々しさのある姿。
礼拝堂で執り行われた結婚式にて、大きな声で発せられた誓いの言葉。
あざむかれた花嫁は、自分の方が二歳上という引け目をすぐに感じなくなった。
ペテン師は十五歳にしてすでに太り気味だったが、そんな欠点も、この時ばかりは不思議とどうでもよく思えた。
花嫁に向かって、ペテン師は歯の浮くような言葉を並べた。
『あなたのような女性を妻に迎えることが出来て、私はなんて果報者なんだ』
『この胸に刻まれた想いは、これから先、永遠に消えることはない』
『あなたを喜ばせるためなら、私はどんな機会も逃さない。何だってしてみせるさ』
『だからどうか、これからも私に幸せを与えてくれ、私の妻』
男を知らない十七歳の花嫁は、愚かにも真に受けてしまった。
後から考えれば、もっと早くに、おかしいと気づくべきだったのに。
決して美人とは言えないうえ、黒く太い眉毛が示すとおりの毛深い体質。
初めて顔を合わせてから数日のうちは、緊張のあまり、話しかけられても黙り込んでばかりいた。
そんな花嫁に対し、ここまでの好意を向けてくるのは、あまりに不自然。
ペテン師プロヴァンス伯の言葉は、相手がどんな女であっても言えるものだった。
嫁ぎ先で味わった失望は、夫の偽りの愛だけではない。
その一、義姉から受けた屈辱。
実家の威光、優雅な身のこなし、愛嬌と社交性。それくらいしか取り柄がない義理の姉マリー・アントワネット。
義姉妹で親しく付き合ったのは、最初のうちだけ。
彼女の近くにいることで、プロヴァンス伯妃は、自分がどんな役割を演じなければならないかを悟った。
「王太子妃の引き立て役」
この役を与えられ、その三年後には、王の代替わりにより「王妃の引き立て役」となった。
その二、実妹から受けた屈辱。
奇しくも、すぐ下の妹もフランスに嫁いできた。後からやって来た身でありながら、プロヴァンス伯妃を差し置いて、子供を産んだ。
もっとも妹の続けざまの妊娠は、妻として愛されたのではなく、手軽な性欲処理の相手にされた結果だ。なにせ夫となったのは、無類の女たらしアルトワ伯である。
妹は二男二女を生んだ。
うち娘二人は早くに亡くなったが、世継ぎだと持てはやされたアングレーム公も、そしてベリー公も、残念なことにすくすくと成長した。
それに引き換え、プロヴァンス伯妃は何度か妊娠の兆しこそあったが、すべてぬか喜びに終わった。
嫁ぐ前までは、それなりに仲の良かった妹。それが、いつしか顔を見るのも苦痛な存在になった。
その三、ヴェルサイユで使われるフランス語。
世界一洗練された言語と言われていたが、とんだ自画自賛だ。
この国の宮廷人が日常使う言葉といえば、巧みな話術で本音を隠す方法、見下げている相手の嘲笑い方……そんなものばかりだった。
嫁いでから十年以上もの間、フランス宮廷において、存在価値が無きに等しかった王弟妃。
そんなプロヴァンス伯妃は、ある時、運命の出会いを果たした。
読書係として宮廷入りした女官マルグリット・ド・グルビロン。
十歳以上も年上で、またあまり美人ではなかった。そんな彼女こそが、女の人生にとって大事なことを教えてくれた。
『マダム、女の価値は、年齢でも容姿の善し悪しでもありません。いかに真心をもって人を愛せるか、なのです』
この言葉がプロヴァンス伯妃の胸に刻まれる頃には、彼女はかけがえのない存在となっていた。
妻はモントルイユにある私邸で、愛する彼女と過ごす。夫は、夫の私邸で愛人と過ごす。
夫婦が互いの元を行き来することはなくなっていた。
ところが、二人のマダムは悲劇に見舞われた。
革命が起こる半年前のこと。
『あの読書係を宮廷から追放する。これは命令だ』
夫から突然言われたことに、プロヴァンス伯妃は耳を疑った。
『何言ってるの。嫌よ、そんなの』
『あの女があなたにすり寄るのは、野心を満たしたいがため。そんなことにも気づいていないのか』
『すり寄るだなんて失礼な。私の女神を悪く言わないでちょうだい』
『なにが私の女神だ』
夫は吐き捨てるように言う。
『あなたたち二人が、ただならぬ仲であること。あなたが、あの女に惜しみなく金銭を与えていることは、今や宮廷じゅうに知れ渡っている。まるで赤字夫人とポリニャック夫人だ』
『あんな義姉と私を一緒にしないでちょうだい!』
抗議したものの、王に話を通していると言われてしまえば、王弟妃になすすべはない。マルグリットは隠遁せざるを得なくなった。
『どうして……私ばかりが、こんな目に……』
別れの前夜、プロヴァンス伯妃は涙が枯れるほど泣いた。自分の運命と夫のことを呪いながら。
優しい声音が、マダム、と呼ぶ。
涙で目の前がにじんでいても分かった。愛する女神が優しく微笑んでいるのだと。
『たとえ遠く離れてしまっても、私の心は、いつでもマダムと共にあります』
その二年後。
革命の動乱から逃れるべく、自分たち夫婦は別々の馬車に乗ってパリを離れた。それぞれの馬車は違う経路を進み、無事フランスを脱した。
夫婦が再び合流できた時には、一体何年ぶりだろうと思うくらい、久しぶりに夫への愛を感じた。
ところが、愛情と喜びが生まれたのは、ほんの束の間だった。
コブレンツにて、アルトワ伯をはじめとする同胞とも合流した。同地の亡命宮廷では、夫はあたかも、無能な兄王に代わって自分が王になったと言わんばかりだった。
そしてプロヴァンス伯妃は、ある意味で王妃になった。
王の愛人すなわち公妾が、宮廷の女主人として人々に愛想を振りまく。一方で、王妃は日陰に追いやられる。
それは、かねてより話に聞いていた、昔のフランス宮廷の光景。
ルイ十五世の治世において、王妃マリー・レクザンスカは、夫君やその愛人によってないがしろにされて不遇をかこっていたという。
コブレンツの亡命宮廷も、その先例どおりになった。
王妃は、形ばかりの正妻。
それでもマリー・レクザンスカの方が、コブレンツの「フランス王妃」より、はるかに恵まれていたはずだ。
なにせ彼女には子供たちがいた。
父親の愛人を嫌い、母親の味方をしてくれる王太子や王女たちがいた。
プロヴァンス伯妃に、そんな存在がいるはずもない。
そのうえ、愛する女神マルグリットとも引き離されたまま。
夫もその愛人も器用なもので、人の目がある場では、正妻に対して敬意を払っているように振る舞う。
だが、その敬意は上辺だけに過ぎないことを、プロヴァンス伯妃は嫌というほど知っていた。
ここはヴェルサイユでもパリでもない。危険を冒してフランスから脱したにもかかわらず、どうして亡命先でまで、こんな惨めな思いをしなくてはならないのか。
コブレンツに嫌気がさしたプロヴァンス伯妃は、実家トリノに移った。
その数ヶ月後、エミグレ軍が革命軍に敗北。コブレンツの亡命宮廷は、外国からの支援を打ち切られた。
同地の宮廷は撤退。
王族と従者は、ヨーロッパ各地へ散らばった。
お気楽な人間たちのディアスポラは、悲しみにも同情にも値しない。
義兄夫婦が処刑された翌々年、ルイ・シャルルが亡くなったとの知らせを受けた。
それは、ジョゼフィーヌがフランス王妃になったことを意味した。だが何の感慨も湧かなかった。
夫はルイ十八世を自称したが、どの国からも見向きもされない。
フランスの歴史上、これほど注目されない王と王妃はいないだろう。
そののち。
革命軍の侵攻により、サヴォイア家の王族はトリノにいられなくなった。
ジョゼフィーヌとて例外ではなく、紆余曲折を経て、ドイツに腰を落ち着けた。
そうした中ではあったが、大きな幸せを得た。
愛する女神と再会を果たせたのだ。
落ちぶれた王族だと、世間から笑われようとも構わない。
誰にも文句を言われず、二人のマダムは、朝から晩まで一緒に過ごせる。長い間焦がれていた、心からの愛と安らぎに満ちた暮らしを、とうとう手に入れた。
夫から扶養費をもらい、一応は連絡をとり続けていた。
とはいえ、夫宛ての手紙を書くのに時間を割くくらいなら、一分一秒でも女神のことだけを考えていたかった。
そんなある日、夫から手紙が届いた。
甥と姪が結婚する。王妃として式に参列しろ。場所はバルト海に近いロシア領と書かれていた。
問題は、それに続く文章だ。
‘あなたの元にいる女性は連れてこないでほしい。
甥と姪が夫婦の誓いを交わす神聖な場に、彼女の存在はふさわしくないのだ。
物分かりのよい王妃は、フランス王の願いをきっと聞き入れてくれるだろう’
マルグリットは連れてくるなと。
夫婦の誓いを交わす神聖な場と書かれてはいるが、そんなものは口実。
この見栄っ張り夫は、自分の妻を女に寝取られた男だと、周りから思われたくないだけなのだ。
(自分が愛人に裏切られたからって、二度も妻から幸せを奪おうとするなんて、どこまで性根の腐った男なのかしら)
コブレンツにいた頃も、夫とその愛人は、いけずうずうしくべったりしていた。
ところが、同地の亡命宮廷が撤退した後、風の便りを聞いた。
二人が別れた。
なんでも理由は、彼女がプロヴァンス伯を捨てて、他の男に乗り換えたからだと。
その真偽を手紙で夫に尋ねたところ、別れたことを夫が認めた。
別れた経緯までは書かれていなかったが、自分が捨てられた側であることは恥ずかしくて書けなかったのだろう。
ジョゼフィーヌからすれば、まさしく「ざまあみなさい!」と言うほかない痛快な話であった。
さて、甥と姪の結婚式に出ろと、夫は命じてきた。
実の甥と義理の姪、どちらとも親しい間柄ではない。まして会いたいとも思わない。
特に後者、憎き義姉の娘とは。
親戚の結婚式に、子供のいないおばが参列を強いられる。ミタウでみじめさを味わうのは、火を見るよりも明らかだ。
持病で具合が悪いとでも理由を付け、欠席しようと思ったが、
「ご夫君とお会いになれば、扶養費の増額を交渉できるのでは?」
女神の言葉で、ミタウ行きを決めた。
むろん彼女を置いていくわけがない。二人のマダムは、同じ馬車に乗り込んだ。
とりたてて何もない田舎道。窓の外の景色は、一日もしないうちに見飽きた。
退屈な長旅は苦痛でしかないが、すぐ隣に愛する人がいるだけで、夢心地の時間に変わる。二人掛けの馬車という誰にも邪魔されない空間で、何日間も過ごせるのだから。
一ヶ月近くの旅を経て、ミタウに到着した。
馬車は市門の前で停まった。
ここで通行許可を得てから、最終目的地の宮殿に向かうという。
停車したまま、なかなか出発しない。御者が門番と話し込んでいる。
何かあったのだろうか。
不審に思っていると、御者と門番が扉の前にやって来た。数人の男たちを連れて。
嫌な予感がした。
扉側に座っていたマルグリットの手を、とっさに握った。
無遠慮に扉を開けた、門番の開口一番。
「プロヴァンス伯の命令です。グルビロン夫人には、こちらで降りていただきます」
その言葉で悟った。
夫が、先手を打っていたのだ。
「嫌よ。彼女に手出しはさせないわ」
「なりません。さあ、こちらに来てください、グルビロン夫人」
どこの馬の骨とも知らない男の手が、車内へ伸びる。
女神のことを守らなくては。
ジョゼフィーヌは、男の手を払い除けた。
「触らないで! この無礼者!」
すると、どうだ。
扉の前に陣取っていた男たちが、女神のことを馬車から引きずり出したのだ。
二人のマダムは叫んだ。何するの、やめて、放して、と。
ジョゼフィーヌもどうにか馬車から降り、女神を追いかけようとした。腕を振り回し、妨害する者を蹴り飛ばした。通行人の目など気にしない。
自分たちの愛を邪魔する者は、全員いなくなればいいのだ。
だが無情にも、女神は別の馬車に乗せられ、連れ去られてしまった。
馬車の窓から、こちらを見つめる女神。
その目が訴えていた。
マダム、私を助けてください、と。
結婚して二十八年。夫に対する怒りが、これほどに達したことがあっただろうか。それこそ、女神を宮廷から追放すると言われた時以来だ。
「ミタウ宮殿とやらに、今すぐ向かいなさい!」
その場に残っていた御者に命じた。
再び出発した馬車は、市壁の中に入らず、近くにある川へと向かう。
橋を渡って島に入り、雑木林の中を進む。
行き先は宮殿だと命じたのに、この馬車はどこへ行こうとしているのだろう。自分までもが変な場所に連れていかれるのではと、ジョゼフィーヌは不安に駆られた。
やがて、雑木林の向こうに何かが見えてきた。
色あせた赤と白。
視界が開けると、それが建物の色であることが分かった。
退色した赤い外壁、白いフレームに縁どられた窓。
正面入り口とおぼしきところで、馬車は停車した。
見たところ、それなりの規模の建物。だが修繕されていないことが一目で分かる。
周りは雑木林。庭園らしい庭園もない。
これが宮殿だというのか。
入り口の前では、何人もの着飾った男女が整列している。
みな久しぶりに見る顔。かつてフランス宮廷にいた臣下や女官たち。
そろいもそろって頭が白い。
白髪というより、かつらや入れ毛で盛った上から髪粉をふるっているようだ。
その身なりは、懐かしさ以上に哀れみを誘った。
ヨーロッパ一洗練されていると持てはやされた宮廷が、こんな北の僻地へ追いやられ、それでも精いっぱいの見栄を張っている。そんな中年や老人の集まり。
「お待ちしておりました、王妃様」
久方ぶりの王族女性らしい待遇。
だが、王妃様という呼ばれ方が癪に障った。
否応なく脳裏をよぎる、義姉の顔。
この場にいる臣下や女官は、きっとこう思っている。
今のフランス王妃は、マリー・アントワネットとは似ても似つかない中年女だと。
(どうして、私ばかりが……)
いかがなさいましたか王妃様、と尋ねる声が、遠い意識の外で聞こえる。
他人の声は雑音。返事をする必要はない。
この召使いたちが君主と仰ぐのは、ルイ十八世。
老年の女性を連れ去るという卑劣な手段を使ってでも、妻から幸せを奪う。ああも悪らつな男が今のフランス王。
そして、その妻でいることが、ジョゼフィーヌの運命。
現実に対する、やりきれなさが込み上げる。
苦しい。
逃げたい。
もう何もかも嫌。
すべてを忘れられる、魔法がほしい。
次々と胸に生じる思い。
それらはいつものように、ひとつの終着点へたどり着いた。
「この宮殿にあるだけの酒を、私の部屋へ持ってきなさい!」
ミタウに到着した王妃が、最初に命じたこと。
召使いたちが困惑しようと構わない。ジョゼフィーヌは建物の中に入り、自分の部屋まで案内させた。
部屋に入る時、酒を持ってくる人間以外は立ち入り禁止だと命じた。
すると、王であってもだめなのかと、ふざけたことを聞き返された。
「論外よ、あんな男!」
怒りに任せて言い放ち、扉を閉め、寝台に倒れ込んだ。
やがて酒瓶が運び込まれてきた。麗しの魔法が詰まった瓶が。
これだけの量で、どれだけ酔えるのだろうと思ったが、余計なことを考えるのはやめた。嫌なことは何もかも忘れてしまいたかった。
それから、どれくらい経っただろう。
女神の声ではなく、酷い頭痛で目を覚ました。
痛みを訴える頭を上げ、室内を見回す。
見慣れない部屋。他に人はいない。
マルグリットも、いない。
思い出した。
甥と姪の結婚式のために、北の僻地まで呼び出された。そのうえ、女神とあんな形で引き離されてしまったことを。
嫌な現実を思い出した。
もう魔法は解けてしまった。
体は鉛のように重たいが、頭の中は元通りだ。
さらに強い魔法が、酒が欲しい。
寝台の上を這いずり、呼び鈴に手を伸ばす。命じることは決まっていた。
「上等の、ウォッカ、持ってきなさい……」
【80. 今や王妃となった者】




