75. いのち 前編
年が終わりに近づいた、ある日。
テレーズはココを連れて、ルドヴィカの部屋に来ていた。
目の前のテーブルには、飲み物や菓子がある。菓子は手で摘まめるものが数種類、大皿に乗っている。
ココと甘い菓子。
大好きなものが並べば、ルドヴィカは喜ぶはずなのだが、
「どうしたの。今日は元気がないわね」
いつもと様子が違う。
テレーズは不思議に思いながら、ルドヴィカと並んでソファに座った。
「あのね、お姉さん……」
言いかけて口をつぐみ、目をそらす。ルドヴィカらしくない姿だ。
テレーズは急かさず、言葉を待った。
ややあって、ルドヴィカは意を決したように、まっすぐとこちらを見上げた。
「お姉さんのお母さまは、お姉さんのお父さまのせいで、ころされたの?」
いずれルドヴィカの耳にも入るだろうと思っていたこと。テレーズ自身、いつ尋ねられてもいいように心構えはしていた。
だが革命や断頭台といった話以前に、母が殺されたのは父のせいなのかという尋ね方をされるのは、さすがに予想外だ。
こちらが言葉を失っている間も、ルドヴィカは目をそらさない。幼いながらも、本当のことを確かめようとする真剣なまなざし。
「それは、誰かが話していたことなの?」
感情を抑えて、冷静に。
テレーズは自分にそう言い聞かせながら、聞き返した。
「女官たちが話してたわ」
シャンクロ夫人やヨハナであれば、その名前が出るはずだ。
養育係か他の世話役か、あるいは皇妃の取り巻きか。
誰であれ、個人を特定しようとは思わない。そんなことをしても無意味だ。
「お姉さんのお父さまはひどい人だったの? もしかして、お姉さんもひどいことをされてたの?」
違うと、強く否定したい。
だがそう答えるのは適切ではない。
テレーズが身を置くこの宮廷は、あいにく、そうした世界なのだ。
ルドヴィカの質問にどう答えればいいか。テレーズは思案しながら、何とはなしに目の前のテーブルを見た。
良案が浮かんだ。
「ルドヴィカさんが聞いた話は、その女官たちが、正しいと思っていることよ」
「正しいと、思っていること?」
「ええ」
テレーズは笑顔を作った。ルドヴィカを安心させるために。
「じゃあ、本当はちがうの?」
(違うに決まってるじゃない。中傷もいいところよ)
こう答えたい気持ちを押し殺す。
大皿に手を伸ばし、砂糖菓子をひとつ摘まみ、ルドヴィカに差し出した。
「これを食べてみて」
どうして、とルドヴィカは不思議そうに聞き返す。
「いいから。あなたが食べないなら私が頂くわよ」
慌てた様子で、食べる答えたルドヴィカ。
テレーズからそれを受け取り、口に含んだ。
「お味はどう?」
「おいしいわ」
「ルドヴィカさんは、そう思うのね」
「もちろんよ」
「でも、あなたが美味しいと思うものを、他の人も美味しいと思うとは限らないのよ」
「どうして、こんなにあまいのに」
「世の中には、甘いものが苦手な人もいるの」
ルドヴィカの目が、ハッとしたように見開かれた。
「それと似たような話よ。私と女官たちが思うことは、それぞれ違うけれど、かといって、どちらかが間違っているわけではないの」
ルドヴィカは黙ったままうつむく。
年齢以上に聡いとはいえ、このあいだ七歳になったばかり。今の喩えでは、さすがに難しかったかもしれない。
ややあって、ルドヴィカはまた顔を上げた。その眉間には皺が寄っている。
「イヤじゃないの?」
「え?」
テレーズが聞き返すと、だって、とルドヴィカは続ける。
「かぞくのわるぐちを言われてるのよ。わるぐちは言わないでって、言えばいいのに」
悪口は言わないでって、言えばいいのに。
ルドヴィカの言うとおりだ。
「……それは出来ないわ」
「どうして?」
「我慢をすることが、大人への第一歩よ」
ルドヴィカは口をとがらせる。今の答えでは納得していないのだろう。
テレーズとしては、この話題を長引かせたくない。
別のことをしてルドヴィカの気をそらせよう。
「そうだわ、読書をしましょう。今日は元々そのつもりで来たんだから」
何の本を読んでほしいかと尋ねれば、持ってくると言ってルドヴィカはソファから降りた。
本棚に向かうかと思いきや、勉強机のある方へ行く。机の引き出しから本を取り出し、こちらに戻ってきた。
「私の声はガリガリしてるから聞き取りづらいかもしれないけど、それでもいい?」
「いいの。ヨハナがいないんだもの」
今日は、彼女の勤めが休みの日だ。
ルドヴィカが持ってきたのは二冊の本。どちらも小冊子くらいの大きさ。
テレーズは片方の本を手にして、パラパラとページをめくる。印字されている文字は大きめ。子供向けの読み物であろう。
もう片方の本には、しおりが挟んである。
その表紙には、フランス語でこう書かれていた。
(カロリーヌの恋人……?)
「しおりのところから読んで」
とルドヴィカは言う。この本を読んでほしいらしい。
読み聞かせのときは、ただ声に出して読んでもらうのではない。一行一行を指で追いながらゆっくり読んでもらうのが、いつもの方法らしい。
それから、
「やっぱりお前は、あの男がいいんだろう――違うわ、私の話を聞いてほしいの――夫はカロリーヌを指さした――その手はどうした。結婚指輪がお留守じゃないか――左手を、もう片方の手でとっさに隠すカロリーヌ。そんな彼女を見て、夫は唇を持ち上げた――あの男を逃がすのに必死で、自分のことにまで注意がいってなかったんだな」
テレーズがそこまで読み上げたところで、
「ねえ、ここだけど」
ルドヴィカが待ったをかける。
分からない単語やイディオム、文脈に当たったときは、こうして質問をする。言葉の意味だけでなく、どう発音するかも。
テレーズが教えると、ルドヴィカもそれを真似て何度か発音する。その様子は真剣そのものだ。
これもフランス語学習の一環なのだろうか。どうりで年齢のわりに語彙が豊富になるはずだ。
しかしながら、教材がこれでは感心できない。何故こんな本を読み聞かせているのか、ヨハナに問いただしたくてしょうがない。
『カロリーヌの恋人』という題名のこの小説は、テレーズにとって初めて読む本。
それでも、この場合の「恋人」とは愛人や情夫といった意味なのだと、すべてを読まずとも予想できた。
今読んでいる場面では、主人公カロリーヌが情夫との密会を夫に見つかりそうになり、慌てて情夫を逃がすも、怪しむ夫から詰問されている。
テレーズには、この先の展開は分からない。ルドヴィカも知らないという。
男女の恋愛劇。だがいくらなんでも、そういった場面は書かれていないだろう。読み聞かせる前に、ヨハナが内容の確認くらいはしているはず……と信じたい。
すると、扉をノックする音が。
扉越しの声はシャンクロ夫人。様子を見に来たようだ。
「お姉さん、いそいで」
ルドヴィカの動きは素早かった。テレーズの手から本を奪うと、広げていたページにしおりを挟み、服とソファの間に隠した。
テレーズは、近くに置いていた本を手に取り、適当なページを開く。これは、ルドヴィカが持ってきた二冊のうちの片方、ダミーである。
カロリーヌの恋人を隠し、ダミーを広げた。
これで大丈夫だ。
ルドヴィカが、入っていいと返事をすると、シャンクロ夫人が姿を見せた。
「お飲み物やお菓子は足りていますか」
「まだあるわよね、お姉さん」
「え、ええ、そうね」
「お二人とも、すっかり仲良くなられて」
微笑ましい光景を眺めるかのように、シャンクロ夫人は目を細める。
「何の本をお読みになっているのですか」
ソファの後ろに回り込んだ彼女が、ダミーの本をのぞき込む。テレーズは平静を装いつつも、こっちに来ないで、と心の中で叫んだ。
ルドヴィカの尻の下には、カロリーヌの恋人があるのだ。
「まあ、この話でしたら私も存じています。孫が読み聞かせをしてほしいと、よくねだっているものです」
「そ、そうなの。偶然ね、ルドヴィカさん」
「本当ね、ぐうぜんだわ」
「ですが、ルドヴィカ様がお読みになるには、簡単すぎるのではありませんか」
鋭い指摘だ。
シャンクロ夫人も、伊達にこの宮廷で長く仕えていない。孫を見つめる祖母のようなまなざしで、皇帝夫妻の子供たちを見ているのだろう。
だがルドヴィカもルドヴィカで、幼いながらに抜け目がなかった。
「本場のはつ音っていうのを、お姉さんから教わってるの」
「本場の発音?」
「そうよ。れんしゅうして上手になって、ドイツ語が話せない人たちとも、いっぱいお話しするって、きめてるんだから」
ねえお姉さん、と言って、ルドヴィカはテレーズに同意を求める。
「そ、そうよね。きれいに発音するのは大事なことだもの」
「まあ、おっしゃるとおりです」
シャンクロ夫人がいぶかしんでいる様子はない。彼女は冷めたお茶を淹れ直し、退室した。
扉が閉まると同時に、テレーズは胸をなで下ろした。
「少し休憩しましょう」
「つづきが気になるわ」
「本は逃げないから、焦る必要はないわよ」
テレーズは声を出し続けていて、喉が渇いた。
今は十二月。寒い季節には暖かい飲み物が美味しい。ついでに菓子も摘まんだ。
ルドヴィカは続きをじらされて不満そうにするが、
「あなたが食べないなら、私が全部食べちゃうわよ」
テレーズが冗談を言うと、すぐさま大皿へ手を伸ばした。こういう場面で見せる姿は年相応だ。
そして一旦休憩。
「大人ってタイヘンね。けっこんしたら、こんなふうになるだなんて」
大変、こんなふう、と言うのは、今読んでいた小説の内容であろう。
「作り話だから、面白おかしく書いているだけよ。実際にはあり得ないわ」
「そうなの?」
「ええ、もちろん」
現実世界で同様のことが起こっているのだとしても、子供の質問には、こう答えておく。
「ルドヴィカさんのご両親だって、この話みたいにはなってないでしょう。今も皇妃様のお腹には、あなたの弟か妹がいるじゃない。それだけ仲良しなのよ」
ルドヴィカから、ふっと明るさが消えた。黙り込み、下を向いてしまう。
しまった、とテレーズは思った。
初めてこの部屋に招かれた時の出来事は忘れていない。
「……お母さまは、お父さまのことは好きだけど、わたしのことはそうじゃないのね」
テレーズはとっさに答えた。そんなことはないと。
「だって、この前のパーティーでも、ちっとも楽しそうにされてなかったもの」
顔を上げたルドヴィカは、悲しみと怒りの抗議をぶつけた。
先週開かれた、ルドヴィカの誕生パーティー。
そこには皇帝夫妻も顔を見せたものの、皇妃は終始もの憂げな様子だった。
また彼女のことを気にしてか、皇帝もあまりパーティーを楽しんでいる様子ではなかった。
「皇妃様はきっと具合が悪かったのよ。悪阻だったのかもしれないわ」
「つわりって?」
「赤ちゃんを授かって、はじめのうちは体調が悪くなるものなんですって」
「どうして?」
「さ、さあ、どうしてかしらね」
テレーズは結婚前。悪阻がどういったものであるか、漠然としか知らない。
そもそも皇妃が暗い顔をしていた本当の理由など知るわけがない。今しがた悪阻と言ったのは、適当な答えだ。
「じゃあ、大天使さまにおねがいすれば、お母さまは元気になるかしら」
「大天使様?」
「おなかに赤ちゃんができたことを、知らせに来るお方よ」
もしやルドヴィカは、受胎告知の絵画に、自分の母親を重ねているのだろうか。
「そうね。ルドヴィカさんが良い子にしていれば、きっと元気になるわ」
こう答えてはみたが、本心ではこう毒づきたい。
(あんな意地悪な女、ダメ母親が聖母マリアだなんて、ちゃんちゃらおかしいわ)
しばらくすると、ルドヴィカはソファから離れ、ココにかまい始めた。本の続きが気になると言っていたわりに、菓子を食べているうちに、どうでもよくなったのだろう。
ルドヴィカの意識がココへと向いた隙に、テレーズは近くに置いてあった本を手に取り、二冊とも少し離れた場所に置く。
このまま本の読み聞かせを中断できれば、読む側としても大変助かる。
だが幼い目は、テレーズの行動を目ざとく見つけたようだ。
「ヨハナが言ってたわ。カロリーヌの気持ちが分かるわって」
突然何を言い出すのか。
こちらの困惑をよそに、ルドヴィカはソファに戻ってきた。先ほどまで読んでいた本を手に取ると、座面に乗せてページをめくる。
「ヨハナには好きな人がいるの。カロリーヌのこいびとに、カレがにてるんですって」
挿絵のあるページを開き、このカレよ、と言って指さす。
この男性がヨハナの想い人に似ているのだという。
テレーズの脳裏に、一人の男の顔が浮かぶ。
確か、作中のカロリーヌは貴族だった。王妃ではなかったはず。変に意識することではない。そう分かってはいるが、
(お母様への献身さと、顔が取り柄の北方人じゃないでしょうね)
こう思わずにはいられない。ヨハナの想い人は、よもやフェルセンではあるまいか。
挿絵に描かれた情夫は、あの間男に似ているだろうか。
この絵だけでは何とも言えない。
「ルドヴィカさんは、彼を見たことがあるの?」
「あるわよ」
「どんな人だった? 例えば、何歳くらいに見えたとか」
「えーっとね……カール叔父さまと同じくらい」
「あら、そんなに若いの」
「カレはさいきん、ちっとも顔を見せないの。だからヨハナが会いたがってたわ。おさめてた土地がなくなったり、トゥグートにきらわれたり。何て言うんだっけ、こういうの……思い出した、くろうにんだわ」
話を聞く限り、その苦労人はフェルセンのことではなさそうだ。その点は安心した。
だが、それ以上に気になる点がある。
(ヨハナって結婚してるわよね?)
彼女は、他の宮廷人から「夫人」の名で呼ばれている。
この時、テレーズはルドヴィカの将来に、改めて不安を覚えた。
自分はハプスブルク家の一員になる予定はない。言ってしまえば部外者。それでも、この幼い姫君のことを、どうにも放っておけなかった。
誰かに相談した方がいいかもしれない。
テレーズにとって身近な人物。シャンクロ夫人、あとアマーリア。
前者にはすぐ話が出来るが、後者は今ふせっている。
アマーリアが回復したら、相談しに行こう。
またブオナパルテ人形の時のようになるかもしれないが、話をしないでいるよりはいいはずだ。
「どうしたのお姉さん、ぼうっとして」
ルドヴィカの問題について考えていたら、本人に話しかけられた。
「アマーリアさんが早く元気になるといいわって、考えてたの」
「お姉さまったら、ねこんでばかりだわ」
「アマーリアさんだって、好きで寝込んでいるわけじゃないのよ」
「分かってるわ。でも元気にならないと、会えないんだもの」
早く元気になってほしい、会えなくて寂しいと思っているのは、ルドヴィカもまた同じだ。
そうしているうちに、時計の針は進む。
ルドヴィカは日々時間割どおりに生活している。自由時間はそろそろおしまいだ。
今日に限らず、別れ際のルドヴィカはいつも名残惜しそうにするが、
「また来るわ。もちろんココもね」
テレーズがこう言えば、すぐ笑顔になる。
ココはルドヴィカと一緒にいるとき、普段より活発になる。それだけ、ルドヴィカと過ごす時間を楽しんでいるのだ。
ただ、ルドヴィカは知らないのだろう。
扉が閉まり、ルドヴィカの姿が見えなくなった途端、ココは元気をなくしてしまう。前を向いていた頭は下を向き、尻尾もしゅんと垂れてしまうことを。
部屋に戻ってからココを慰めるのは、テレーズの役目だ。
実は、この日ルドヴィカに伝えようと思っていたことがあった。
つい先日、テレーズの将来が決まった。
カール大公は元より、どの大公とも結婚しない。
ミタウへの出立は、雪解けが過ぎて、安全な旅が出来る時季になってから。それまでウィーンでの滞在が許されている。
さらには皇帝が「預かっていた」という母の遺産も、テレーズが受け取れるように手配してもらえる。
先の見えない情勢下、テレーズを妃に迎えたところで、オーストリアには得るものがないと踏んだのか。
どのような政治的事情があるにせよ、テレーズが進もうとする道を阻む障害はなくなったのだ。
正直なところ、テレーズの本音としては、喜びよりも寂しさの方が勝っている。
もしもこれが、ウィーンに来てまだ日が浅い頃であれば、もろ手を挙げて喜んだだろう。
だが今は違う。
いつの間にか、母の実家が思い入れのある場所になっていた。
テレーズという敵国女がいなくなることを、もろ手を挙げて喜ぶ人々が少なからずいるのだと、分かってはいても。
とにもかくにも、来年春に帝都を離れることを、アマーリアにはすでに伝えた。
そしてルドヴィカには、今日部屋に行ったついでに伝えるつもりでいた。
ところが、思いがけないことが起こった。なんとルドヴィカから、両親の死に関することを尋ねられたのだ。
ルドヴィカの心の負担とならないよう、テレーズとしても言葉を選んで答えたが、深刻な話をしたことには違いない。
この状況で、別れの日が来ることを伝えるのは、さすがに酷だと思った。
結局、日を改めて話すことにした。
春になるまで、まだ三ヶ月以上はある。急ぐ必要はない。
【75. いのち 前編】
≪補足≫
カロリーヌの恋人は架空の本です。




