71. 波風
寒さが和らぎ、春めいてきた頃。
テレーズの元に、再び彼がやって来た。
「ごぶさたしておりました。お変わりございませんか」
「ええ。フェルセン伯こそ、体には気をつけて。もう若くないのだから」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
前回と同様、テレーズの部屋ではなく別室での面会。女官が数人控えている。
テレーズは、彼と向かい合ってソファに座る。
話し始めてから、ほどなくして気づいた。
今日のフェルセンは、表情も口調も、どこか暗いことに。
すると、彼が改まったように口を開いた。
「ところでテレーズ様、そのお声のことなのですが」
「ああこれね。実はまた」
また風邪をひいてしまって。そう答えようとしたら、
「タンプル塔にいらした頃から、今も元に戻らないままなのですか?」
フェルセンの言葉に遮られた。
嘘がばれた。
テレーズ自身、予想していたこと。ばれたらばれたで構わないと思っていた。
今後も顔を合わせる機会があれば、声が元に戻らないことは、いずれ知られるだろうから。
だがこの時は、あまりのことに返事が出来なかった。
タンプル塔。
テレーズにとって忌み言葉にも匹敵する、あの建物の名称。
フェルセンの口から出た、その声で発声された言葉は、たいそう生々しい響きをもって、テレーズの耳に入り込んできた。
「テレーズ様?」
とっさにうつむくと、フェルセンに名前を呼ばれた。
そういえば、まだフランスにいた頃、彼はテレーズのことをマダム・ロワイヤルと呼んでいた。いつから、テレーズという名前で呼ぶようになったのだろう。
当のテレーズは、この男に本名呼びを許した覚えはない。
生前の母は、親しい人々からアントワネット様と呼ばれていた。この男がテレーズ様と呼ぶのは、それと同じ感覚なのだろうか。
そう思うと、ぞっとする。
「……嫌なことを思い出させてしまいましたか」
気まずそうな表情は、テレーズのことを哀れんでいる。
同情されるのは、テレーズにとって日常茶飯事。
しかし、それがフェルセンから向けられる感情だと思うと、無性に腹が立つ。
今すぐに面会を中断したい。彼にはホーフブルクから立ち去ってほしい。
そう頼みたくなったが、押しとどめた。
テレーズは冷静な態度でいなくてはならない。さもなくば、この場に控えている女官たちから、あらゆる憶測をされる。
そこから話が広まり、あることないこと言いふらされるかもしれない。
故人の娘と、故人の愛人だった男が、向かい合って話をしているという滑稽な状況。そこで起こった出来事なんてものは、いくらでも尾ひれがつくのだから。
下品なゴシップの材料にされるのは真っ平ごめんだ。
テレーズは考えた。この苦痛な状況をどうやって乗り切ればいいか。
そうだ、違う話題を出してごまかせばいいのだ。家族のことと直結しなさそうな話題がいい。
「あなたに尋ねたいことがあるの」
テレーズは再び顔を上げた。
「ラシュタットで、あのコルシカ人と会ったのかしら」
「……ブオナパルテのことですか」
「ええ、そうよ」
敵軍の司令官。フランス語風にいうとボナパルトと呼ぶらしい。だがテレーズが知る限り、宮廷人はみなブオナパルテと呼んでいる。
「ウィーンの人たちは、彼のことを、化け物の顔をした悪魔だと言っているわ。その実物が、共和国の代表として、現地に顔を見せたそうじゃない」
フランス共和国の勝利で終わった、このたびの戦争。講和が結ばれた際、戦争においてはお決まりの領土割譲が行われた。
ただ帰属問題について未決定の部分があったようで、会議で決めることになった。開催場所はドイツ南西部にあるラシュタット。
以上の話は、ブルボン王家の臣下からもらった手紙で知った。
またさらには、スウェーデン代表として会議に出席したのがフェルセンなのだという。その話は、先日出席したお茶会で聞き知った。
スウェーデンの領土は、スカンジナビア半島だけでなくドイツにもある。また神聖ローマ帝国の構成員としての権利をも有している。
そうした事情から、バルト海の向こうのドイツ問題を見過ごしておけないのだろう。
何はさておき、今テレーズの目の前にいる彼に、話を聞こうと思った。
イタリアでオーストリア軍を打ち負かし、ウィーンをおびやかした、くだんの男の正体について。
ところが、
「どうしたの、怖い顔をして」
黙り込んだフェルセン。ますます暗い顔に、というより怖い顔になった。
「……確かに、あの者は噂にたがわぬ無礼者です」
伏せられた目、さらに低くなった声は、不機嫌さを隠していない。憎き敵将の名は、口にするのも忌々しいとでも言うように。
「神もお怒りになっているはずだ。あのような男が、まるでこの世は自分のためにあると言わんばかりに」
他者に対して露骨に負の感情を向ける。フェルセンがこんな姿を見せるのは初めてだ。
もっとも、
(どうせ私や弟たちのいないところでは、お父様への恨みつらみを垂れ流してたんでしょう)
きっとそうに違いない。
「答えたくないなら、言わなくていいわよ」
敵将の存在を快く思わないのは、テレーズも同じだ。こちらから話を終わらせた。
フェルセンもまた気を取り直した様子で、別の話を始めた。
「最近フランスの片田舎で、身元不明の少年が発見されました」
「身元不明の少年?」
「少年は、自分の名前も思い出せない様子だと」
「まあ」
「髪は灰色がかったブロンド、目は碧眼。ちゃんとしたものを食べていなかったのか、十二歳前後という年齢のわりに体が成長していません」
「……どうして、その少年の年齢が分かるの」
「少年が誰であるのか、知っている者と直接会って話を聞きました」
「……どんな話を」
「彼はあなた様の弟君、ルイ・シャルル様かもしれません」
それは、テレーズも聞いたことがある話。
家族の中でただ一人、断頭台の上で最期を迎えておらず、また肉親であるテレーズが亡骸を確認していない。
別の少年とすり替え、タンプル塔から脱出させることが可能だった。
シャルルは、今もどこかで生き長らえていると。
「……そんなことを、今ここで話していいの?」
先ほどから平静を装っているが、テレーズは内心困惑していた。
弟は名目上ではあるが、父の跡を継いで、ルイ十七世となっていた。
万が一にも生きていたなら、フランス共和国も黙っていないだろうし、オーストリアにとっても無視できない問題のはずだ。
「フランツ帝には、事前にお許しをいただきました」
「陛下のお許しを?」
フェルセンが嘘を言っているとは思えない。なにせ、今この部屋には女官たちがいる。
「フランツ帝は、ご自身にもお子がいらっしゃいます。子供を持つ親の気持ちを、きっとご理解いただけるはず。そう思い、お話し申し上げたのです」
テレーズは、もしかしてと思った。
「あなたって結婚してたの?」
「私ですか?」
「そうよ。他に誰がいるの」
フェルセンも結婚して、すでに子供をもうけているのだと。
「いいえ、私は未婚にてございます」
まっすぐとこちらを見て、彼は否定した。
その返事に、テレーズは自分でも驚くほどの失望感を覚えた。
(お母様のことを、まだ想っているからなの?)
こう思わずにはいられない。
「しかし、妻子ある友人は多数おります。彼らの姿を思い出しながら、私なりに感じたことを、フランツ帝に言上いたしました」
子供を持つ親の気持ちが、未婚の自分にも分かるとでも言いたいのだろうか、この男は。
冗談じゃない、とテレーズは胸中で吐き捨てた。
母の産んだ子供は、フェルセンとの情事の結果かもしれない。
いやそればかりか、テレーズ自身も不義の子かもしれない。
今目の前にいる男が、実の父親かもしれない――そんな話、テレーズは信じていない。
中傷もいいところだ。
久しく心の奥底に眠っていた感情が、ふつふつとわき起こる。あの頃に抱いていた気持ちが、鮮明によみがえる。
フェルセンに対する怒り、憎しみ。
また、かつて自分の周りにいた大人たちに対する疑念や軽蔑、嫌悪感。
だがいくらなんでも、今ここで、そうした感情を表に出すわけにはいかない。
テレーズは膝の上に乗せていた両手を握りしめ、指が痛くなるほどきつく爪を立てた。
面会が終わるまで、そうやって、あらゆる悪感情を押し殺した。
不快な話を伝えるだけ伝えて、フェルセンは退室した。
一時間たらずの面会で、あの男はテレーズの心を二度も乱した。タンプル塔のこと、そして弟のこと。
シャルルは、今もどこかで生きている。
本音を言えば、テレーズもその可能性にすがりたい。
だが今のテレーズは、ルイ十八世の支持者という立場にある。
あの叔父が、自分より王位継承順位の高いシャルルの生存を認めるはずがない。
テレーズは重たい気持ちのまま、自分の部屋に戻ろうとした。
そこへ、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「テレーズさんったら探したわよ。あなたの部屋にいないと思ったら、ここにいたのね」
いつにもまして明るいアマーリア。何か良いことでもあったのだろうか。
「ちょっと、人と会っていたの」
「もしかしてフェルセン伯と?」
「え、ええ、まあ……」
テレーズはげんなりした。ようやく居なくなってくれた相手の名前を、また耳にするはめに。
「今ここに来る途中ですれ違ったの。いつ見ても素敵なおじ様ね、思わず見惚れちゃった」
嬉しそうにしているのは、まさかそれが理由なのか。面食いもほどほどにしてほしいと、テレーズは声に出さず、ぼやいた。
「そんな顔をしないで、テレーズさん。それより、ほらこれ」
アマーリアがこちらに差し出したのは、先ほどから彼女が手に持っていたもの。
「お姉様からの手紙よ」
「クレメンティーネさんから?」
「ええ、中を見てみて」
テレーズは受け取ろうとするが、
「あ、いけない、ドイツ語で書かれてあるわ」
うっかりしたと言うように、彼女は手紙を引っ込めた。
「大丈夫よ、アマーリアさん。分からないところがあれば、辞書を引くから」
「辞書なんて引いてたらまどろっこしいわ。私が読むから、よく聞いててね」
アマーリアは何やら落ち着きがない。すぐにでも伝えたい内容なのだろうか。
広げられた便せんを、テレーズものぞき込む。
アマーリアは一行一行を指で追いながら、読み上げ始めた。
何行目かに来た時、
「本当に!?」
その意味が分かり、テレーズは思わず声を上げた。
「本当よ。ちゃんと書いてあるもの」
自分のことを喜ぶかのようなアマーリアの笑顔。
読み上げた内容は、その場に残っていた女官たちにも聞こえたのだろう。彼女たちは黄色い声をあげる。
嬉しい気持ちはテレーズも同じだ。フェルセンのせいで、ささくれていた心が、おめでたい知らせで潤いを取り戻した。
「侍医の見立てでは、秋に生まれるんですって」
我が目で確かめるべく、テレーズは今一度手紙を見た。
確かに、お腹に子供がいる、といったことが書かれている。
だが、続く文章にも目が留まった。
「ねえアマーリアさん」
「何、分からないところがあるの?」
「この部分だけど、まだみんなには言わないでって書いてあるんじゃない?」
アマーリアが笑うのをぴたりと止める。
ほらここ、とテレーズが便せんを指し示すと、
「やだ、私ったら……」
嬉しそうな様子から一転、ばつが悪そうにつぶやいた。
この部分だけ読み飛ばしていたのか、何にせよ、それだけ吉報が嬉しかったのだろう。
女官たちのざわめきも止み、場が静まり返る。
気まずい沈黙。
シャンクロ夫人の咳ばらいが、それを破った。
「ここだけの話、ということにしましょう」
異議を唱える声はなかった。
吉報は、この日のうちに、皇帝の耳にまで届いたという。
【71. 波風】
≪補足≫
・ブオナパルテというのは、ボナパルトをイタリア語風に読んだもの。ナポレオン自身、青年期まではこう名乗っていました。
・スウェーデンの領土は、スカンジナビア半島だけでなくドイツにもあると書きましたが、作中当時の話です。




