5. あらし雲の夜 後編
テレーズの心配は、現実のものとなった。
あの男がプチ・トリアノンに泊まるというのだ。
居ても立っても居られず、テレーズは母の元へ行こうとした。
だが養育係に止められた。
「アントワネット様は、もうお休みなさっています」
「まだ夕方じゃない」
「本日はお客様をお迎えなさったので、疲れておいでなのです」
「ウソよ、さっきまで元気だったわ」
先ほどフェルセンが部屋に入った時、母の明るい声がした。母の声をテレーズが聞き間違えるはずがない。
養育係はきっと嘘を吐いている。母に仕える女官たちとグルになっているのだ。
テレーズが疑いの目を向けると、養育係はその場で身を屈め、しかつめらしい顔つきで言った。
「アントワネット様のお腹におられるのは、あなた様の弟君か妹君。大事な御身ゆえ、少しでも体調が優れないときは、お休みになる必要があります。あなた様には、すでに弟君が二人もおられるのですから、わがままを言って、お母上様を困らせてはなりません」
「……分かったわ」
養育係の言葉が信じられない。
これまで第二の母のような存在だった。そんな彼女のことが、急に遠く感じられた。
テレーズは、いつものように女官に手伝われ、寝支度を済ませる。
今の時季、晴れていればまだ外は明るいが、今日は雨雲が太陽を隠している。
寝台に入ったものの、眠れるはずもない。
不安をかき立てるのは、母とあの男のこと。そして、窓に叩きつける雨の音。
「ねむれないの?」
隣で寝ていた親友が、寝返りを打つ。
「ティニ、おきてたの?」
「テレーズがソワソワしてるのが分かるから、わたしまで、ねむれないわ」
親友はここに泊まっている間、テレーズと二人でひとつの寝台を使っていた。
「お母さま、フェルセンといっしょにいたいから、わたしのことをジャマだと思ってるのかしら」
「考えすぎよ」
「心配でねむれない」
掛け布団の中で、親友に抱きついた。
「アングレーム公とベリー公のところに行ってみる?」
驚いたテレーズは、え、と聞き返す。
「もしかしたら、まだ二人とも、おきてるかも」
この言葉が、親友の口から出てくるとは思わなかった。
テレーズは迷わず、行くと答えた。
養育係や女官が夜の番をしている。ばれたら確実に叱られる。だが今は不思議と、叱られても構わないと思えた。
親友と共に部屋を出た。物音を立てないように、こっそりと。
従兄二人が泊まっている部屋。
少し開いた扉から明かりが漏れており、話し声が聞こえた。
「兄上、最近元気ないですね。何かあったんですか?」
「元気がないのは元々の性格だ。お前とは違う」
「兄上もぼくと同じで、勉強がイヤになったのかなと思って。だから、出かけたいって母上にお願いしたんです。ぼく一人でたのんでも、だめって言われそうだったから」
「……そっか。ありがとう、ベリー」
「やっぱり兄上、いつもとちがう」
テレーズたちがいない場所でも、想い人は口数が少なく、ベリー公はその逆だ。
「ぬすみ聞きみたいで、よくないわね」
二人が何の話をしているのか気になるが、確かに親友の言うとおり、盗み聞きは良くない。
扉を叩いて、自分たちがいることを知らせた。
「君たち、いたの?」
部屋には寝台がひとつ。想い人とベリー公が二人で寝ている。ベリー公は驚いた様子で体を起こし、想い人は枕から頭を上げた。
二人とも、すでにかつらを取っている。
聞いた話では、想い人もベリー公も、地毛は赤みがかったブラウンだという。
普段は見られない想い人の姿を、どうせなら明るい場所でじっくり見たかった。
「二人は何をしているかと思って、来てみたの」
「男がねてる部屋をのぞきに来るなんて、いやらしいなあ」
「からかわないで」
言い返しているのは親友。
今のテレーズには、おしゃべり少年のからかいに応じられるほどの気力はない。
「そうだ。王妃様と間男はどうなった?」
「アントワネットさまはもうお休みだからって、会わせてもらえなかったわ」
「間男といっしょにいた?」
「さあ、そこまでは分からない」
「ああもう、あの男の話はしないで!」
テレーズは、不安と苛立ちで声をあげる。
そのまま寝台に腰を下ろした。
閉じられたカーテンの向こう、雨脚が強くなっているのが音で分かる。まるでテレーズを嘲笑っているかのようだ。
「しっかし、王妃様も罪な人だな。こんなに娘がきらってる愛人と、今ごろは二人で」
「そういうことは言わないで、テレーズがいやがるわ」
「あのねえ、君たちも現実を見るべきだよ」
「どういうこと?」
「宮廷の大人たちは、親が決めた相手と結婚させられるから、おたがい好き同士じゃない。だから男も女も、みーんな愛人を作ってるんだよ」
テレーズはとっさに身構えた。
今カーテンの向こうで、這うような低い音がした。
「テレーズ、だいじょうぶ?」
隣に座る親友から小声で話しかけられる。
返事をする代わりに、テレーズは親友の手を握った。
こちらの気持ちもつゆ知らず、ベリー公はしゃべり続けている。
「王妃様と間男だって、何もめずらしくないんだから……あれ、そういえばフェルセンって結婚してたっけ。兄上は知ってますか?」
「知るか。僕に聞くな」
カーテンの隙間から光が見え、テレーズの心臓が大きく跳ねた。
直後、天を裂くような音が。
「ひゃあっ!」
テレーズは耳をふさぎ、体を縮ませた。
「マダム・ロワイヤル、かみなりがこわいの?」
耳をふさいでいるテレーズには、周りの話し声が聞こえない。
そこで二度目の雷鳴。
どんなに強く耳をふさいでも、一番嫌いな音は防ぎきれない。
「テレーズのいやがることは、もう言わないで」
背中に手が乗せられる。
優しく擦る、親友の手。
ふと思った。
母も雷を怖がっているのだろうか。フェルセンが母に寄り添い、なだめているのだろうかと。
見たこともない光景が、まぶたの裏に浮かぶ。
鼻の奥がツンとした。
「わたしたち、やっぱり自分のへやにもどるわ」
「ねえ、良いことを思いついたんだけど」
「何?」
「ぼくと君で、王妃様のところへ行ってみようよ」
「ベリー公とわたしで?」
「そうさ」
「テレーズは?」
「マダム・ロワイヤルは、ここで待ってなよ」
「一人にはできないわ」
「兄上がいるだろう」
テレーズの肩が軽く叩かれる。
おそるおそる顔を上げ、耳から指を離した。
目の前にいるのは、親友かと思いきやベリー公だった。
「ぼくとエルネスティーヌで、王妃様のところに行ってくるから、マダム・ロワイヤルはここにいなよ。兄上がいっしょにいれば、平気だろう」
「……な、なんで?」
どういうわけか、想い人と二人きりで夜を過ごすことになっていた。
親友とベリー公が、部屋から出ていった。
テレーズは今、掛け布団の中にもぐり込んでいる。寝台を一人で占領している状態だが、想い人がいいよと言ってくれた。
掛け布団は、夏用の薄手のものだが、頭まで被っていると暑いくらいだ。
想い人は近くにいる。寝てはいないはず。テレーズが籠城している間、彼は寝台の端に座ると言っていた。
「雷、もう止んでるな」
確かに、もう音はしない。
籠城し始めた当初は雷が怖かったが、いつの間にか、どうでもよくなっていた。
今は別の理由で、テレーズの心は落ち着かない。
「君は変わってるな」
「……な、何?」
言われたことの意味が分からず、聞き返した。
テレーズは暑さと緊張で喉がカラカラだが、想い人の声はいつもと変わらない。
「僕と一緒にいて、君は退屈だと思わないのか」
唐突な質問に、どうして、とテレーズは聞き返した。
「話し下手で何もしゃべらない、笑顔ひとつ見せない、だから一緒にいても退屈。そういう人間は欠陥だって、父上とプロヴァンス伯が話してた。きっと僕のことを言ってたんだと思う」
テレーズの父には、弟が二人いる。
年かさの方がプロヴァンス伯だ。
想い人が今言ったことを、テレーズは頭の中で繰り返した。
違う、と思った。
想い人が聞いたという話は、間違っている。
テレーズは今日一日、想い人とたくさん話をした。こんなに話をしたのは初めてだった。
それに、想い人の笑顔をテレーズは知っている。大笑いする姿はまだ見たことがないが、それでも彼は笑った顔を見せる。
他にも、想い人と一緒にいると、テレーズの心は忙しい。嬉しくなったり落ち込んだり、退屈する暇はない。
叔父二人が話していたのは、アングレーム公のことではなく、別の人の話ではあるまいか。
また疑問に思ったことがある。
想い人が今話した中で、聞いたことのない言葉があった。
「けっかんって、何?」
「そうだな……出来が悪いとか失敗作とか、そういう意味かな」
失敗作。
アングレーム公が、失敗作。
意味を理解した途端、テレーズの中に込み上げてきた感情。それは怒りだった。
(叔父さまたちったら、ひどい!)
それまで感じていた緊張や恥じらいは、一瞬で消え去った。
「そんなの、ウソっぱちよ!」
掛け布団を足で蹴り飛ばし、体を起こした。
声を荒げるのも寝具を蹴り飛ばすのも、王女らしからぬ振る舞い。おまけに今は夜。プチ・トリアノンが寝静まっている時間。
だがテレーズは構わない。想い人に驚かれようとも構わなかった。
「しっぱい作でも、たいくつでもないわ!」
「テ、テレーズ?」
「わたしはアングレーム公が好きだもん! わらった顔も好きだし、いっしょにいるのだって好きだもん!」
「テレーズ……」
「しっぱい作、だなんて、そんなことを言う方が、しっぱい作の大人よ!!」
渇いた喉で、声を張り上げた。
大好きな人のことを、酷い言葉で傷つけられた。
自分のことを悪く言われるより、テレーズは傷ついた。
涙が出るほどに、心が傷ついた。
「お、落ち着けって。これじゃあ、僕が泣かせてるみたいじゃないか」
違う。テレーズを泣かせたのは想い人ではない。テレーズの大好きな人の、悪口を言った人だ。
そう答えたいのに、涙があふれて、声がつかえてしまう。
すると、頭に何かが乗った。テレーズは驚いて顔を上げる。
涙でにじんだ視界でも分かる。想い人が、ぽんぽんと頭を撫でてくれているのだと。
「ありがとう。僕の代わりに、泣いてくれたんだな」
ぶっきらぼうな声が柔らかくなっている。小さな変化ではあるが、テレーズの耳には、それが分かる。
酷いことを言われて、想い人自身も傷ついたはずだ。その傷を、テレーズの言葉で治すことが出来たのだろうか。
テレーズの怒りや悲しみ、痛みも、自然と和らぐ。
ありがとうの言葉に、心が温かくなる。
そこで、ふと我に返った。
自分はたった今、何と口走っただろう。
(アングレーム公が好きって、言っちゃった!?)
笑った顔も、一緒にいるのも好きだと言った。勢いあまって想いを伝えてしまった。
涙がぴたりと止み、消えていた恥じらいが再び襲ってくる。
掛け布団を引っ掴み、すぐさま籠城し直した。
「い、今のは……その、あの、何でもない!」
何でもないわけがない。想いを打ち明けるつもりはなかったのに。
「本当に、君は変わってるな」
忍び笑いのような、想い人の声。
笑われたうえに、変わった子だとまで言われた。
ただでさえ、あらゆる感情でない交ぜになっていたテレーズの心に、大きなショックが上乗せされたのだった。
テレーズには夢がある。
大きくなったら想い人と結婚して、アングレーム公妃になりたい。
このことは、父にも母にもまだ伝えていない。
想い人の隣に並ぶためには、立派な王女にならなくてはいけない。
未熟なうちから自分の願いを伝えても、両親には娘のわがままだと思われてしまう。
それに何より、肝心の想い人に振り向いてもらえないだろうから。
恋する気持ちは、親友にしか教えていない。
ベリー公に言った覚えはないし、母にもない。だがこの二人には知られており、さらには母を通じて父にまで知られてしまった。
以前、母から言われたことがある。テレーズは「分かりやすい」のだという。
口にしなくても、この気持ちは周りに知られている。ならば想い人にも伝わっているかもしれない。ベリー公が教えている可能性もある。
それでいて、想い人がテレーズのことをどう思っているかは、分からないままだった。
そして、この夜。
テレーズは、はからずも自分の気持ちを伝えてしまった。
おまけに寝具を蹴り飛ばし、声を荒げるといった品のない振る舞いまでしてしまった。
こんな調子では、想い人から見たテレーズは子供っぽい従妹のまま。
立派な王女になれる日も、両想いになれる日も、遠そうだ。
翌朝の空は、テレーズの一番好きな色だった。
窓の外を見れば、心が明るくなる……はずだったが、今朝はそうはならない。
朝一番に母からお叱りを受けた。四人全員が一緒に。
子供同士のお泊まりで浮かれる気持ちは分かる。でも夜更かしせずにちゃんと寝なさいといった説教だった。
(お母さまは、どうなのですか?)
テレーズは心の中で言い返した。
フェルセンが泊まりに来たからと、夜更かしをしていたのではないか。
また他にも気になることがあった。
想い人の様子は、昨日までと変わっていないのだ。
やはり何とも思われていないのだろうか。テレーズはひそかに肩を落とした。
「兄上と一夜を過ごせたのに、うれしくなさそうだね」
ベリー公が顔を近づけてくるなり、耳打ちする。
この従兄は何食わぬ顔をしているが、テレーズは彼にも言いたいことがあった。
「きのうの夜、ティニにへんなことを言ったりしてないでしょうね」
「どんなことだよ」
「あなたの口からは、いろんな言葉がポンポン出てくるもの。ティニがいやがるようなことを言ったら、しょうちしないんだから」
「言ってないよ。そんなふくれっ面するなって」
「ティニにたずねてみるからね」
昨夜、親友とベリー公は、母の元に行くのを途中で断念した。夜の見回りをしていた養育係に見つかったという。
そしてつい先ほど、テレーズは親友に尋ねた。ベリー公に何か変なことを言われなかったかと。
返ってきた答えは、何も言われてないわよ、だった。
それでも念のため、ベリー公が帰った後、もう一度親友に確認するつもりだ。
従兄二人は、自分たちの館に帰るという。想い人と別れるのは名残惜しいが、わがままは言えない。
見送りがてら一階まで降りる途中、テレーズは何気なく窓の外に目を向けた。
正面入り口に向かって走ってくる、一台の馬車。
「お父さまだわ!」
待ち焦がれた人が帰ってきた。
この時ばかりは想い人のことも忘れ、テレーズは階段を駆け下りた。
今日は下りきる前に、階段の途中で父と会った。
抱き上げられると、視界があっという間に高くなる。
目の前にあるのは、父の満面の笑み。
テレーズから、おかえりなさいの口づけをして、大きな首に腕を回した。
父の帰りは、今日まで頑張ったテレーズへのご褒美だった。
【5. あらし雲の夜 後編】
≪補足≫
マリー・アントワネットは、プチ・トリアノンからルイ十六世を締め出していたという話が伝えられています。
それは本当のことなのでしょうか?
本作の参考文献『マリー・テレーズ 恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命』では、史実の主人公がパパっ子であった様子が書かれています。
夫妻の子供四人のうち、プチ・トリアノンで過ごした時間が最も長かったのは主人公です。
よしんば、パパがたまにしか子供たちの元に顔を見せなかったとしましょう。
顔を見せることはあっても、ママがパパのことを粗略に扱い、その光景が子供の目に映っていたとしましょう。
そんなパパを相手に、子供が懐くものでしょうか。