6. ある少年公爵の胸中
ベリー公と兄の住まいは、ヴェルサイユ宮殿ではない。
ヴェルサイユ宮殿から少し離れたところにある館。そこで傅育官と共に暮らしており、家庭教師から勉強を教わっている。
傅育官も家庭教師も、全員男性だ。
記憶がおぼろげなほど、ベリー公が幼かった頃。
ベリー公の暮らす場所は、ヴェルサイユ宮殿の一角にある子供部屋だった。
そこで毎日、姉と一緒に過ごしていた。
当時のベリー公が着ていたのは、姉と同じ服。ゆったりした白いロングワンピース。
身近にいた大人は全員女性。養育係や、世話役の女官たちだった。
子供部屋には、時おり父と母がやって来た。
ベリー公が姉と共に出迎えると、父も母も嬉しそうにした。
ただ両親が二人そろって姿を見せることは、ほとんどなかった。
ある時、ベリー公は養育係から悲しいことを聞かされた。
『いずれ殿下も子供部屋を出て、兄君の元へおいでになるのです。その時は、私とも姉君ともお別れをしなくてはなりませんよ』
ベリー公は、兄の顔を知らない。
なんでもベリー公がとても小さい頃に、子供部屋を出ていったという。
大好きな養育係や姉と別れなくてはならない。
それはベリー公にとって、想像するだけで、このうえもなく恐ろしいことだった。
『なによ、男のくせにメソメソして』
いつか来る別れを悲しんでいたベリー公に、二歳上の姉はこう言った。
『ベリーはいいわよね。お兄さまのところへ行けるんだから』
『あねうえは?』
『わたしは行かないわ』
『なんで?』
『わたしは女の子、およめに行くまで、このおへやにいるの。でも、あなたとお兄さまは男の子、大人になってもヴェルサイユにいられるの。だから、うらやましいわ』
うらやましいと言って、姉は口をとがらせる。
『フランスは、せかいでいちばんうるわしいくに。ほかのくには、どこもいなか。がいこくへおよめに行くひめさまは、かわいそうだって、大人たちがはなしてたもの』
フランスは世界で一番麗しい国、他の国はどこも田舎、外国へお嫁に行く姫様は可哀相。
そう大人たちが話していたという。
もっとも、この当時五歳にもなっていないベリー公にとっては、内容の難しい話だった。
翌年の初夏。
子供部屋に、見知らぬ男性がやって来た。
傅育官のセラン侯爵と名乗った彼は、ベリー公を兄のところに連れていくと言った。
『アングレーム公の時もそうでしたが、五歳半で男性の手に渡るのは早すぎます』
不満げな顔をする養育係。
ベリー公にとって、この人生の節目はわくわくするものだった。
巣立ちの時が来ることは分かっていたため、別れの悲しみはすでに乗り越えていた。
兄のアングレーム公。
一体どんな人なのだろう。早く会ってみたい。
ところで姉はというと、ベリー公との別れに口をとがらせることもなければ、寂しがる様子も見せなかった。
実は、この年の初めに妹が生まれていた。
産着にくるまれた末っ子に、姉は夢中だった。
子供部屋に一人残されることを、姉は寂しがっていた。
だが今は一人ではない。ベリー公がいなくなっても、妹がいる。
こうして、ベリー公は子供部屋を後にした。
子供用の白いワンピースはもう着ない。これから毎日着るのは、周りの大人が着ているものと同じ形の服。
ベリー公は自分が誇らしくなった。
この気持ちは、兄に対する優越感でもあった。
というのも、実際に会ってみた兄はとても物静かで、自己主張をしない性格だった。
そして、その人となりが大人たちから良いふうに思われていないことが、ベリー公には分かったのだ。
『ベリー公はお父上様に似て明るい性格で、人見知りもしない。将来が楽しみなお子だ』
セラン侯爵や家庭教師たちは、口をそろえて言った。
(ぼくは、兄上よりすごいんだ)
そう思っていたある時、ベリー公は兄に頼み事をした。宿題を代わりにやってほしいと。
兄は嫌がるそぶりも見せず、すらすらと問題を解いて、すぐに終わらせた。
兄は自分よりも優れている弟にひれ伏して、代わりに宿題をやってくれたのだと、ベリー公は思った。
ところが、家庭教師に提出したその宿題は、全部の答えが間違っていた。
どういうことだと、家庭教師に問い詰められた。
動揺したベリー公は、これは兄がやったものだと口を滑らせた。
家庭教師から大目玉を食らったのは言うまでもない。
授業の後、ベリー公は兄に文句を言いに行った。
三歳下の弟の宿題を、兄がすべて間違えるはずがない。わざと間違った答えを書いたのだ。
『自分でやるべきことを、人にやらせようとするからだ』
兄はいつもの無表情で、ぶっきらぼうに言った。
ベリー公は兄を馬鹿にするのを止めた。
しばらくして、ベリー公と兄の元に思いがけない知らせが届いた。
妹が亡くなった、と。
ベリー公は姉のことが心配になった。姉は今度こそ一人ぼっちになってしまったのだ。
子供部屋に、姉の元に戻りたい。ベリー公は、父や傅育官に何度も頼んだ。
だが聞き入れてはもらえなかった。
その年の暮れ、さらに信じられないことが起こった。
姉までもが亡くなった。
年の初めに家族が一人増えて、父も母も喜んでいた。だが年の終わりには、二人減っていた。
ちょうど、そうした頃だった。
ヴェルサイユ宮殿に出向いた時、大人たちの会話を偶然聞いたのは。
『亡くなったのが、二人とも姫でよかったな』
『ああ、まったくだ』
『王妃は今頃、ざまあみろ義妹と喜んでいるだろう。自分を差し置いて世継ぎを生んだ、その鬱憤を晴らせたって』
大人たちの話が、ベリー公にはすべて理解できない。それでも分かったことがある。
姉と妹が亡くなったことを、王妃が喜んでいるのだと。
頭に血がのぼったベリー公は、その場から駆け出した。
後ろから兄の声が追いかけてくる。待てベリー、と。
ベリー公は兄の制止を無視し、宮殿じゅうを走り回って、王妃を探した。
そして、ようやく見つけた。
王妃付き女官長も居合わせていたが、他に人はいない。
ベリー公は王妃に食ってかかった。姉と妹が死んで、ざまあみろと思っているのかと。
途端に恐ろしい剣幕になったのは、王妃ではなく女官長だった。
『ベリー公、お言葉が過ぎますよ!』
厳しく叱る声に、ベリー公は怯みかけた。
だが先ほど聞いた会話を思い出せば、込み上げる怒りが勇気に変わった。
そこで、王妃が女官長を制した。
王妃はベリー公の前まで来ると、身を屈めた。
女官長の剣幕とはまた違う、真剣な表情。
その手がおもむろに、こちらへ伸ばされる。
引っ叩かれると思ったベリー公は、とっさに目を閉じて身構えた。
片手が頬に触れる。
続けて、もう片方の手も。
『泣かないで偉いわね』
叱りつけるような声ではない。その両手は、ベリー公の頬を包み込んでいる。
おそるおそる目を開けると、優しく微笑む王妃がいた。
『でも、我慢はしちゃだめよ』
ベリー公は何も言えなくなった。
王妃の顔が、涙でにじむ。
泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、うつむく。
こぼれる涙。
堪えきれず、王妃の胸に飛び込んだ。
背中に回された王妃の腕。ベリー公が泣き止むまで、抱きしめてくれた。
本当は、誰かにこうしてほしかった。
大人と同じ宮廷服を着ているのに、子供のようにメソメソするのは恥ずかしい。そう自分に言い聞かせ、心の痛みを押し殺していたのだ。
…………。
目を覚ますと、広げたテキストとノートが枕代わりになっていた。
やり忘れた宿題。
次の授業までに終わらせてくるようにと家庭教師から言われている。
さすがに続けて忘れたら、家庭教師ばかりか、セラン侯爵にまで怒られてしまう。
今日はよく晴れている。外で遊んだら、きっと楽しい。
それなのに、机に向かって勉強しなければならない。
ゆったりした白い服を着ていた頃なら、難しいテキストとにらめっこせずに済んだのに。
今見ていた夢は、まだ幼かった日のこと。
姉と妹が亡くなってから、もう三年。アルトワ伯一家に新しい家族は増えていない。
父に愛人はいるが、愛人を家族に入れたら、母が嫌な顔をするだろう。
そういえば、先日ヴェルサイユ宮殿に行った時、母の立ち話が耳に入った。
『王妃の生んだ子供は、どの子からが、フェルセンとの愛の証なのかしら』
女官たちと楽しげに笑っていた母。近くの物陰にベリー公がいたことには、気づいていなかったようだ。
母の話を聞いて、ベリー公にも分かった。
愛の証とは、子供という意味。また母は、本当は王妃のことが嫌いなのだと。
(もしも父上と愛人の間に、愛の証が出来たら、母上はどうするんだろう)
それは、もしものこと。
その先は考えたくない。
嫌な考えと宿題。その両方から逃げたくなり、ベリー公は机を離れて、窓辺に向かった。
この部屋の窓は、ちょうどプチ・トリアノンの方角にある。
外を眺めながら、ぼんやりと考えた。
気になるあの子は今、何をしているのだろう。
エルネスティーヌ・ド・ランブリケという少女は、ベリー公にとって謎多き存在だった。
宮廷行事のときに、見かけたり見かけなかったりする。
従妹や王夫妻とは親しげに話をしているが、他の王族の前では、かしこまって「小さな女官」になる。
それが、ベリー公の目に映る彼女だった。
自分たち兄弟がプチ・トリアノンに泊まった日、彼女は小さな女官ではなかった。
謎多き彼女のことが気になり、二人で話をしたいと思った。王妃のところへ行こうと提案したのは、連れ出すための口実。
暗い中を二人で歩いていた時、彼女は何かにつまずいたのか、ベリー公の服の袖を掴んだ。二人とも体勢を崩しかけたが、転ぶことはなかった。
ベリー公が顔を上げた時、目と鼻の先に、彼女の顔があった。
暗がりで、女の子と二人きり。
とても近い、互いの距離。
意識した途端、ベリー公の胸の奥がドクンドクンとうるさくなった。心臓の音なんてものは、普段は気にも留めないのに。
もっとも、そうしていた時間は短かった。
見回りをしていた女官が(邪魔をしに)来たせいで。
そして、翌朝。
彼女のことを、明るい場所でよく見てみた。本人に気づかれないように、横目でちらちらと。
以前から思っていたことだが、彼女は可愛い。
いいや、ものすごく可愛い。
ベリー公の中で、彼女がただの謎多き美少女ではなく、それ以上の存在に変わったのだ。
「いいなあ、マダム・ロワイヤルは」
つぶやいた言葉に、答える声はない。
従妹がうらやましい。なにせ毎日のように、彼女と会っているのだから。
■■■
母のお産に立ち会いたいと、テレーズは両親に頼んだ。
子供に見せるものではないと、父から反対されたが、母がとりなしてくれた。いずれテレーズも経験することだからと。
お産の「兆候」があったのは、七月の終わり。
親友も立ち会う予定だったが、この日は無理だった。ランブリケ夫人がまた体調を崩していた。
そして今、テレーズはヴェルサイユ宮殿の一室にいる。部屋の隅で、母のことを見守っていた。
寝台の上で、もがき苦しむ母。
その周りでは、侍医や女官たちがせわしなく動きまわっている。
このままでは、母が死んでしまう。
テレーズは胸の前で両手を組み、目をつむり、祈り続けた。
(どうか、お母さまを苦しませないでください。弟でも妹でもいいから、元気な赤ちゃんをさずけてください)
テレーズ、と呼ぶ声で、目を開ける。
父が真正面にいた。身を屈め、不安そうな顔でこちらを見ている。
「無理していないか? 気分が悪くなったら、いつでも言いなさい」
父は、テレーズのことまで心配している。
母の方がずっと大変な思いをしているはずなのに。
「だいじょうぶです」
少しだけ、強がりと背伸びをした。
父は、そうか、と答えて微笑んだ。
今日、父はお産に立ち会うため、政務を休みにしたという。それを聞いたテレーズは心強くなった。
「ああして苦しそうにしているが、お前を生んだ時と比べたら、トワネットはまだ楽な気持ちでいられるだろう」
母がいる方を見ながら、父は言う。
「そんな、楽だなんて」
「昔は、妃のお産は公開されるもので、誰でも見ることが出来たんだ。お前が生まれた時には、見物人で部屋があふれ返っていて、十二月なのに人の熱気で熱いくらいだった」
「ええ!?」
信じられないような話だ。
「お母さまは、ぶじだったのですか?」
「無事でなかったら、お前の弟たちは生まれていないさ」
それもそうかと納得した。
「お前が生まれた時を最後に、公開出産というしきたりはなくなった。だから今この部屋にいるのは、医者と看護役の女官、何人かの証人。あとは私たちだけだ」
テレーズは改めて、寝台の方を見た。
自分たちが話をしている間も、母は苦しみ続けている。テレーズの弟か妹を産むために。
大きな手が肩に乗った。
その手の温かさを、テレーズはよく知っている。
「安心しなさい。お前の母マリー・アントワネットは強い女性だ」
父の言葉が、とても誇らしいものに感じられた。
産まれたのは、テレーズにとって初めての妹。
名前はソフィになった。
妹の誕生は、昨年シャルルが生まれた時に比べて、盛大に祝われなかった。男の子ではなく、また財政的なことを考慮しているからだという。
女の子だから、お祝いの催しにはお金がかかるから。
両親や養育係から説明された理由が、テレーズには納得できなかった。
母があんなに頑張って産んだ子供なのに、性別や生まれた順番で、どうして祝われ方に差があるのだろう。
【6. ある少年公爵の胸中】
≪傅育官とは≫
若君の教育係。傅育とは、かしずき育てるという意味。
女子もとい姫に傅育官は付きません。
≪補足≫
作中の王族は、学校でクラスメイトと机を並べて授業は受けません。
自宅で教わるのが普通なら、家庭教師という言い方では、かえって違和感がありますが、イメージしやすいように家庭教師と書いています。
またこの時代、同じ王家の子供でも、女子より男子の方が、幼いうちから高度な教育を受けていました。そのため、子供キャラのセリフにおける漢字の割合は、女子より男子の方を多くしています。




