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58. 恋敵テレーズ

 一七九六年、初夏。

 皇帝フランツとその家族は、ウィーン郊外にある離宮シェーンブルンに来ていた。


 到着してすぐ、フランツの部屋に、妻が姿を見せた。


「部屋にこもってばかりいないで、あなたも外へ出ましょう」

「こもるも何も、今到着したばかりだ」

「あら、じゃあ」


 妻がフランツから視線を外し、近くのテーブルに置かれていた書類の束に手を置く。


「これは何かしら。ホーフブルクから持ってきた仕事をやろうとしていたんじゃなくて?」


 妻は目ざとい。

 そうだとフランツが答えれば、妻は呆れ顔になる。


「シェーンブルンにいる間は、仕事人間になるのは禁止よ」

「仕事人間とは、私のことか?」

「他に誰がいるの。ホーフブルクにいるときのあなたは、政務だの臣下との引見だので、私のことは二の次三の次でしょう」

「やれやれ、帝国の母たる皇妃ともあろう者が、夫をめぐって仕事にやきもちか」

「まあ。妻の気持ちも知らないで、薄情な人」


 口ではこう言うものの、妻の口調は弾んでいる。


「とにもかくにも、ここは夏の離宮。ほら、外を見て。今日は快晴よ」


 窓の外には広大な庭園と、よく晴れた空。

 もっとも、そうした風景よりも、フランツの視線は別のところに向いていた。


「どうしたの、フランツ?」


 見つめていたら、妻が不思議そうな顔をした。


「太陽の照らす庭園よりも、テレーザの方がまぶしいと思ってな」


 妻の笑顔が太陽になった。

 今日のように暖かく晴れている日は、妻が上機嫌になる。生まれ故郷を思い出しているのだろう。

 あいにくウィーンは、ナポリに比べて寒冷地だ。


 しばし夫婦水入らずの時間を過ごしていたが、急な知らせにより、心休まるひと時は中断した。

 部屋に来たのは養育係。

 その深刻そうな表情に、フランツは悪い予感がした。


「フェルディナント様が――」


 案の定、長男のことだ。


 自分たち夫婦の子供はまだ幼い。四歳半の長女、三歳になったばかりの長男。さらにその下には、生まれたばかりの娘が一人。


 長男フェルディナントは、病弱で心配が絶えなかった。

 ここ最近は体調が安定していたため、シェーンブルンでは、手押し車に乗せて庭園を散策しようと思っていた。

 その矢先、体調が急変したという報告。


 青ざめた顔をする妻と共に、急いで長男の元に向かった。




■■■




 テレーズは数日前から、シェーンブルンに滞在している。

 皇帝の家族でもないのに離宮へ連れてこられたのは、監視目的であろう。


 そういえば、ここに来た初日、皇帝夫妻の長男が体調を崩したという話を小耳に挟んだ。

 幼い世継ぎの容態が、その後どうなったのかは聞いていない。

 だが仮にも危険な状態になっていたら、この離宮にいる人々は、もっと慌ただしくしているはず。

 テレーズが見る限り、そうした様子にはなっていない。なら大事には至っていないのだろう。




 昼下がり、テレーズは自分の部屋で手紙を読んでいた。

 差出人はルイ十八世。

 王はヴェローナを離れた後、ドイツへ向かった。

 今いる場所は、ライン方面で戦っているエミグレ軍の駐屯地だという。


 この軍はエミグレの有志で構成されており、率いているのはコンデ公。ベリー公も現地にいる。

 軍は人数自体があまり多くないようで、オーストリア軍の一部を成しているといったことが書かれていた。

 また他にも、



‘私は現地に長く留まれないだろう。なにぶん皇帝フランツは、私がコンデ軍と共にいることを快く思っていない。

 そこで叔父王のたっての頼みだ。あなたから皇帝に口添えをしてほしい。

 あなたは、ルイ十八世と皇帝との友情の証なのだ’



 王がコンデ軍の駐屯地に居続けていられるよう、テレーズから皇帝に頼んでほしいと。


(面倒事を持ち込まないでよ)


 心の中で悪態を吐いた。

 皇帝に頼み事をしなくてはならないのだろうか。あのしかめっ面がますます険しい顔になるさまが、テレーズの脳裏に浮かんだ。


 読み終えた後、何とはなしに窓の外を見た。

 先ほどまで雨が降っていたが、いつの間にか晴れている。

 テレーズは呼び鈴を鳴らし、ココの散歩に行きたいと伝えた。




 片手には日傘。もう片手には、ココに付けたリーシュ。監視役の女官はシャンクロ夫人。

 建物の中でも、庭園に出ても、すれ違う人々はみな、喪服を来た王女のことを遠巻きにじろじろ見てくる。

 それでもテレーズは外へ出ている。ココの運動不足解消のために。

 用事があって、どうしても世話が出来ないとき以外は、極力テレーズ自身でココの面倒を見たかった。


 ココは辺りを見回しては、雨上がりの地面に鼻を近づけ、においを嗅ぐことに余念がない。

 ただ年をとったせいか、昔ほどの活発さはない。

 子犬だった頃は、弟と外を駆け回り、追いかける女官たちをヘトヘトにさせていた。ああした姿はもう見られないのだろう。


 顔を上げたテレーズは、改めて周りの風景に目を移した。

 この離宮で、母はどんなふうに過ごしていたのか。

 テレーズがまだ子供だった頃、思い出話を聞かせてもらったことがあったが、その内容はおぼろげにしか思い出せない。


 しばらく散歩をしていると、向こうに姫君の姿を見つけた。

 彼女も女官を一人連れている。テレーズのような監視目的ではなく、供を付けずに屋外を出歩くのは危険だからであろう。


 テレーズさん、と言いながら彼女は駆け寄ってくる。


「アマーリアさん」


 テレーズも彼女の名前を呼んだ。


「ココのお散歩中?」

「おさんぽ?」


 アマーリアが話すのはドイツ語。こちらが聞き返すと、


「ココの、お散歩をしてたの?」


 彼女はゆっくりと言い直す。今度はテレーズにも聞き取れた。ココの散歩。


「そうよ。うんどうのために」


 テレーズのドイツ語はたどたどしい。家庭教師から教わっているが、まだ習い始めて半年かそこらだ。

 一方のアマーリアは、フランス語をある程度は聞き取れるが、ほとんど話せない。


 こうして二人で話すときはドイツ語を使う。

 アマーリアはこちらを気遣ってゆっくりと話すが、意思疎通に時間がかかるのは毎度のこと。

 それでも彼女は嫌な顔ひとつせず、テレーズに話しかけてくれる。


 この宮廷にいる同年代の女性の中で、こんな親切な人はアマーリアくらいだ。


 彼女はその場で身を屈め、


「ココ、ホーフブルクは楽しい?」


 垂れ耳の付け根や下あごを撫でながら、ココにも声をかける。ココが撫でられて喜ぶ場所は、テレーズからすでに教えていた。


 そして、彼女はまた立ち上がる。


「私と会ったことは、内緒にしてね」

「ないしょに?」


 なんでも皇妃が今お茶会を開いており、アマーリアも参加していた。しかし体調が悪くなり、途中で抜けてきたという。


「アマーリアさん、たいちょうがわるいの?」

「ええ。仮病だけど」

「けびょう?」

「嘘を吐いて抜けてきたの。つまりは、ずる休み」

「……ず、ずる休み!?」


 テレーズにもその意味が分かり、驚いて声がうわずった。


「大きな声で言わないで。あまり知られたくないわ」


 アマーリアが人差し指を立てて口元に当てる。

 シャンクロ夫人も内緒にしてね、と言って、彼女はテレーズの斜め後ろに視線を送った。


 大きな声では言えない事情でもあるのだろうか。

 テレーズはひとまず、アマーリアの話すことに耳を傾けた。


 アマーリアは子供の頃から、知らない人が大勢集まる場所が苦手だった。

 心が疲れてしまい、それが体調にも影響するのか、翌日には決まって寝込んでしまう(それは仮病ではなく本当の不調だという)。


 そのため宮廷での催し物は、ごく内輪で開かれるものを除いて、いつも欠席している。


 今日のお茶会は、姉クレメンティーネや皇妃に誘われて、珍しく参加してみた。

 大人数の集まりではなかったものの、招待客は知らない女性ばかり。そのうえ周りの会話に付いていけなかった。

 疲れてしまいそうだったので、そうなる前に抜け出した。

 庭園をぶらぶらしながら自分の部屋に戻ろうとしたところで、テレーズを見かけ、今に至る。


 以上の話を、アマーリアは時間をかけて説明してくれた。


 彼女はあまり体が丈夫でないという話なら、テレーズも知り合った当初から聞いていた。だが詳しいことを聞かせてもらったのは初めてだ。

 そこで、ふと気づいた。


「今、話していても、つかれるの?」

「いいえ、全然疲れないわ。この場にいるみんなは、よく知ってる顔だもの」


 アマーリアは自分の周りを見回し、


「あと、ココもね」


 と言って、ココにも笑いかける。

 キュゥンという鳴き声が、それに答えた。




 それからテレーズは、アマーリアと並んで庭園を歩いた。アマーリアの女官とシャンクロ夫人は、距離をとって後ろから付いてくる。

 しばし二人で話をしていると、


「そういえば、アントニア叔母様って、私のお姉様と顔が似てるんでしょう?」


 アマーリアから出し抜けに尋ねられた。とりとめのない話をするかのように。


「テレーズさんから見ても、似てるって思う?」


 こちらの会話は、後ろの女官二人にも聞こえているのだろうか。だとしたら、彼女たちは複雑な表情をしているに違いない。


 テレーズは改めて思った。やはりアマーリアは変わっていると。

 かといって、その気持ちは口に出さない。彼女に合わせ、こちらも不自然な態度にならないよう会話に応じる。


「ええ、よくにているわ。はじめて会った時、びっくりしたもの」

「やっぱりそうだったの。お姉様も言ってたわよ。晩餐会のあいだじゅう、ずっと見られてたって」


 テレーズが知る限り、この宮廷では、母のことを誰も話題に出さない。アントワネットやアントニアという名前は、あたかも忌み言葉であるかのように。

 だがこの従妹は例外。この点でも、アマーリアは他の人々とは違うのだ。


 ところでアマーリアが今言った「私のお姉様」というのは、彼女のすぐ上の姉クレメンティーネのことだ。


 テレーズがクレメンティーネと初めて顔を合わせたのは、喪服を着て晩餐会に臨んだ時。

 そこで驚きのあまり、彼女のことを凝視してしまった。

 クレメンティーネは、テレーズの母に生き写しだった。娘のテレーズよりも似ているのだ。若い頃の母は、きっとこうした姿をしていたのだろうと思うほどに。


 ただ初対面でじろじろ見てしまったのは、さすがにマナー違反だった。


 知り合って半年ほど経つが、クレメンティーネはテレーズのことを避けている。顔を合わせるたびに話しかけてくれるアマーリアとは正反対だ。


 クレメンティーネの態度には、晩餐会でのこと以外にも、皇妃の影響があるのかもしれない。

 彼女もまた未婚だが、嫁ぎ先はすでに決まっている。

 婿となる相手はナポリ王太子、皇妃の弟。

 つまりクレメンティーネにとっての皇妃は、兄嫁にして、未来の夫の姉なのだ。


 皇妃のことを思い出すと、テレーズの心は重くなる。

 この宮廷の中心人物、女ボスから向けられる敵意に気づかないほど、こちらとて鈍感ではない。


 だが今はアマーリアと話をしている最中。憂鬱な気持ちは脇へ追いやろう。勉強中の外国語を聞き取り、受け答えをするのに、他の考え事は邪魔なだけだ。


 すると、不意にアマーリアの視線が外れた。

 テレーズの肩を超え、後ろの方へと。


「あら、ルドヴィカ」


 アマーリアが、その名前を呼ぶ。

 こちらに歩いてくる幼い姫君。その後ろにも女官が一人いる。皇妃と同年代に見えるが、幼い姫君の養育係か世話役であろう。


 皇帝夫妻の長女マリア・ルドヴィカは、テレーズたちの前まで来て、立ち止まった。


「どうしたの、むすっとして。可愛い顔が台無しよ」


 その表情はふくれっ面。若い叔母から話しかけられても、返事をしない。

 不機嫌そうな視線が向けられる先は、もしやテレーズではあるまいか。


「もふくのおねえさん、よくききなさい」


 ルドヴィカが開口一番に言ったこと。ドイツ語ではなく、たどたどしい発音のフランス語。空耳でなければ「喪服のお姉さん、よく聞きなさい」と。


 小さい人差し指がこちらへ向けられた。


「カールおじさまは、わたしのものよ!」


 テレーズは呆気にとられて返事が出来ない。おそらくアマーリアたちも。

 そんな中で真っ先に口を開いたのは、


「ルドヴィカ様、人に向かって指をさしてはなりません」


 幼い姫君の後ろに控えていた女官。慌てた様子でたしなめる言葉は、流暢なフランス語。

 ただルドヴィカの様子を見る限り、お小言は聞き流されているようだが。


 それはそれとして、ルドヴィカは今何を言おうとしたのか。言葉は聞き取れたが、意味が分からない。


 隣から吹き出す声。

 見れば、アマーリアがおかしそうに笑っている。


「そうよね。ルドヴィカからすれば、テレーズさんは恋敵だわ」

「こいがたき?」


 テレーズが聞き返すと、


「しらばっくれないで!」


 ルドヴィカが答える。今度もフランス語。


「あなたが、カールおじさまとアン……アン、えっと……アンなんとかこうをたぶらかしているのは、お見とおしよ」


 言葉の途中で詰まり、言い直した。

 テレーズにも、やっと分かった。ルドヴィカが何を伝えようとしているか。


 カールおじさまというのは、カール大公。

 アンなんとかこう、というのは、アングレーム公と言いたいのだろう。


「アマーリアおねえさま、わらわないで。わたしは、しんけんなの」


 本人なりに真剣なルドヴィカをよそに、アマーリアはまだ笑っている。


「もういいわよ!」


 ルドヴィカは怒っているのか恥ずかしいのか、赤らんだ頬をふくらませながら立ち去る。

 その後ろに控えていた女官は、ルドヴィカのぶしつけを詫びてから、小さい背中を追った。


「恋敵の登場ね、テレーズさん」


 アマーリアは笑いの余韻を引きずっているようだが、テレーズはとても笑える気分ではない。


「困ったわ……」


 口からこぼれた母国語。


「そう暗い顔をしなくても大丈夫よ。子供の言うことなんだから」


 今のテレーズは暗い顔をしているようだ。

 確かに、気分は暗く、心は重くなっていた。


 テレーズのことを嫌っている宮廷人は多い。それは前々から自覚していたことだが、あんな幼い子供までもが、その中に入っているとは。


 ルドヴィカは、あの皇妃の娘。

 つんけんした態度は、きっと母親の影響だ。




【58. 恋敵テレーズ】


≪補足≫

・主人公のセリフに平仮名が多いのは、ドイツ語(ウィーン方言)が(つたな)いため。

・コンデ公とは:分家の家長。第12話に説明あり。



≪姫君たちについて≫ ◎は創作している点。

アマーリア:

・先帝の四女

・主人公より二歳下

・末子ではない(弟がいる)

◎体調を崩しやすい


クレメンティーネ:

・先帝の三女

・主人公より一歳上

・ナポリに嫁ぐ予定

・ママ王妃に顔が似ている


ルドヴィカ:

・皇帝夫妻の長女

・現時点で四歳半

◎おしゃまで早熟、カール叔父様に片想い

・のちにフランス皇妃マリー・ルイーズとして歴史に名を残す


 なおルドヴィカの名前について。

 結婚前の彼女を、ドイツ語名ルイーゼと書く文献もありますが、本作はストーリーの都合でルドヴィカにしています(ウィキペディアより知恵を拝借、2023年10月に記事確認済)。


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