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56. 因縁の男

 父の追悼ミサに参列した、翌日の夕方。


 辺りが薄暗くなってきた頃、テレーズの部屋に女官が来た。


「明かりをおつけいたします」

「ええ、お願い」


 今のテレーズの返事は、不自然なものではなかっただろうか。


 燭台(しょくだい)に火が灯される瞬間を、今朝から待ち続けていた。

 季節が冬でよかった。夏だとしたら、今の時刻はまだ昼のように明るい。もどかしい気持ちのまま、さらに長い時間待たなければならなかった。


 ろうそく一本一本に、小さい炎が灯される。


 点火し終えると、女官は部屋を後にした。夕食の時間になるまで、もう少し待つようにと言い残して。テレーズは基本的に、毎食自分の部屋で食べている。


 部屋には今、自分一人。


 さっそく手紙を取り出した。昨日猊下からもらったもの。火にかざして読むようにという指示が書かれていた。


 火が便せんに燃え移らないよう気をつけながら、隅から隅まで、ろうそくにかざす。

 余白に文字が浮かび上がってきた。



‘重要なことは、今後レモン汁や牛乳、砂糖水をインク代わりにして書きなさい。

 今のあなたは囚われの身。そのことを肝に銘じておくように’



 あぶり出しの手紙。

 この手段を用いて、あの叔父と連絡をとり合う日が来ようとは。


 とにもかくにも内容は確認した。

 テレーズが皇帝の監視下にあることを、ルイ十八世もすでに知っているようだ。


 他にも手紙が入っていた。差出人はベリー公。

 これも火にかざしてみるが、文字は浮かんでこない。普通に書かれた手紙だった。


 アングレーム公もベリー公も、テレーズにとっては従兄にして幼なじみ。

 だが今となっては、かつての友情を思い出せない。

 二人とも革命の惨事を知らず、真っ先に国外へと逃げおおせた。テレーズたち家族と比べれば、苦労らしい苦労は何ひとつしていないだろう。

 彼らに対しても恨めしい気持ちしかない。


 とはいえ、同じ従兄から届く手紙なら、アングレーム公の書いたものが欲しかった。

 近い将来、彼はテレーズの夫になる。個人的な感情は抜きにして、重要な人物。


 義弟になる男から手紙をもらったところで、ありがたみはあまり感じられない。





 それから一ヶ月ほど経った。

 この日、テレーズはホーフブルク内の礼拝堂に向かっていた。通常のミサにあずかるために。


 その道すがら、向かいから歩いてくる一人の男性が目に留まった。


 はじめ、それは幻だと思った。人違いではないかと。


 消息が分からない知人は何人もいた。

 テレーズはてっきり、彼も不幸な目に遭っていると思っていた。


 もしも彼が虐殺の犠牲になっていたとしたら、それはテレーズのせい。

 チュイルリーから逃れようとした時、彼に先導されるのは嫌だと駄々をこねたせいだと思っていた。


 しかし、それは違う。

 彼は生きていた。


 見かけるときは、いつも乙に済ました顔をしていた。

 それが今、驚いた様子でこちらを凝視している。初めて見せる表情。


 テレーズの中で、安堵とともに、おかしさまで込み上げる。つい頬が緩んだ。


 フェルセンは生きていた。テレーズが殺したわけではなかったのだ。


 こちらから声をかけたい。

 だが自制した。

 テレーズが誰と会い、話をしたかは、皇帝に筒抜けだ。

 なにせテレーズのそばには監視役がいる。部屋を出た時から付いてきた女官が。


 仕方がないので、テレーズは彼に会釈だけして、その場を通り過ぎた。


 こんな調子だったので、ミサにはまったく集中できなかった。


 ミサが終わると、テレーズはすぐさま礼拝堂を後にした。お待ちください、という女官の声も、この時ばかりは聞かない。

 早足で向かう先はもちろん、先ほどフェルセンと会った場所。

 ところが、


「いない……?」


 そこに、もう彼の姿はなかった。




■■■




 カールは兄帝に呼び出された。引見に立ち会うようにと。


 そして今、目の前には、謁見を許された一人の男がいる。

 自分たちの叔母たる亡きフランス王妃、彼女と大変親密な仲、ざっくばらんに言うと愛人だったと噂されている人物。


 フェルセン伯が兄帝に言上(ごんじょう)している、その内容は以下のとおりだ。


 王妃は処刑される前、金や宝石類を信頼できる人々に託していた。我が身に万一のことがあったとき、子供たちの手に遺産が渡るように。

 ところが遺産を託された者全員が、王妃の信頼に応えたわけではなかった。

 財産管理の仕方がお粗末だったのか、突然手元に転がり込んだ大金を前にして良識を失ったのか、はじめから王妃を裏切るつもりだったのか。


 ともあれ、フェルセン伯の言うことは、ここからが本題。


 王妃が遺した財産が、せめて残っている分だけでも、遺児たるテレーズの元へ渡るように。フェルセン伯はヨーロッパ各地を訪ねて調べてきた。

 その結果、遺産の多くはめぐりめぐって、皇帝フランツの元にあるのではないかと踏んだ。

 直接確かめるべく謁見に臨んでいる、という話だ。


 フェルセン伯の言うことに耳を傾けながら、カールは思うのだった。


(よくやるものだな。亡くなった一人の女性のために、ここまで我が身を犠牲にするとは)


 それだけ惚れた相手だったということか。


 言上が終わると、兄帝が口を開いた。


「貴殿の申すことは正しい」


 兄帝のしかめっ面は、引見のときでも変わらない。


「もしや貴殿は、亡き王妃の遺産を、余が横領していると思ったのか」

「違うとおおせなら、その理由をお聞かせください」

「余の従妹マリー・テレーズはまだ若い。莫大な財産の管理は無理だ。それに彼女は、じきハプスブルク家の一員になる。ここにいる余の弟カールの妻にな。そのための持参金だ」


 兄帝がカールを指し示すと、フェルセン伯の目がこちらを向く。

 瞳の奥に、不信感を宿しているようなまなざし。


 彼はまた兄帝の方を見て、問うた。テレーズの意向はどうなのかと。


「娘のご機嫌伺いをしながら、縁談を考える君主はいない」

「はじめからそうした意図で、テレーズ様をウィーンにお迎えしたのですね」


 そのとおりである。


「貴殿も苦労している身であろうからな。本当は、このようなことを言いたくないのだが」


 兄帝は改まったように前置きする。


「余は、亡きフランス王妃のことを、我が一族の人間だと思いたくない」


 フェルセン伯の表情がこわばった。信じられない話を耳にして、言葉を失ったかのような顔に。


「聞くに堪えない醜聞の数々は、ハプスブルクの家名に泥を塗っただけであった。オーストリアとフランスの同盟は、多くの犠牲を払って成立したものであったが、今や見る影もない。そうなった原因は、貴殿が王妃と関係を持ったことも決して無関係ではなかろう」


 それだけではない、と兄帝は続ける。


「貴殿らの情事に、最も心を痛めていた者が誰であったか、分かるか」


 フェルセン伯の答えを待たずに兄帝は言った。

 マリー・テレーズだ、と。


「情夫に耽溺(たんでき)する母親の姿を見せられるばかりか、自分自身の血統を疑われもする。そのような目に遭わされる子供の気持ちなど、王妃との道ならぬ恋に夢中だった貴殿は、考えたこともないのであろうな」


 話が進むにつれ、フェルセン伯の表情は気まずそうなものに変わる。


「貴殿の申し分も山のようにあるのだろう。だが余の従妹のためを思うなら、父親気取りも大概にしないか」


 兄帝の歯に衣着せぬ非難は、そこで終わった。


「……ひとつお伺いしてよろしいですか」


 重い口を開くように、フェルセン伯は言う。


「構わない。ひとつだけだぞ」

「テレーズ様のお召し物についてです。彼女は、この宮廷で見世物にされているのでしょうか」


 兄帝がカールを呼んだ。

 代わりに答えろ、と。


「あの姿は、テレーズさんの決意だ」

「決意?」

「女官の話によると、ウィーンに到着してすぐ、テレーズさん自身がそう答えたと」

「おそらくフランス人であることをやめるまで、あの姿を貫くつもりであろう」

「その決意を、あなたがたは(くじ)くおつもりなのですね」

「質問はひとつだけ。そう言ったはずだ」


 フェルセン伯の食い下がる姿は、そこまでだった。




 引見が終わり、カールと兄帝の二人だけになる。


「私たちは嫌な役を演じていますね」

「何のことだ」

「王妃を助けるために大したこともしなかったうえ、王女を引き取ると称して宮殿に閉じ込め、喪服を着せて見世物にしている。愛しのマリー・アントワネットをパリから逃がすために尽力した自分とは、ずいぶんな違いだと。きっとフェルセン伯は思っていますよ」

「好きに思わせておけばいい」

「念のためにお尋ねしますが、我が一族の人間だと思いたくないというお言葉は、兄上のご本心なのですか」

「そんなわけがあるか」


 兄帝は、ため息交じりに答える。


「マリー・テレーズの立場になって考えたことだ」

「テレーズさんの立場に?」


 兄帝が言うには、こうだ。


 カールや護衛から逃れ、一人で教会に行こうと試みる。テレーズはそうまでして、ルイ十六世の追悼ミサに参列しようとした。

 それからひと月経った今でも、喪服を着続けている。晩餐会や通常のミサ、ワルツの練習中、宮廷行事に出席するときさえも。


 何がテレーズをそうまでさせるのか。それは分からないが、ひとつ言えることがある。

 テレーズは今もって、フランス王女でいたがっているのだ。


 そこに、母親の愛人として知られた異国の男が現れたら、テレーズはどう思うか。

 オーストリア出身の王妃がスウェーデン貴族との間にもうけた娘などと言われるのは、テレーズにとってはフランス王族としての血を否定され、私生児呼ばわりされるのも同然。


 たとえ父親にどれだけの不名誉が付きまとっていようと、父方の血筋に固執する。それが、テレーズの心情なのだろうと。


「また恩を売ったということですか」

「あの男の存在は、この宮廷に不適切だと思ったから、きつく言ったまでだ」

「不適切?」

「生前の故人とどれだけ想い合った仲であろうと、皇帝フランツの叔母に、愛人などという存在は必要ない」

「なるほど。愛妻家の兄上らしいお考えだ」

「だがまあ、しつこそうな男だからな。本人の気が済むなら、マリー・テレーズとの面会くらいは許してやってもいいが、しばらくは様子を見るといったところか」


 それはそうと、と兄帝は続ける。


「お前は、マリー・テレーズのことをどう思っている」

「突然いかがしました」

「ホーフブルクの外に連れていっただろう。あれから何か進展はあったか」

「進展と言えるほどのことはありません。強いて言うなら、ワルツが上達しています」

「練習相手をしながら、口説くくらいのことはしないのか」

「兄上」

「何だ」

「断っておきますが、当面の間、私は独身でいるつもりです」

「何だと?」

「踊りの練習相手をするのは、兄上のご命令。ミサの日に連れ出したのは、兄上に助力したため。なにも彼女に気があるからではありません」


 眉間の皺を深くする兄帝。カールの言うことが気に入らないようだ。


「お前は、マリー・テレーズのことが心配にならないのか」


 好意を持つのではなく、心配になる、と。


「まあ確かに、向こう見ずな女性だとは思いますが」


 カールが思い浮かべたのは、あの日、護衛の目を盗んで逃走した時の彼女の姿。


「男に言い寄られても拒むことが出来ず、かといって相手を一人に定めることも出来ず、その結果いざこざを抱え込みそうな女ではないか」

「彼女のことを、よくご存じですね」

「なまじ美人なだけでなく、父親がああした男だったからな。まかり間違って優柔不断な性格が似ようものなら、娘に幸せな未来はない。お前もそうは思わないか」

「そこまでご案じなさるなら、監視を徹底すればよろしいのに」

「この結婚の当事者はカール、お前なのだぞ。仮に相手がマリー・テレーズでなくとも、遅かれ早かれ王朝のために妃を迎える。それが君主の一族に生まれた者の義務。少しは真剣に考えないか」


 兄帝の口調が、段々と説教くさくなる。


「あいにくですが」


 それ以上を聞きたくないカールは、言葉を被せた。


「私が今真剣に考えたいのは、異性のことではなく対仏戦争のこと。いつでもすぐ戦場へ向かえるように、後顧の憂えはなくしておきたいのです」

「……もういい。好きにしろ」


 兄帝は呆れたように言い、小言を止めた。




■■■




 偶然の再会から一ヶ月と少し経った頃、テレーズは再びフェルセンの姿を目にした。

 場所は、夜会の出席者であふれるホーフブルクの大広間。


 きっと彼も、テレーズの存在に気づいただろう。会場内で喪服を着ていた唯一の人物が目に留まらないはずがない。


 互いに人だかりの中にいて、相手に近づくのは無理だった。

 視線が合うこともなかった。

 彼がこちらへ顔を向けるより先に、テレーズが彼から目をそらしたのだ。


 何故そうしたか。

 相手をフェルセンだと認識した途端、嫌な考えが脳裏をよぎったからだ。



 革命が起こる前。

 ヴェルサイユ宮殿で催された夜会には、フェルセンも出席していた。

 彼が母のそば近くにいると、宮廷人は好奇の目を向けた。彼は王妃様の愛人に違いない、と。


 違いない、ではない。

 まさしくそのとおりだった。


 夜会が終わった後、母は女官たちの助けを借りて、フェルセンと密会していた。

 プチ・トリアノンで、テレーズたちがすやすやと寝ている間に……。



 それは、テレーズが自分の目で見た光景ではない。実際にあったかどうかも分からない。

 だが想像するのは容易かった。


 フェルセンの姿を遠くから見ただけで、こうも嫌な気分になった。

 まかり間違って彼がこちらに近づき、話しかけてきたとしたら、テレーズはどうなっていたか分からない。




【56. 因縁の男】


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