30. 女たちの背信
チュイルリーでの陰鬱な日々が過ぎる。
ある夜中、テレーズは目を覚ました。
(また、あの夢……)
地獄絵図の残像が、頭から離れない。
起きている間であれば、何か他のことをして気を紛らわせることが出来る。
だが夜になると、それも無理だ。
耐えられなくなって体を起こした。
天蓋のカーテンを開けると、冷たい空気が入り込んできて身震いした。
親友と一緒に寝よう。
寝間着の上からもう一枚羽織り、テレーズは寝所を出た。
扉を開けた時、数歩先にある扉の向こうで人の気配がした。
テレーズが今いる部屋には扉が三つある。
一つ目はテレーズの寝所へ、二つ目は親友の寝所へ続いている。
そして三つ目、今しがた人の気配がしたのは、他の家族の部屋へと続く扉だ。
父と弟は一階、女性陣は二階で寝ている。
胸騒ぎがした。
パリは、王家とりわけ母への敵意であふれている。母に危害を加えようとする者が建物内に侵入することも、十分あり得る。
親友に声をかけ、一緒に行こうと思った。
だが今の時季、夜は冷え込む。親友は寒さが大の苦手だ。寝台から出たくないと言って、ごねるかもしれない。
少し迷ったが、テレーズ一人で行くことにした。
向かう先は母の部屋。
明かりがない中、両手を壁に這わせながら、一歩一歩進む。
暗闇の中にいると、血まみれの悪夢がよみがえりそうになる。そのたびに、テレーズは自分に言い聞かせた。
母の身が大事。
家族の中で、母は誰よりも敵意にさらされているのだからと。
やっとの思いで、母の部屋の前にたどり着いた。
続き部屋の最奥が寝所。
今は夜中、そこに母はいるはずだ。
ひとつ、ふたつと部屋を抜ける。
次の部屋へ行こうとしたところで、目の前にある扉が開いた。突然のことに、テレーズの心臓は止まるかと思った。
「マダム・ロワイヤル?」
その声で、相手が誰か分かった。
「カンパン夫人」
「い……いかがなさいましたか、こんな夜更けに」
「わたしの部屋の向こうから、人の気配がしたの。それで、お母様のことが心配になって」
「き、気のせいでしょう。もう夜遅い時間です。お子様は、お休みにならないといけませんよ」
カンパン夫人の様子がおかしい。相手の声と、暗闇の中でも伝わる空気で、テレーズはそう感じ取った。
彼女はいつも落ち着きがあり、しゃんとしている。ヴェルサイユ宮殿が血の海と化した時でさえ、他の女官たちとは違い、うろたえる様子を見せなかった。
そんなカンパン夫人が、何やら動揺している。
テレーズの登場に驚いたからなのだろうが、それだけが理由ではない。
どうしてそう感じるのか、テレーズ自身にも分からないが、何かがあると直感した。
「お母様に会わせて」
カンパン夫人のすぐ後ろ、扉が少し開いている。
彼女の横をすり抜け、テレーズは体を滑り込ませようとした。
「お入りになってはなりません!」
夜の静けさの中で、いやに響いて聞こえた声。
テレーズの腕をきつく掴んだ、カンパン夫人の手。
「こ、これは失礼……」
焦ったような謝罪とともに、手が離れる。
「ぶしつけな振る舞いでした。誠に申し訳ありません。さあ、あなた様のお部屋に戻りましょう。私がお送りいたします」
急にかしこまった態度になる。今の粗相をとりつくろうかのように。
対するテレーズは驚き、固まった。
思い出したのだ。
チュイルリーに移って以来、すっかり忘れていたことを。
プチ・トリアノンで、女官たちが父の悪口を言い合っていた。
テレーズがそれを偶然聞いた時、カンパン夫人がやって来て、女官たちを叱った。
カンパン夫人は、テレーズに謝罪をした。今後同様のことがないよう、女官たちにきつく申し伝えるとも言った。
あの一件以後、父に対する悪口を聞かなくなっただろうか。
女官たちは、父の悪口を垂れ流すだけにとどまらない。子供たちに隠れて、母とフェルセンを逢引させていた。
そして今、カンパン夫人は必死な様子で、テレーズをこの部屋に入れさせまいとしている。
カンパン夫人と女官たちの行動が、テレーズの中で繋がった。
今目の前にいる人物は、裏切り者だ。
テレーズは、扉の隙間から押し入るようにして部屋に入った。裏切り者の呼び止める声は無視する。
暗がりに慣れてきた目で、手当たり次第そこらじゅうを探した。
たとえその姿を見ない日があろうと、フェルセンがチュイルリーにいないという証拠にはならない。
女官たちが結託すれば、人目を盗み、いくらでも母とあの男を二人きりにさせることが出来る。
婚外恋愛という悪徳に、母を引きずり込む女官たち。
そんな女どもは魔女も同然。
王妃付き女官長は、彼女たちの上に立つ者。
すなわち魔女の親玉。
(いやらしい女どもの悪事は、わたしがあばいてやる!)
人が隠れられそうな所を片っ端から探した。カーテンと窓の隙間、テーブルの下。
だが人の姿はない。
ここにいないのなら、奥の部屋だ。
ドアノブに手をかけた時、
「マダム・ロワイヤル、お気を確かに!」
先ほどよりも強い力で腕を掴まれた。
体の向きを変えさせられ、両肩に手が乗せられる。
「あなた様は、フランス王妃マリー・アントワネット様のご息女。今の振る舞いは、あなた様のような高貴な姫君にとって、ふさわしいものとは言えませんよ!」
その言葉に、テレーズはいくらか冷静さを取り戻す。
かといって、怒りが静まったわけではない。
「……わたしは、マリー・アントワネットの娘じゃないわ」
「何をおっしゃって」
「ルイ十六世とマリー・アントワネットの娘よ! お母様が間男との間に作った子供だなんて冗談じゃないわ!」
裏切り者、魔女の親玉とは、もう口も聞きたくない。テレーズはすぐにその場を離れ、母の部屋を後にした。
■■■
カンパン夫人の心臓は、早鐘を打っている。
マダム・ロワイヤルの機嫌を損ねはしたものの、決定的な場面を目撃されるという最悪の事態は免れた。
開けられそうになった扉の向こう。
部屋の奥にあるカウチ、二人の人影が折り重なっている。
互いの服が乱れている様子はない。
それもそうだ。こんな環境なのだから。
「今のは、テレーズ様か?」
「ええ、そうよ」
「不用心だな。こんな夜更けに声を荒げて」
「私の不注意だったわ」
「気をつけてくれ。私も、このお方の愛するお子を傷つけたくはない」
このお方とは、彼の腕の中にいる女性。
彼の手が、我が女主人の髪を撫でる。ほどかれた長いブロンドを。
「……いいや、すでに傷つけてしまっているのか」
ため息交じりに彼は言う。
マダム・ロワイヤルがわめいたことは、扉越しにも聞こえていたのだろう。
「あなたには何も非はないわ、フェルセン」
我が女主人がこんな酷い目に遭っているのも、元を正せば、すべての責任は王にある。
あの無能な王は、我が女主人を隠れ蓑にして、あらゆる人間の敵意から逃れようとしているのだ。
「マダム・ロワイヤルは、今年でやっと十一歳。まだほんの子供。お母上様のお気持ちや苦しみを理解できるほど、大人になられてはいないのよ」
「そのわりには、間男なんて言葉をどこで覚えたんだろうな」
まったく同じことを、カンパン夫人も思った。
我が女主人に起きる気配はない。暗がりではよく見えないが、疲れきった顔をしているのだろう。
愛する男性と会うときは綺麗な姿でいたいと思うのが、女というものなのに。
■■■
母の部屋を出てからも、テレーズの心は、かき乱れていた。
胸の中で渦巻く、あらゆる感情。
怒り、悲しみ、軽蔑、嫌悪……それらは交じり合い、夜の闇よりも深く、テレーズの心を飲み込んでいく。
自分の寝所に戻ろうとしたが、歩くことも億劫になった。
壁に寄りかかり、その場に座り込んだ。
「何をしてるの、こんな夜中に」
よく知った声に呼ばれ、顔を上げる。
「叔母様……」
「どこか具合が悪いの?」
エリザベートが身を屈め、テレーズの肩に手を置く。
王女の腕や肩を無遠慮に掴んだ、裏切り者の女官長とは違う、優しい手。
テレーズは、叔母の胸に飛び込んだ。
この場に居続けると体が冷えてしまう。そうでなくとも、夜の見回りをしている国民衛兵に見つかるとまずい。
叔母はそう言って、自分の部屋にテレーズを通した。
部屋に入ったテレーズは、先ほどの出来事を打ち明ける。
すると、途中で待ったをかけられた。
ソファから立ち上がった叔母は、ある物を手にして戻ってきた。
二本の鉛筆と一枚の白い紙。
「それ以上の話は、これに書きましょう。誰かに聞かれたら、あなたも嫌でしょうから」
暖炉がある方を、叔母は指さす。
紙は燃やしてしまえば残らない。今が寒い時季で幸いだった。
カーテンを少し開けると、月明かりが差し込む。
庭園にたむろする民衆の姿はない。
叔母の気配りに感謝しながら、テレーズは鉛筆を持った。
‘お母様のことが分からない’
‘どうして?’
‘強い女性だと思ってたのに’
ヴェルサイユ宮殿に押し入った暴徒は、母のことを殺そうとしていた。
だが母は怯まなかった。
女官の中には、混乱して泣き出す者や失神する者までいたというのに。
バルコニーの下に詰めかけた暴徒と対峙した母は、彼らに向かって、こうべを垂れた。
それは宮廷女性としてのお辞儀。
間違っても、宮殿で乱暴狼藉を働きながら「王妃を殺せ!」とわめくような連中に対して、示す態度ではない。
テレーズの母は、王妃マリー・アントワネットという女性は、強くて立派な女性なのだと。
あの日、思ったのだ。
ところが、
‘夜中にフェルセンを連れ込んでたかもしれない。そんなお母様の姿は見たくなかった’
つい先ほど、母への尊敬の念が打ち砕かれた。
‘こんなことを書いたら、あなたは怒るかもしれないけど、私は見て見ぬふりをしてたわ。二人の仲をあなたが嫌がってることを’
テレーズの気持ちを、叔母は知っていたという。
こちらから叔母に教えた覚えはないのに。テレーズが「分かりやすい」から、叔母にも気づかれたのだろうか。
‘がっかりする?’
つづられた質問に、否とテレーズは答えた。
逢瀬に加担している大人たちに比べれば、叔母ははるかにましだ。
だが返事をした直後、はたと思った。
叔母がただの傍観者ではなく、逢瀬の協力者だとしたら。
気になったものの、その真偽を尋ねるのは思いとどまった。
答えによっては、叔母のことまで嫌いになってしまうかもしれない。ならば知らないままでいた方がいい。
テレーズは臆病だ。
プチ・トリアノンで最後に過ごした日といい、先ほど扉の前できびすを返した時といい、そして今といい。
現実を受け止めるのが怖くて、逃げてばかりいる。
‘共感してたの。好きになってはいけない相手を、好きになる気持ちに’
叔母のつづったことに、テレーズは我が目を疑った。まじまじと見てみるが、確かにそう書かれている。
普通に話すことが許されたなら、叔母を質問攻めにしただろう。
好きになってはいけない相手とは、まさかフェルセンなのでは。
はやる心を抑えながら質問を書いた。
誰なのかと。
叔母の持つ鉛筆の先を、固唾をのんで見つめる。
つづられたのは「F」から始まる名前ではなかったが、
‘プチ・トリアノンの守衛。あなたは知ってる?’
知っている。
チュイルリーへ来た最初の夜に見た夢。斧で惨殺された男性。
‘彼は無事なの?’
‘分からないわ’
安否が分からない。
不安でないはずがない。それなのに、叔母は許されない恋の相手への想いを胸にしまっている。
それは、どれだけ苦しいことなのだろう。
‘いつから好きだったの?’
叔母は束の間考える様子を見せてから、
‘ずっと前から’
と答える。
‘プチ・トリアノンに来るのが楽しみだった?’
‘もちろん。それが楽しみで来ていたと言ったら、立派な下心ね’
‘片想い?’
‘そうよ。彼は結婚してたもの’
テレーズは続きを書けなくなった。
質問攻めにしても、叔母につらい思いをさせてしまうかもしれない。
「そろそろ寝ましょう。夜更かしは良くないわ」
終わってほしくない時間だったが、言われたとおりにする。テレーズがこの部屋に居続けては、叔母が眠れないだろう。
ただどうしても、尋ねておきたいことがある。
‘最後に質問’
‘何?’
‘母とフェルセンのことをどう思う?’
‘黙秘権を行使させて。あなたを悲しませたくないから’
黙秘権という難しい言葉。だがその後に続いた文章で、意味は何となく分かった。
叔母もまた、母とフェルセンの仲を認めている。
余計なことを尋ねてしまった。テレーズは後悔しながら、鉛筆を置いた。
寝所まで叔母に付き添われ、複雑な気持ちのまま眠りに就いた。
翌朝。
勉強机を見ると、あるものが目に留まった。
机の上に置いていたテキスト、その下に紙が挟まっている。折り畳まれたメモのようなものが。
開いてみれば、
‘昨晩の無礼を深くお詫び申し上げます’
こう書かれた字と、カンパン夫人の名前。
テレーズは両手に力を込め、紙をくしゃくしゃにした。こんな紙くずは、暖炉の火の中に投げ入れ、今すぐにでも灰にしたかった。
あの裏切り者は、テレーズに謝ることはあっても、きっと父には謝らない。
ならば、こんな謝罪文には何の意味もない。
【30. 女たちの背信】
≪補足≫
エリザベートの想い人は架空の人物。




