28. 虐殺 後編
※ここから第46話まで、残虐なシーンが増えます。また言葉の暴力も酷くなります。
ある昼下がり。
テレーズはプチ・トリアノンの庭園で、守衛と立ち話をしていた。
『双子のお嬢さんがいるのね。おいくつなの?』
『今年で十一歳になります』
『まあ、私やティニと同い年ね』
『はい。光栄なことに』
名前は何というのかと、尋ねようとした。
ちょうどその時、守衛の背後に黒い人影がぬっと現れた。
人影は、何かを手にしている。
確か、斧という道具だと父から教わった。
(血が付いてる……?)
刃の部分と持ち手に、べっとりと付いた赤。
テレーズは悲鳴を上げる。上げようとする。
ところが、声が出ない。
出そうとしても、喉でつかえてしまう。
人影が、斧を頭上に掲げる。
その存在に、守衛は気づいていない。自分の娘たちのことを楽しげに語っている。
(お願い、逃げて! 殺されてしまうわ!)
テレーズの叫びは届かない。
無情にも、斧が振り下ろされる。
そこらじゅうが血しぶきで染まる。
守衛がばたりと倒れる。
テレーズはまだ声が出せない。その場から逃げることはおろか、身動きひとつとれない。
人殺しは何度も何度も、斧もとい凶器を振り下ろす。狂気じみた奇声をあげながら。
気づけば、見慣れた庭園の風景は消えていた。
一面が灰色となった世界に、悪魔の奇声が響き渡る。
奇声はやがて、何人もの人間が、がなり立てる声に変わった。
『パン屋の店主と女房』
『マリー・アントワネットの心臓をえぐり出せ』
『あのクソ王妃。なんでまだ生きてんのよ』
『そうだそうだ、今すぐ殺しちまえ』
『お前もこの生首と同じにしてやるぞ、敵国女』
テレーズは抵抗できない。目の前で行われる虐殺にも、言葉の暴力にも。
唯一出来たのは、声にならない声で叫ぶことだけだった。
もう止めて!
黙って!
この人殺し!
…………。
ヴェルサイユを離れてから、初めて見た夢。
人生で最悪の寝覚め。
「テレーズ、だいじょうぶ?」
闇の中。すぐそばで聞こえる、親友のひそめた声。
「ティニ……」
「うなされてたわよ」
暑い季節でもないのに、全身が汗ばんでいる。
ここは、使い慣れた寝台の上ではない。床の上に敷物を敷き、そこに寝ている。
床で寝るなんてことは、生まれて初めてだ。
同じ部屋には、他の家族もいる。
母は、弟を抱きしめて椅子に座り、寝ることにした。叔母と養育係は、壁を背もたれにして寝ると言っていた。
父をはじめ、ヴェルサイユからここまでやって来た人々も、おのおの休んでいるのだろう。
きっと誰もが疲れ果てている。
自分たちが今こんな場所にいるのは、あの悪夢が紛うことなき現実であった証拠だ。
ヴェルサイユ宮殿が地獄と化した。
床も壁も、部屋じゅうが血まみれ。家具や調度品は壊され、カーテンは引き裂かれ、窓ガラスは叩き割られた。
それ以上に恐ろしかったのは、床に横たわった何人もの遺体。
彼らの中には、テレーズが知っている人もいたかもしれない。だが顔を見る勇気はなかった。
子供たちは、大人に抱きかかえられて宮殿を出て、馬車に乗り込んだ。
悪夢は、そこで終わらなかった。
ヴェルサイユからパリに到着するのに、九時間もかかった。移動する馬車の周りを暴徒が取り囲み、カタツムリのようにノロノロと進んだせいで、時間がかかったのだ。
その間ずっと、王家の馬車に罵詈雑言が浴びせられた。
弟は、母の腕の中で泣きじゃくっていた。
テレーズも親友も、父にすがって泣いた。
生まれて初めて見た、胴体のない人間。血で濡れた槍の先に突き刺さった生首。
人殺したちは、馬車に見せつけるように、それを掲げた。
『お前もこの生首と同じにしてやるぞ、敵国女!』
などと口々にわめいていた。
何故こんなことが起こっているのか。訳が分からなかった。
ただ生まれて初めて思った。
殺される、と。
野蛮な群衆の見世物にされた挙げ句、幽霊屋敷のような場所にたどり着いた。
このチュイルリー宮殿へと。
使える状態の寝台がなかったので、今テレーズたちは床で寝ている。
どの部屋も湿っぽいのは、長年使われていなかったからか。
「ねえ、ティニ」
「なあに」
「ぎゅって、していい?」
返事がない代わりに、その腕がテレーズを包み込む。
テレーズも、親友を抱きしめ返した。
そういえば、夢に出てきた守衛は無事だろうか。
彼は確か、弟とココが庭園で駆け回っていた日、女官たちに声をかけた男性だ。
昨日か一昨日の出来事が、すでに遠い昔のことのように感じられる。
あの遺体の中に、どうか彼がいませんように。そう願った。
途端、悪夢が脳裏によみがえった。
また涙があふれてくる。
【28. 虐殺 後編】




