21. 束の間の別れ
暴徒、バスティーユ、襲撃……テレーズの耳に入ってくる話は、断片的だった。
大人たちはどこか落ち着きがなく、みな深刻そうな顔をしていた。
何が起こったのか、テレーズには分からない。
ただ、こう思った。
パリは物騒な場所なのだと。
七月十七日。
そんなパリに、父が赴くことになった。
テレーズは、朝早くからヴェルサイユ宮殿にいた。親友と弟も一緒だ。
父を見送るため、子供たちは建物の外に出た。
「お前たちが、王妃のそばにいてあげなさい」
供回りがいるとはいえ、パリという危険な場所へ行く。
それでも父は、自分自身のことではなく、家族のことを案じている様子だ。
父は弟に向き直り、大きな体を屈めた。
「特にシャルル、いや、王太子。お前の笑顔は、母と姉たちの大好きなものだ。そのことを忘れてはいけないぞ」
「はい、ちちうえ」
弟が顔をほころばせると、父は微笑み、弟の頭を撫でた。
もうノルマンディー公ではなく王太子。そのことを意識して、父はこう言ったのだろう。
今この場に、母はいない。
先ほど、テレーズたちの元に顔を見せたが、臣下に呼ばれてどこかへ行ってしまった。
実のところ、テレーズたちが今ヴェルサイユ宮殿にいるのは、母に言われたからでもあった。
『あなたたちのお父様の帰りを、みんなで待ちましょう』
父の帰りを、家族みんなで待つ。
母からこう言われたのは、初めてだ。
そういえば今朝早く、母とカンパン夫人の会話を偶然耳にした。
ポリニャック夫人にもヴェルサイユを離れるよう命じた、と。
ひそめた声での会話は、その部分しか聞き取れなかった。
ポリニャック夫人は、母に仕える女官。
女官たちの中でも、とりわけ母と親しいのか、よく一緒にいる姿を見かける。
パリで物騒なことが起こっただけでなく、自分たちの周りでも何かが起こっている。
テレーズ自身、気になってはいる。
だが詳しいことは尋ねない。
大人たちは隠し事をして、本当のことを教えてはくれないのだから、聞くだけ無駄だ。
父を見送った後、テレーズたちは部屋に戻る。
「昔のパリはもっと平和だったのにって、女官たちが話してたけど、わたしには分からないわ」
「ティニがそうなら、わたしはなおさらよ。生まれたのは、わたしの方が五ヶ月おそいもの」
親友は七月生まれ。今月最後の日に、またひとつ年上になる。
部屋に入ると、母が戻ってきていた。
テレーズと親友は、母と向かい合ってソファに座る。
家族四人でいても、会話は少ない。
両手で顔を覆い、うつむく母。
その姿を見ていると、テレーズの胸に罪悪感が生まれた。
プチ・トリアノンに来てくれない、居てくれないからといって、両親のことを疑った。父にも母にも、それぞれ別の相手がいるのではと。
だがそれは、思い違いだ。
父も母も、互いのことを好きで、大切に思っている。
嫌いな相手のことなら、心配はしないはずだ。
ははうえ、と呼ぶ声。
母が顔を上げる。すぐそばに弟が来ていた。
先ほどから、弟はソファと窓辺の間を行ったり来たりしていた。
父が帰ってきたとき、真っ先に伝えたいようだ。
「ちちうえは、すぐかえってくるよ」
「ええ。分かってるわ」
母は目を細め、弟の頭を撫でた。
「王太子に命じられたんですものね。王妃のそばにいるようにって」
そのやり取りは、テレーズの心を和ませた。
だがそれも束の間、
「あの、お母様……」
隣を見れば、親友がお腹の前で両腕を組み、前屈みになっている。
「少し休みたいのですが」
「どうかしたの、ティニ?」
「お腹が、いたくて」
「まあ、大丈夫?」
母の顔から笑みが消えてしまう。
しかし親友が腹痛というなら、それも心配だ。
「すぐに人を呼ぶわ」
「ティニ、だいじょうぶ?」
「ティニあねうえ、おなかがいたいの?」
「ええ。心配をかけてごめんね」
親友が部屋から出ていく。
扉が開いた時、ちょうど叔母エリザベートが姿を見せた。
なんでも、テレーズたちのことを心配して様子を見に来たという。
親友に付き添ってくれないかと母が頼むと、叔母は快く引き受けた。
扉が閉まり、家族は三人になった。
テレーズの隣には誰も居ない。意識すると、急に不安になる。
弟に声をかけた。隣に座ったらどうかと。
「そこは、ティニあねうえが、すわるとこ」
親友が座る所だから、弟は座らないという。
しばらくすると、部屋に人が来た。
扉越しに名乗った声に、テレーズは驚いて立ち上がり、扉へ向かう。
「アングレーム公、こっちに来てたの?」
「ああ、昨日から泊まってた」
今日ばかりは父のことで頭がいっぱいで、想い人に会えることを期待していなかった。
想い人は部屋に入り、母の前に立つ。
母はソファに座ったまま、姿勢を正した。
「あなたとご家族のことは聞いているわ。支度をしなくていいの?」
「みな急いでいるようでしたが、セラン侯爵に内緒でここへ来ました」
「まあ、大丈夫なの?」
「それは……」
想い人が言いよどむ。何かまずいことでもあるのだろうか。
「ベリー公は一緒ではないの?」
「カンパン夫人に案内されて、エルネスティーヌのところに行っています」
母と想い人は、何の話をしているのだろう。
テレーズは二人の様子をうかがっていた。自分が会話に入っていいものだろうか。
「実は、僕もマダム・ロワイヤルと話がしたいのですが、二人にしていただけないでしょうか」
思いもよらない言葉。
「いいわよ」
しかも母から許しをもらえた。
「私からあとで伝えようと思っていたのだけど、あなたが来てくれたなら、テレーズに直接話してちょうだい」
テレーズは下を向いた。今の自分の顔を見られるのが恥ずかしい。きっとにやにやしている。
すると、弟に顔をのぞき込まれた。
母と想い人が話し始めてから、弟は母の元を離れて、テレーズのそばに来ていた。
「あねうえ、おかおがまっか」
弟の無邪気な一言は、想い人にも聞こえそうな声の大きさ。
テレーズは焦った。せめて今だけは、弟には静かにしてもらいたい。
「そ、そうかしら?」
「あねうえも、おなかがいたいの?」
「だ、だいじょうぶ。わたしは元気だから」
小声で答え、口元に人差し指を当てた。
想い人の登場に嬉しくなり、彼の言葉で嬉しさが何倍にもふくれ上がり、弟の言葉に焦る。テレーズの心は慌ただしかった。
そのため、
「長旅になるでしょうから、体には気をつけて。道中は危険なこともあるかもしれないけど、陛下も私も、あなたたちの無事を祈っているわ」
「ありがとうございます。王妃様もどうかお元気で。陛下にも、よろしくお伝えください」
彼と母が話すことは、途中から耳に入っていなかった。
その後、テレーズは想い人と共に別室へ移動した。どんな話をされるのか期待しないわけがない。
だが、
「フランスを、はなれる……?」
恋する少女が期待するような内容ではなかった。
「父上が殺されそうなんだ」
「ど、どういうこと?」
あまりのことに、聞き返す声がうわずる。
「暗殺予告が届いているらしい。ヴェルサイユはパリに近くて危険だから、国外へ行く。僕たち家族も一緒に行くことになった」
テレーズの頭は追いつかない。
そんな話は信じられないし、信じたくない。
「国外って、どこに?」
「ブリュッセルに王妃様の姉上がいるだろう。そこへ行くって聞いた」
フランスの北東にオーストリア領があり、母の姉夫婦が総督を務めている。
「いつ、もどってくるの?」
「三ヶ月くらいだって、セラン侯爵は言ってた」
「三ヶ月……」
「ベリーは、エルネスティーヌのところに行った。時間がなさそうだから、二手に分かれたんだ。あいつも今頃、同じ話をしてると思う」
想い人がテレーズの元に来たのは、ベリー公が気遣ってくれたおかげかもしれない。
「寂しくなるな」
「……うん」
「泣くな。そう長く離れるわけじゃないんだから」
「だって……」
たとえ三ヶ月という期限つきでも、悲しくてたまらない。
行かないでと言いたい。いつもは言わないわがままを、せめて今くらいは。
そうすれば、想い人を引き止められるかもしれない。
突然の悲しみと、心に生じた葛藤が、涙を止まらなくさせる。
その時、突然体がぐらついた。
自分の身に何が起こったのか、理解できても信じられなかった。
想い人の腕の中にいる。
彼に抱きしめられているのだ。
「泣き止まないと、王妃様のところに戻れなくなるぞ」
彼の手が、あやすようにテレーズの背中を叩く。
優しく、トントンと。
泣くなと言われても、こんなことをされては、余計に涙が止まらない。
テレーズの頭に触れている、彼の顔。
密着した互いの体。
背中に回された両腕。
彼の匂い。
きつく抱きしめられているわけでもないのに、胸が苦しい。このまま心臓が止まってしまいそうだ。
夢ではない。これは現実。
ずっと、こうされていたい。一秒でも長く。
「もう行かないと」
彼の体が離れる。
夢のような現実が終わってしまう。
(行かないで)
声に出して言いたい。
だが想い人を困らせてはいけない。
テレーズは甘えを振り切った。涙をぬぐい、まっすぐと彼を見つめた。
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」
精一杯の笑顔を作り、想い人を送り出した。
【21. 束の間の別れ】
≪余談≫
主人公の弟シャルルは、作中で両親のことを父上母上と呼んでいます。
史実の話をすると、シャルルはルイ十六世のことをパパロワ、マリー・アントワネットのことをママレーヌと呼んでいました。
フランス語で、王と王妃はそれぞれロワ、レーヌというので、意味としては「パパ王、ママ王妃」。
さんざっぱらフェルセンの子だと言われているシャルル。その真偽はどうあれ、当のシャルルは、ルイ十六世のことを自分の父親だと思っていたようです。
なおこれから解説や補足で、主人公の両親について言及するときは「パパ王、ママ王妃」と表記します(パパは似た名前が多いため、ママは文字数が多いため)。




