20. 新しい家族
もう誰も使っていない、誰も居ない部屋。
テレーズは一人窓辺に立ち、夕方の空を眺めていた。
『姉上』
聞こえたのは、ジョゼフの声。
テレーズは振り返り、室内を見回した。
違う。今の声は、気のせい。
(ジョゼフは、ソフィのところに行ったのよね)
妹一人では寂しいけれど、兄妹一緒なら寂しくない。
テレーズはそう信じている。信じることで、心に大きく空いた穴をふさごうとしていた。
弟が亡くなって、ひと月が経った。
両親がムードンへ行く必要はなくなったはず。
それなのに、父はプチ・トリアノンに来てくれない。母もあまり居てくれない。
三部会がまだ続いているからだと、養育係や女官は言うが、テレーズは大人たちの言うことを信じていない。
父はともかく、母はフェルセンと一緒にいるのではないか。
そればかりか、
(ひょっとしたらお父様にも、お母様以外に好きな人が……)
母がフェルセンと恋仲にあるのなら、父にも、母以外の相手がいても不思議ではない。
その人と一緒にいるせいで、父はプチ・トリアノンに来なくなったのではないか。
父のことも、母のことも、疑い出したらキリがなかった。
「テレーズ、ここにいたのね」
親友が来て、テレーズの隣に並んだ。
「宿題は終わった?」
「まだ」
「なら早くかたづけましょう。テレーズは算数が苦手だから、時間がかかるんじゃない?」
「そうね」
「ここにアングレーム公がいればいいのに。そうすれば、テレーズの苦手科目を教えてもらえるのにね」
アングレーム公の得意科目は数学。男子は、女子が教わる算数よりも、さらに難しい内容を勉強しているという。
このことを、テレーズは親友を通じて知った。親友はベリー公から聞いたという。
会話の中に、想い人の名前が出てきた。
以前なら、それだけでテレーズの心は弾んだ。
今は違う。
先月執り行われたジョゼフの葬儀。
そこで、大人たちの会話を偶然聞いてしまったせいで。
『あなたの主君にとって誠に幸運。ご令息が王位を手にするための障害が一人減りましたな』
『だがまだノルマンディー公がいる。しかも王太子とは違い、健康な子供だ』
『あれは正当な血筋ではあるまい。王妃が北方人の情夫との間にこしらえた子供ではないか』
『それは誰もが認めていることでも、王位継承順は絶対だ。覆せるものではない』
『やれやれ。何にせよ、プロヴァンス伯にお子がいないだけでも幸いなことだ』
話し手の顔と名前は特定できなかったが、それでも分かったことがある。
王家の臣下でありながら、ジョゼフの死を喜ぶ者がいる。
さらには、
(アングレーム公にとって、わたしの弟たちはジャマ者だったの?)
気づきたくなかったことに、気づいてしまった。
フランス王になれるのは男子だけ。
その中でも、どういったルールで継承順位が決まるのかは、テレーズも知っている。
テレーズに弟がいる限り、想い人は王位から遠いまま。
アングレーム公は、テレーズの弟の死を望んでいたかもしれない。
ジョゼフの死を悲しんでいないどころか、本心では喜び、シャルルも同じ目に遭えばいいと思っているかもしれない。
想い人の心を疑ってしまう。酷いことを考えていると、自分でも分かっている。
こんなにも醜い気持ちを打ち明けることが出来る相手は、親友を置いて他にいなかった。
「テレーズはどう思ってるの」
「どうって、それは……」
「アングレーム公のことが好きなんでしょう?」
以前のテレーズなら、好きだと即答できた。
「じゃあもしも、わたしがアングレーム公のことを好きって言ったら?」
「ええ!?」
予想だにしない親友の言葉。
「ティ、ティニ、い、いつから、好きに」
「落ち着いて。たとえばの話よ」
「たとえばでも絶対にイヤ! いくらティニでも、アングレーム公のことは絶対にわたさない!」
テレーズは必死に訴えた。
すると、親友が突然笑い出した。
「何がおかしいのよ、ティニったら」
「ほら、ちゃんと好きなんじゃない。その気持ちを大切にすればいいのよ」
親友がテレーズの片手を取った。手を広げて、と言う。
テレーズは訳が分からないまま、言われたとおりにする。
広げた片手が、親友の手に導かれる。テレーズの心臓がある場所に、手のひらを置くように。
「前に、お父様から言われたの。大事なのは自分の気持ち。周りの人がどう言うかよりも、まずは自分の心に目を向けるんだって」
おじ様、アントワネット様とは、もう呼ばない。
親友はれっきとした家族の一員になったのだ。
「ジョゼフが亡くなったことを、あなたの想い人が喜んでいるとか。あなたたちきょうだいが、お父様の子供じゃないとか。どんなにひどいことを言う人がいたって、テレーズの気持ちは、テレーズのものなんだから」
心の中にあった冷たいものが、解けていく。
聞かれたことの答えを、今度は迷わずに言える。
「わたし、アングレーム公のことが好き。だれが何と言おうと、大好き」
「やっと、いつものテレーズになったわ」
にっこりと笑う親友。
その笑顔を見て、テレーズは思った。
こんなにも可憐に笑う美少女が恋のライバル。手強い相手だと。
物心ついた頃から知っている顔だが、テレーズから見ても、親友は美少女だと思う。
いつだったか、親友とルブラン夫人が二人一緒にいる場面を見たことがあったが、その姿はまさしく美少女と美女だった。
この二人に比べたら、テレーズや母は、美少女や美女とはほど遠い。
テレーズの顔は全体的にぽってりしており、母の顔は受け口で二重顎である。
いつも恋の応援をしてくれた親友。それが今や恋敵。
だがテレーズも負けていられない。
「たとえティニが相手でも、アングレーム公のことは、わたさないからね」
「いやね、今言ったのは、たとえばの話よ」
「え、ちがうの?」
テレーズは肩透かしをくった。
当たり前でしょう、と言って親友はおかしそうに笑うが、
「だって今、恋する女の子の顔をしてたのに」
「へ!?」
親友の声が大きくなる。何故そうも驚くのか。
「そ、そんなこと、ないわよ」
しどろもどろに否定する。その反応が余計に疑わしい。
ひょっとして、親友に好きな人が出来たのではあるまいか。
テレーズは親友に詰め寄る。相手を教えてと。
親友は否定する。違う、いないと。
しばし二人で押し問答をしていると、
「あねうえ、ティニあねうえ」
見れば、扉の前に弟がいた。テレーズと親友のことを呼んでいる。
「どうしたの、シャルル」
親友が弟に駆け寄る。テレーズの追究から逃れようとするように。
「ついてきて」
弟は手招きし、下の階へと下りた。
何かあったのだろうか。
テレーズと親友は、ひとまず弟を追って外へ出た。
子供たちが外へ出るとき、いつもなら大人が付き添うが、弟は今そうしたくないようだ。
三人が向かった先は、弟の花壇。
弟は花壇の中に入らず、その横を通り抜け、近くにある低木の前で立ち止まった。
「シャルル、何があったの。そろそろ話してちょうだい」
「キュゥン」
テレーズの言葉に答えたのは、高くて細い声。
「何か今、鳴き声がしなかった?」
親友の言うとおり、何かの鳴き声に聞こえた。
弟が低木を指さして言う。
この子だよ、と。
地面に膝をつき、低木に上半身をもぐり込ませる弟。服が汚れてしまっても、わんぱくな四歳児はお構いなしといった様子。
「だいじょうぶだよ、でておいで」
低木の中で何かに話しかけている弟と、止まない鳴き声。
テレーズと親友も身を屈め、中をのぞく。
弟がそこから頭を出すと、鳴き声が大きくなった。
「キャンッ、キャンッ」
「「犬?」」
テレーズと親友の声が重なった。
垂れた耳と長い尻尾。毛の色は赤茶色。
まだ子犬に見える。
誰かの飼い犬であろうか。
犬を飼っている宮廷人は多いと、話に聞いたことがある。
母はパピヨンを飼っている。父も何年か前までボロニーズを飼っていて、プチ・トリアノンにもよく連れてきた。
だがこの犬は、見たところパピヨンやボロニーズではない。
「きみのパパとママはどこ?」
弟の言葉に、犬は返事が出来ない。代わりに、キャンッと鳴いた。
テレーズはハッとして、再び低木の中をのぞいた。
「この子しかいないみたい」
「まさか、みなしご?」
親友が心配そうな顔をする。
誰かの飼い犬か野良犬か。たった一匹で庭園に迷いこんだのか、他の家族から取り残されたのか。
弟の腕の中で、犬はテレーズたちのことを見上げている。
親きょうだいを探しているようにも、独りぼっちで不安がっているようにも見える、つぶらな瞳。
テレーズは思った。
この子を助けてあげたいと。
「飼い主が見つかるまで、わたしたちでお世話をしましょう」
「それがいいわね」
親友がうなずいた。
続いて、弟も答えた。
「ぼくも、この子をかいたい」
飼いたい、と。
テレーズが提案したのは、飼い主が見つかるまで代わりに世話をすること。なにも自分たちのペットにするわけではない。
弟は勘違いをしているようだが、その無邪気な言葉に、テレーズの気持ちは揺らいだ。
本音を言ってしまうと、テレーズもこの犬をペットにしたい。だが誰かの飼い犬という可能性がある以上、その気持ちを我慢したのだ。
「あのね、テレーズ」
親友が小さく笑った。
「わたしが今言ったことは、実はウソ。本当はシャルルと同じで、この子を飼いたいって思ったの」
三人とも同じ気持ちだったようだ。
顔を見合わせれば、そろって笑顔になった。
***
本作の主人公マリー・テレーズは、これからフランス革命の目撃者となる。
彼女の目に映るフランス革命。
そこに輝きは、ひとつもない。
すべてが闇と言っても過言ではないことを、先に述べておく。
ただし断っておきたいことがある。
本作で描くのは、革命を否定する特権階級の愚かさではない。
家族の絆と名誉のために闘う、フランス王女を主人公とした物語である。
【20. 新しい家族】
≪補足≫
第6話解説でも書きましたが、同じ王家の子供でも、女子より男子の方が高度な教育を受けていました。
したがって作中では、
男子が教わるもの→数学
女子が教わるもの→算数
と書いています。
≪作中では書きませんが≫
多くの人が思い違いをしている例の話。
七月十四日に書かれた、ルイ十六世の日記の内容「何も無し」。
これは、その日に狩猟へ出向いたものの、取れた獲物が無かったという内容の記述。
なおかつバスティーユ襲撃の知らせを受ける前に書かれたものです。
また別の話。
「暴動か?」
「いいえ、革命です」
バスティーユ襲撃の知らせを聞いたルイ十六世が、臣下と交わしたとされている言葉。
これも後世の創作ではないかという説があります。
≪余談≫
ルイ十六世の趣味でもあった狩猟。昔の王侯貴族にとっては、スポーツ兼社交でもありました。
狩猟というと「動物が可哀相」といった意見が少なからず上がると思います。
では、かく言う私たちはどうでしょう。
パック詰めにされている肉製品を買うとき、食用動物が精肉工場へと送られる光景を思い浮かべる人がどれだけいるでしょう。
さらに視野を広げて。
土地開発や環境破壊によって、人類は現在進行形で、あらゆる動植物の生きる場所を奪っています。このことを日々意識しながら暮らしている人がどれだけいるでしょう。
それでもなお、現代の私たちが、二百年以上前に狩猟をしていた人々のことを非難できますか?




