13. 本当の名前
テレーズは退屈していた。ここ何日も、親友がプチ・トリアノンに来ないのだ。
「ランブリケ夫人に付き添っているのよ」
「またですか?」
「こらテレーズ、そういう言い方をするんじゃありません」
母にたしなめられ、テレーズはすぐ謝った。自分でも、今の言い方は心無い言葉だと思った。
「あなたも寂しいでしょうけど、それはティニも同じよ。だから良い子にして、次にティニが来る日を待ちましょうね」
親友がプチ・トリアノンに来ない日は、これまで珍しくなかった。
だが、こうも不在が長引くのは初めてだ。
今は四月。
春の訪れとともに、心が軽やかになる時季。だが今年は、そうならない。
ひょっとして、親友の身に何かあったのでは。
親友の自宅に行きたい。ランブリケ夫人の見舞いも兼ねて。
両親に頼んだが、反対された。
「テレーズが家にやって来たら、ランブリケ夫人はおちおち休んでいられないだろう」
ランブリケ夫人は病気で伏せっている。そこにマダム・ロワイヤルが訪問したら、励ましになるどころか気を遣わせてしまう。
父の言うことは、テレーズにも理解できた。
直接会えないなら、手紙を書こう。
早くティニに会いたい、ランブリケ夫人が元気になりますようにという気持ちをつづった。
五月になってから、ようやく返事が届いた。
母から受け取った手紙を、テレーズは急いで開封する。
「うそ……」
見慣れた字の文面は、読み違いであってほしかった。
ランブリケ夫人が亡くなった。
親友が手紙を書いているのは、葬儀に参列した次の日だと。
■■■
絵のレッスンとは関係なしに、ベリー公は毎日好きな子の自宅に通った。
日に日に衰えていく、病床のランブリケ夫人。それでも夫人は、寝台で横になったまま、見舞いに来たベリー公を笑顔で迎えた。
いつも笑顔だったのは、好きな子もまた同じだった。自分の母親のことが、心配でたまらなかっただろうに。
ベリー公はこの日も、好きな子の自宅を訪れた。
もうすぐ、彼女が引っ越しをする日。
子供だけでは荷物整理が出来ないので、大人たちに手伝ってもらい、ほぼ片づけ終えた。遠くに暮らす親戚も、はるばるこの家までやって来たという。
「これからプチ・トリアノンでくらすって言うと、みんながおどろいた顔をするの」
「それはそうだよ。あ、ということは、マダム・エルネスティーヌって呼んだ方がいいのかな」
「マダムだなんて、わたしは王族になるわけじゃないのよ」
ベリー公が冗談半分で言ったことに、彼女は目を細める。
二人で客間に入ると、ある物が壁に立てかけてあった。
「あなたが初めて、かいてくれた絵よ」
「これも、プチ・トリアノンに持っていくの?」
「もちろん」
即答されたものだから、ベリー公の胸はこそばゆくなる。
初レッスンの時に描いた絵。
その時のデッサンをキャンバスに描き直し、着色したものを後日彼女に贈った。
描かれた本人以上に、ランブリケ夫人が大喜びし、額縁に入れて壁に飾っていた。
「僕がここに来るたび、ランブリケ夫人がこの絵をべたぼめするから、さすがにちょっと恥ずかしかったな」
「ベリー公の絵が上手だからよ」
「いいや、娘のことが大好きって証拠だよ。君の話をするランブリケ夫人は、いつも楽しそうだったもの」
「まあ」
彼女は照れたように笑う。
「そういえば、マダム・ロワイヤルへの手紙は書けた?」
「ええ。どう伝えたらいいか、なやんだけど、ちゃんと書けたわ。お母様をお見送りしたことを」
「そっか」
「テレーズも、本当はここへ来たかったみたい。でも王女の自分が来たら、わたしのお母様がおちおち休めないだろうからって、手紙に書いてあったわ」
「マダム・ロワイヤルは大人だな」
「ベリー公も、そうすればよかったのに」
「僕がここに来るのは迷惑だった?」
「いいえ、うれしかったわ。わたしも、きっとお母様も」
ベリー公が毎日ここに来たのは、今目の前にいる彼女が特別な存在だから。
この気持ちは、想いを自覚した時より何倍も大きなものになっている。
「さってと、これからはプチ・トリアノンでの生活だわ。わざわざ家に帰らなくていいし、テレーズたちと一日中いっしょにいられる。楽しみでしょうがないわ」
彼女の口調が、急に明るくなった。
「実はね、期待してることがあるの」
「期待?」
「おじ様はプチ・トリアノンに来ても、暗くなる前にヴェルサイユ宮殿へ帰ってしまうの。でもわたしが住むようになれば、おじ様も、とまってくれるかもしれない。そうなったら、テレーズたちも大喜びよ」
ああでも、と彼女は続ける。
「今言ったことは、ここだけの話。他の人に話したら、だめだからね」
「分かってる。二人だけの秘密だろう」
「ええ」
「なら、僕からもいいかな」
「何?」
「強がらなくていいよ」
彼女は驚いたように目を丸くする。
「本当は、この家を出ていきたくないんだろう。だったら無理に明るくしなくていい」
笑顔が消えてなくなる。彼女はそのまま黙り込み、下を向いた。
ここに毎日通っている間、ベリー公は思っていた。彼女は悲しみを隠すために、無理をして明るく振る舞っているのではないかと。
「……このままじゃ」
うつむいたまま、彼女は口を開く。
「名前を、なくしちゃう」
「どういうこと?」
「フィリピーヌじゃ、なくなっちゃうわ」
エルネスティーヌというのは王妃が付けた名前。
本名はマリー・フィリピーヌ・ド・ランブリケ。
泣きながら、彼女はこう打ち明けた。
フィリピーヌという名前で自分のことを呼んでいたのは、ランブリケ夫人や、この家の近所に住む人くらいだった。
プチ・トリアノンで暮らすようになれば、フィリピーヌと呼ぶ人は、自分の周りからいなくなる。
誰もこの名前で呼ばなくなると、母親や、早くに亡くなった父親との繋がりが消えてしまう。
それが悲しいのだ、と。
「僕が呼ぶよ」
彼女が顔を上げた。
赤くなった目。その涙をぬぐってあげたいと、ベリー公は思った。
そして、抱きしめたいとも。
「僕がフィリピーヌって呼ぶ。二人でいるときだけになるけど。そうすれば、君の本当の名前はなくならないだろう」
他の人がいる前では、フィリピーヌとは呼ばない。名付け親である王妃のことを、彼女は気にするだろうから。
それにその方が、ベリー公と彼女とで「二人だけ」を共有できる。
「だめかな?」
胸の鼓動が鳴り止まない。
返事を待つ、ほんの何秒かの時間が、とても長いものに感じられた。
彼女は涙をぬぐい、
「いいえ。すごく、うれしい」
言葉どおりの笑顔を見せた。
描きとめておきたいと、ベリー公が思う表情だった。
【13. 本当の名前】




