第1話「孤独な終わり」
木曜日の夜、俺は夕飯の洗い物を明日の自分に任せて流しに放置し、風呂に入り、いつも通り十二時前にベッドに潜り込んだ。
特別な日じゃない。明日も普通に仕事がある、普通の夜だった。
最初に気づいたのは、息を吸うたびに出る咳だった。
一回、二回。止まらない。呼吸するたびに胸の奥で何かが引っかかるような感覚。喘息だ、と理解した瞬間には、もう体が思うように動かなくなっていた。
吸入器。頭の中でその単語が浮かぶ。リビングの机の上に置いてあるはずだ。去年の春に発作が出て以来、ずっとそこに置きっぱなしにしていた。でも確か、中身は使い切ったままだ。補充しようと思って、そのまま忘れていた。発作なんてもう来ないと思っていたから。
スマホは枕元にある。手は届く。
震える指で画面を点灯させて、119を押した。
「——」
声が、出なかった。息を吸えば咳が溢れる。咳をすれば余計に苦しくなる。喋るための空気が、どこにもない。
スピーカーから「火事ですか、救急ですか」という声が聞こえた。
答えられなかった。
麻衣のことを思い出した。
九年間、一緒に暮らした妻。毎晩俺が作った飯を食って、美味しいと笑っていた女。その笑顔が、知らない男にも向けられていたと知ったのは、離婚する一年前のことだった。
今でも純粋に憎い。不倫したことが、ただ憎い。
今あいつがどこで何をしているか知らないけど、せめてあいつより長生きしたかったな。
誰も、気づかない。
隣の部屋との壁は薄いのに、誰も気づかない。
暗い天井を見上げながら、ただ一つのことだけを考えていた。
——俺、死ぬのかな。
不思議と、パニックにはならなかった。ただその問いが、暗闇の中でぽつりと浮かんで、消えなかった。
鈴木拓也、三十六歳。木曜日の深夜、誰にも看取られることなく、静かに息を引き取った。




