第18話 それは、ただの水のはずだった
エリオが山を下りた翌日。
私は朝から、土まみれになっていた。
「よし、こんなもんかな」
昨日の石窯には、まだほんのりと温かい余熱が残っている。これを使わない手はない。
私は川から汲んできた水と粘土質の土を混ぜてこね、木の枠に入れて四角く成形していた。これを窯の熱でじっくり乾かして焼き固めれば、立派なレンガの完成だ。
作業の区切りがつき、昨日作った自慢の『濾過装置』から滴る綺麗な水を器に受けて、一息つく。
「うん、やっぱり美味しい」
そうやって満足感に浸っていた、次の瞬間だった。
「セラ」
ふと、背後から低い声が落ちた。ノクスだ。
「なに?」
「少し、嫌な匂いがする。血と、瘴気が混じった匂いだ。この位置から東寄り、少し下った先だな」
一瞬で、状況を理解する。
「怪我人? ちょっと見てくる!」
私は急いで立ち上がり、泥のついた手を軽く払った。
「あ、そうだ。顔、土だらけだった」
レンガ作りの最中だったのを思い出す。こんな顔で怪我人の前に出るのは気が引ける。私は足元にあった丈夫な布を適当に拾い上げると、目の下から下を覆うように顔に巻き付けた。
「ノクスは?」
「余は姿を見せぬ。弱った人間の前に余が出れば、恐怖で息の根が止まるやもしれんからな。だが、お前を一人にはせん。余はすぐ後ろにいる」
「驚かせちゃダメだよ。分かった、行こう」
私は身軽な格好のまま、森の中へと走り出した。短いピンクの髪が風に揺れる。背後の気配は、音もなく私についてきていた。
◇
深い森の奥。
大樹の根元で、魔術師のルークは絶望に顔を歪めていた。
「くそっ、しっかりしろ! 目を閉じるな!」
腕の中でぐったりとしているのは、相棒の剣士だ。部隊が散り散りになり、相棒の腕には魔物の瘴気を纏った爪痕が深く刻まれている。
(俺の治癒魔法が、まったく効かない……っ)
瘴気を浄化するには王都の教会の聖水が必要だ。こんな場所でどうすることもできない。相棒の顔色は、すでに死人のように土気色だった。
「頼む、死ぬなっ」
ルークが祈るように声を絞り出した、その時。
ガサッ、とすぐ近くの茂みが揺れた。
「っ!? 誰だ!」
ルークが弾かれたように顔を上げる。現れたのは、短いピンク色の髪をした少女だった。顔の下半分を白い布で覆い、瞳だけを覗かせている。
少女はルークの警戒など一切目に入っていない様子で、倒れている相棒の腕を凝視した。
「うわ、ひどい。ちょっと、何その傷!?」
少女は顔を布越しに歪め、足早に近づいてくる。
「くるな! あんた、何者だ!」
ルークが叫び、短剣を引き抜こうとした――その瞬間。
少女のすぐ背後の暗がりから、びりっ、と空気を震わせるような圧倒的な重圧が放たれた。
「っ……!?」
ルークは短剣を抜くどころか、その場に縫い止められたように固まり、顔面を蒼白にさせた。
(なんだ、この死の気配は。この娘の後ろに、とてつもない『何か』がいる……!)
(あ、ノクスが威嚇してる)
私は内心でノクスを宥めつつ、目の前の惨状に改めて眉をひそめた。近くで見ると、傷口に絡みつく黒いモヤが本当に不気味だ。
「近くを通りがかったの。……それより、そんなに泥がついたままにしてたら、絶対悪化するよ。すぐに洗わないと」
「み、水がないんだ。それにこの傷は、ただの傷じゃ……」
「水がない? そっか、ちょっと待ってて!」
私は立ち上がって踵を返し、拠点へと全力で駆け戻った。
◇
ロッジから綺麗な水が入った水袋を掴み、再び二人の元へ戻る。
「持ってきたよ!」
相棒の男はさらに顔色を悪くしている。
「ちょっと沁みるかもだけど、我慢してね」
私は迷いなく、男の傷口にじゃばじゃばと水をかけた。
◇
じゅぅぅっ、と。肉を焼くような、奇妙な音が響いた。
「っ!?」
支えていたルークが、悲鳴のように息を呑む。傷口にまとわりついていた死の瘴気が、少女のかけた水に触れた瞬間、溶けるようにあっさりと消え去っていく。
(馬鹿な……!? 高位神官の聖水でも消しきれないほどの濃い瘴気が、ただの冷たい水で!?)
「ちゃんと流しとかないとね。……飲めそう?」
少女は布を少しずらし、相棒の口元に水袋を運んだ。ごくりと水を飲んだ瞬間、男の顔に明らかな生気が戻る。
「痛みが、引いていく……。体が、軽い」
それを見て、私は深く頷いた。
(うんうん、わかるよ。本気で喉が渇いてる時って、ただの水一口で『これで助かった!』って大げさに感動しちゃうんだよね)
私は男の肩を、ぽんと優しく叩いた。
「わかるよ。すっごく喉乾いてたんでしょ? 本気で水がない時って、一口飲むだけで生き返ったー! って思うよね。うんうん、ゆっくり飲んでいいからね」
「……え?」
ルークはポカンと口を開けた。
(いや、喉の渇きとかそういう次元の話じゃなくて……っ!?)
◇
ルークは魔術師だ。だからこそ、少女の周囲に小さな光が次々と集まり、狂喜乱舞して舞い踊っているのが見えていた。
「精霊が……」
教会の聖職者でも不可能な奇跡を、少女は「喉が渇いてたんだね」という異常な一言で片付けてしまった。この少女は、ただの人間ではない。
「もう大丈夫そう?」
少女は軽く様子を見てから立ち上がる。
「しばらく休んだ方がいいと思うよ。じゃ、私行くね」
軽く手を振って、彼女は森の奥へと消えていった。それと同時に、あの恐ろしい威圧感も嘘のように霧散した。
◇
残されたルークと相棒は、しばらく動けなかった。
「なんだ、あれは」
ルークは残っている水を口に含む。極限まで張り詰めていた疲労が、嘘のように全回復していく。
「ただの水じゃ、ない」
彼は少女が消えた方角を畏怖の眼差しで見つめた。
「この山に、とんでもない聖女がいる」




