第十五話「ヴュルテンゲルツ流剣闘術」
午後の陽光が草乃月財閥本社ビルの最上階に差し込む中、レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツは執務室の窓辺に立っていた。東京の街並みを見下ろしながら、彼女の脳裏には二つの世界が重なって見えていた。
現代日本の高層ビル群と、かつて彼女が治めていたヴュルテンゲルツ王国の古城。平和な都市の喧騒と、戦火に包まれた王都の悲鳴。
「シモンめ、よくもやってくれたな」
低く呟いた声には、前世からの深い憎悪が込められていた。
三日前の出来事が脳裏に蘇る。
「麗良、お前に失望した」
父・草乃月涼彦の声は、普段の温厚さを微塵も感じさせない冷たさに満ちていた。書斎の重厚な机を挟んで向かい合う父の顔は、現代的な経営者としての合理性と効率性を重視する表情を浮かべている。
しかし、私には別の姿が重なって見えていた。前世で彼女の父であった先王の面影を。あの時とは違い、今の父は利益を上げることには長けているが、戦乱の世を生き抜いた狡猾さや人を見抜く洞察力は失われている。
もし前世の記憶が戻れば、再び威厳に満ち溢れた王としての風格を取り戻すだろうが、今はただの優秀な実業家に過ぎない。
「紫門君から聞いた。お前が素性の知れない男に入れ込んでいるとな」
シモン——現世では小金沢紫門——がお父様に、私が悪い男に騙されていると報告したのだ。しかも虚実を織り交ぜて、さも本当のように見せかけているところが小賢しい。
「お父様、それは誤解です。私はただ——」
「誤解?」
父の眉が険しく寄った。
「紫門君は証拠も持参してきた。お前がその白石という男と密会している写真、親密そうに話している動画もだ」
怒りが込み上げる。シモンは前世の頃より、こういう工作が得意だった。証拠の捏造、人心の操作、そして最も憎むべきは——信頼できる人物への成りすまし。
前世でも同じだった。大公という地位を利用し、王の信頼を得て、徐々に王国を内部から蝕んでいった。
そして最後には——
「麗良、返事をしなさい」
父の声に現実に引き戻される。
「紫門君は我が財閥の将来を担う優秀な青年だ。彼の心配は当然のことだろう。お前がどこぞの悪い虫にたぶらかされているのではないかと」
シモンとお父様の仲が良いのも問題だった。表面上は小金沢グループと草乃月財閥は競合関係にあるが、シモンは個人的にお父様の信頼を得ていた。お父様は裏付けもろくに取らずに、シモンの言うことを信じてしまった。
「なぜ紫門君と仲違いしたのか、正直に話しなさい」
正当な理由はある。山ほどある。だが、お父様を説得するのは非常に難しい。
お父様の記憶はまだ戻っていないからだ。
この現世において、私だけが前世の記憶を完全に取り戻していた。そして父や他の人々は、まるで前世など存在しなかったかのように、この平和な現代日本で生きている。
前世の話をしても、頭がおかしくなったと思われるだけだろう。だから前世の話を抜きにして反論するしかなかった。
「紫門は……信頼できません。私には合わないのです」
「合わない?」
父の声が一段と厳しくなった。
「お前は草乃月家の跡取りだ。個人的な好みで判断してよい立場ではない」
父の言葉は、経営者としての合理的な判断に基づいている。感情ではなく、財閥の利益を最優先に考える現代的なビジネスマンの発想だった。
前世の先王であれば、娘の微細な表情の変化から真実を見抜いただろう。しかし今の父には、娘が何か重要なことを隠していることすら気づけない。
「しかし——」
「もう決めた」
父が立ち上がった。
「お前には当分、外部との接触を控えてもらう。特にその白石とかいう男とは、一切の関わりを断つことだ」
「お父様!」
「そして、お前が担当していた新規事業の件は、すべて紫門君に引き継がせる」
自分の顔が青ざめたのがわかる。それは前世の記憶が戻る前から私が長年かけて準備してきた、草乃月財閥の新たな柱となるはずの事業だった。
お父様は激高し、私は携わっていた仕事も取り上げられ、身動きができない立場になりつつある。
あの日から三日。
私は自室に軟禁同然の状態に置かれていた。
草乃月財閥の実権はお父様が握っており、私はお父様の力を借りて「権」を行使していたにすぎない。これ以上「権」を奪われては、私は大事な「ショウ」を守れなくなる。
ショウ——白石翔太。
現世で彼は、都内の私立高校に通う普通の高校生だった。成績は中程度、運動神経も人並み、特に目立った特技があるわけでもない。家庭は一般的なサラリーマン家庭で、決して裕福ではない。
しかし、私は知っている。彼の本当の姿を。
前世において、ショウは名もなき平民の出身でありながら、その知恵と勇気で数々の危機を救った英雄だった。剣の腕は一流の騎士にも劣らず、戦略眼は老練な将軍をも上回った。
そして何より——
私の心を救ってくれた、唯一の人。
前世で王女として生まれた瞬間から、すべてが政治的な計算の下に置かれていた。結婚相手も、友人関係も、趣味さえも、すべてが「王国のため」という大義名分の下で決められていく。
そんな中で、ショウだけが彼女を一人の人間として見てくれた。王女としてではなく、レイラという一人の女性として。
だからこそ、身分の差を受け入れて諦めた。愛する人を政治の道具にはできないと。
そして選んだのが、シモンだった。
あの時の自分の愚かさを、今でも悔やんでいる。
覚悟を決めなければならない。
執務机の引き出しから、特製の携帯電話を取り出した。表向きは普通のスマートフォンだが、その内部には軍事レベルの暗号化通信機能が搭載されている。
お父様……。
譲歩は、ここまでです。
指先でダイヤルを操作しながら、表情を引き締めた。普段の上品な令嬢の顔から、前世の王女としての威厳が浮かび上がる。
骨肉の争いはできるだけ避けたかったのですが、お父様が本気で動くのならば、私は全力で抗います。
お父様の記憶は戻っていない。それは悲しいが、チャンスでもある。
現世の父である涼彦は確かに優秀な経営者だった。数字に強く、市場の動向を読む能力に長けている。草乃月財閥を現在の規模まで押し上げたのも、彼の経営手腕によるところが大きい。
しかし、前世の先王が持っていた、戦乱の世を生き抜いた狡猾さや人を見抜く洞察力、そして絶対的な威厳——それらは完全に失われている。
今の父は、損益計算書や市場分析には長けているが、人の本性を見抜くことや、権謀術数に対する嗅覚は鈍っている。だからこそシモンのような男に騙されるのだ。
もし記憶が戻れば——前世の記憶が完全に蘇れば、父は再び圧倒的な威厳を纏った王となるだろう。その時こそ、真の意味での権力者として君臨することになる。
あの激動の時代に辣腕を振るっていたお父様ではない。この平和な日本で効率よく利益を上げることに特化した今のお父様なら、十分に挽回できる。
通話が繋がった。
「ロック、私だ」
『お嬢様。お待ちしておりました』
電話の向こうから聞こえてきたのは、低く落ち着いた男性の声だった。私が一番信頼している護衛である。前世でレイラには忠実な部下たちがいた。その中の一人である。
「例の件、始動する。父への対応は既定のプランBで」
『承知いたしました。小金沢グループの動きはいかがいたしましょう?』
「監視を続けて。必要があれば——」
その時、執務室のドアがノックされた。
「麗良さま、紫門様がお見えです」
メイドの声に、血管に氷が流れるような感覚が走った。
まずは護衛のロックに連絡をして……と思っていた矢先に。
「麗良」
ドアが開き、シモンこと小金沢紫門が姿を現した。
この忙しい時に、一番会いたくない男が現れた。
小金沢紫門。現世では小金沢グループの若き後継者として生まれ、草乃月財閥と表面上は協力関係を装いながら、実際は敵対的買収を狙う企業グループの次期当主だった。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群。まさに絵に描いたような完璧な青年——表面上は。
シモンめ、どうしてここに——きっとお父様ね。
お父様は、このクズとの仲をしきりに深めたがる。小金沢グループとの将来的な合併も視野に入れているようで、シモンを次世代のパートナーとして重要視していた。私のスケジュールを教えたのだろう。
「やあ、麗良。元気にしてた?」
シモンの声は親しみやすく、笑顔は人懐っこい。しかし、レイラにはその奥に潜む冷たさが見えていた。
相変わらず憎らしい顔をしている。こいつはにっくき仇だ。
殺したい。
右手が机の引き出しに向かいかけた。そこには護身用のスタンガンが入っている。
いや、だめだ。落ち着け。
ここは絶対王政を敷いていたヴュルテンゲルツ王国ではない。法治国家ジャパンである。こいつを殺せば刑務所行きだ。殺るならば、綿密に計画を立てなければならない。
今は雌伏の時、怒りを押し殺す。
シモンを無視して進む。しかし、シモンは前に回り込んできた。
「麗良、待ってくれ」
「……放しなさい」
シモンが肩に手をかけてきたので、強引に振り払う。
汚らわしい。
ハンカチでシモンが掴んでいた箇所を念入りに拭った。前世の記憶が蘇る——この男に触れられた時の、あの嫌悪感が。
「れ、麗良、どうして……」
シモンの声に困惑が混じっている。なぜこれほど自分を嫌うのか理解できずにいた。
「二度は言わせない。私の名をその汚らわしい口で二度と呼ぶな」
「白石は嘘を言っている。俺は麗良一筋だ。信じてくれ」
シモンが胸に手を当てて誓う。真剣な表情だ。誠実な男を演じている。
記憶が戻る前のお花畑な頭をしていた私なら、騙せただろう。
前世の大公時代のシモンを彷彿とさせる光景だった。
この表情に愚かな私は騙された。誠実な男なんだと、この男ならば国を守ってくれるだろうと。
身分の差からショウを諦め、この誠実の仮面をかぶったシモンを伴侶としようとした。政治的配慮からも、それが一番国にとってよいことだと信じたから。
ふっ、それは大きな間違いだった。シモンは国に巣くう害虫そのもの、国を傾かせる原因であった。
シモンは熱烈に訴えてくる。目で声で仕草で。
無駄だというのに、私はとっくにお前の本性を知っている。
それにしても黙って聞いていれば、勘違いもはなはだしい。このシモンは、私がお前の浮気に嫉妬して怒っているとでも思っているようだ。
「誤解のないように言っておく。貴様がどこの雌猫と戯れようが、私には一切関係ない」
「ぷっ、なんだ。やっぱり嫉妬して怒ってたのか? 誤解だよ」
何を勘違いしたのか、シモンが軽口を叩く。
そして笑顔で近づき、
「それにしても、俺へのあてつけなら、もう少し人選を考えたほうがよかったんじゃないか? なにも白石のような底辺にしなくてもいいだろう」
また私の大事なショウを侮辱した。
こいつは百回殺しても飽き足らない。
「ショウを侮辱するなら殺す。言ったはずだ」
「お、おい、正気か? 本気であいつなんかを」
「本気だ。私の理性が残っているうちに消えろ!」
シモンに怒りのままに言い放つ。
本来であれば八つ裂きにしても飽き足らないが、今はシモンへの制裁より、お父様だ。
早急に権限を取り戻さなければならない。お父様相手に荒っぽい真似はしたくないのだが、小金沢グループも関与してきている。
シモンが小金沢グループの後継者である以上、これは単なる個人的な復讐ではなく、企業間の戦争でもあった。それも視野に入れないといけないだろう。
携帯電話でロックに指示をしながら、足早に進む。
「緊急事態だ。プランBを即座に実行。小金沢グループの動向も調査しろ」
「待ってくれ」
シモンが追いかけてきた。
しつこい。また蹴り飛ばしてやろうか、そう考えていると、
「白石が今どうしているか、知っているか?」
ショウ!?
シモンから聞き流してはいけない言葉を聞いた。
「ショウに何をした?」
きびすを返し、シモンの正面に移動する。
ショウ、無事なのか? シモンに何をされた?
自分でも驚くほど殺気を出しているのがわかる。
カバンから特殊警棒を取り出し、シモンへ向けた。
この警棒は表向きは護身用だが、実際は軍用グレードの特殊合金製で、人間の骨を易々と砕く威力を持っている。
ショウの身に危険が迫っているのならば、もはや法律がどうのとは言ってられない。今すぐこのシモンを殺してショウを救う。
法への対応は後で考えればいい。
「お、落ち着け。物騒なものを出すな。俺は何もしていない。本当だ。あいつが勝手にやらかしたんだ」
「信じない。何をした?」
「だから、したのは白石だ。これを見てみな」
シモンが携帯を見せてくる。
携帯に保存されている動画が再生され、電車の車内が映し出される。
JR山手線の車内のようだった。平日の昼間で、車内にはそれほど乗客は多くない。十数名の乗客がいて、その中に三人の女性がいる。
そのうちの一人が携帯で撮影をしている様子だ。撮影している女性は、明らかに「偶然を装って」撮影している。
一人の女が「紫門さん、任せてください!」と、くだらないシモンへのアピールをした後、車内にいるショウが映った。
「ショウを監視していたのか?」
「監視? 人聞きの悪いことを言うな。お前が白石の奴をあれほど気にかけるから、伝手を使って調べていただけだ」
「調べる? ものは言いようだな」
「お前が悪いんだ。いきなり翔なんて名前呼びするわ、俺に暴力を振るうわ」
「言い訳はもういい。で、結局ショウに何をした? ただ女がショウと話をしているだけじゃないか」
「そうだ。話をしている。鼻を伸ばしてヘラヘラとだ。とても麗良にふさわしい男とは思えない」
動画の中で、ツインテールの女がショウに近寄り、話をしている。
趣味、経歴、家族構成など、まるで身元調査をするような質問が続く。
女性はあからさまに腕を絡めたり、ショウに好意を寄せているように見せている。
尻軽女め。
しかし、ショウは少しおどおどしているが、そんな尻軽女相手でも終始笑顔で対応している。
相変わらずだな。
こんな性格の悪そうなアバズレ、ショウの好みではない。そんな女相手でも礼儀を忘れないのだ。
今は記憶が戻っていないので頼りなく見える。
だが本質は違う。
ショウは誰よりも知恵と勇気を持つ素晴らしい男だ。前世でも、絶体絶命の危機を何度も救ってくれた。そんな男だからこそ、多くの女性に慕われるのは当然のことだった。
そんな男に惚れない女なんていない。実際、前世でもショウはモテていた。平民出身でありながら、その知恵と勇気で多くの人を救い、助けられた女性たちから慕われていた。
特に、ショウの腹心と呼ばれた女性騎士がいた。記憶が完全に戻っていないため、顔と名前はシルエットのままだが、あの女性のショウへの思いは本物だった。私もあの女性には、ずいぶんやきもきさせられたものだ。
しかし、これはシモンの仕込みの女だ。焦りや嫉妬が湧きようもない。
「くだらん。ショウは優しいから、こんな尻軽そうな女でも笑顔で対応する、ただそれだけだ。それより、知り合いの女を使ってこんな茶番を仕掛け、貴様の品性が下劣なのはわかったぞ。まあ、もともと知っていたが」
「くっ。どこまで奴を信頼する。どう見ても女にのぼせ上った腑抜けの姿だろうが!」
「貴様のようなクズにショウの素晴らしさは、かけらも理解できないだろう。これで終わりか? もう行く、時間を無駄にした」
「待て、待て。ここからだ。ここからなんだよ」
シモンは携帯の動画の続きを見せてくる。
「へっへ、俺も驚いたよ。この後、この後だ。あいつとんでもないことしでかしてんだ」
「……早く言いなさい」
「焦るなよ。動画を見ていたらわかる」
シモンの言い様に強い不快を覚え、衝動的に殴りそうになるが、抑える。
ショウの身の安全がかかっている。少しでも情報を得なければならない。
それから携帯の動画を見ていたら——
ショウが尻軽女のお尻を触り、尻軽女が悲鳴を上げたのである。
「きゃあああ! 痴漢です。この人痴漢です!」
動画の中で女性の絶叫が響く。周囲の乗客たちが一斉にショウの方を向いた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 僕は何も——」
ショウが慌てて否定しようとするが、女性は泣きながら訴え続ける。
「この人がお尻を触ったんです! みんな見てください!」
「おい、そこの君!」
男性乗客がショウに詰め寄る。
「痴漢なんて最低だな」
「警察呼ぼう」
「逃げるなよ」
あっという間にショウは乗客たちに取り囲まれた。
「なっ! 俺は彼女に調査を頼んだだけだ。可哀そうに。奴が性欲に負けて襲ってくるなんて夢にも思わなかっただろう」
シモンが勝ち誇った顔で言う。
「白石は退学になる。電車内で痴漢行為を働いて警察に捕まったんだからな」
血の気が引いた。
「……携帯を貸して」
「へっへっ、麗良もようやくわかったようだな」
「いいから貸しなさい」
「ああ、いいぜ。存分に奴の醜態をチェックしろよ」
シモンから渡された携帯の動画を確認する。
ショウと尻軽女が会話をし、ショウが尻軽女の尻を触る。
動画ではそう見えるが、その間の映像がカメラのアングルでよく見えない。
うまい編集の仕方だ。これだけを見たら本当にショウが痴漢をしたように見える。
しかし、私の目は騙せない。
動画を何度も再生し、細部を注意深く観察する。
映像の中で、女性がわざとショウの方に体を寄せている瞬間がある。そして彼女の手が何かを操作している——おそらく事前に仕込まれた小型カメラの角度を調整しているのだろう。
さらに、ショウの手の動きを見ると、明らかに不自然だ。まるで何かに引っ張られるように、女性の方に向かっている。
記憶が戻っていない私なら信じただろうな。いや、物的証拠がなくてもこのシモンの言葉を盲目的に信じていただろう。
なんとも愚かな女だった。
このシモンの手口は、わかっている。前世でも同じような偽装工作で多くの忠臣を陥れ、最終的に王国を滅亡に追い込んだのだ。
動画とか物的証拠とかどうでもいい。
大切なのはショウ、ショウが正しい。
私はショウを知っている。前世でも現世でも、彼は決してそんなことをする人間ではない。知っているのならば、答えはわかっている。ショウがシモンにはめられ投獄されたのだ。
ショウを救う。
まずは、この捏造データを壊そう。
シモンの携帯を操作し、フォルダの中以外にもデータが入っていないか確認する。
クラウド上、送信メールの添付ファイル、SDカード内など。いくつか削除したが、他にもありそうだ。
調べるには時間がない。
これはシモンの携帯ごと壊したほうがいいだろう。
「ほかにデータは?」
「なんで……そんなこと」
「いいから答えなさい」
私の威圧感込められた声に、シモンが怯んだ。
「……俺の調査に協力してくれた子が持っている。それよりどうだ、白石の正体を知って幻滅したか?」
けらけらと笑うシモンを無視して、シモンの携帯からSDカードを取り出し粉砕、そのまま携帯も力任せに二つ折りにしてバキバキに壊していく。
「なっ!? お前いきなり何やってんだ!」
シモンが携帯を取り戻そうと手を伸ばしてきたので、すぐさま特殊警棒を使い、その鼻面に叩き込む。
「へぶらぁああ!」
シモンが鼻を押さえて絶叫する。
私の大事なショウを苦しめて、許さない。
前世からの憎悪、現世での怒り、すべてが一気に爆発した。
倒れているシモンの顔に何度も何度も特殊警棒を振り下ろす。その度に悲鳴を上げるシモン。
実に気分がよい。
警棒を振り下ろすたびに、心にこびりついている憎しみが消えていくようだ。
ゴキッ、バキッ!?
鈍い音が響く。
シモンの顔は流血し、みるみる赤くなった。
「あ、あ、くそ、痛え、痛えぞ。あ、あ、ちくしょう! 俺の歯が!?」
振り下ろした攻撃の一つがクリーンヒットしたようだ。シモンの前歯が折れ、地面に落ちている。
シモン自慢の顔は歯抜け状態だ。
「くっく、いい顔になったじゃないか。お似合いだぞ」
私の表情は、普段の上品な令嬢のものではなく、前世の戦場で敵を見下ろした時の王女になっていることだろう。
「て、てめぇ、こっちが下手に出てたらいい気になりやがって! もう許さねぇ。ぶっ殺してやる」
シモンの額に青筋が浮かぶ。
はぁ、はぁ、と息を乱してはいるものの、アドレナリンが大量に放出されているようで、しっかりと立ち上がった。
シモンは今にも殺さんとばかりに殺気を込めて睨み、拳を握ってくる。
「麗良ぁああ! てめぇが財閥の娘だろうと容赦しねぇ。ぼこぼこに顔を腫れ上がらせてやる。嫌だと言ってもやめねぇ。俺に従順になるまで、何度も何度もぶん殴ってやるからなぁ!」
その言葉で、シモンの本性が完全に露わになった。表面的な紳士的態度は消え失せ、前世でレイラを苦しめた残虐な大公の顔が現れた。
「ふっ、とうとう本性を現したか。いいぞ、それでこそ殺しがいがある」
「ほざけぇえ!」
シモンがステップを踏みながら突進してくる。ボクシングスタイルだ。
確かに現世のシモンは、ボクシングの訓練を積んでいた。プロライセンスも取得している。
しかし——
私はカバンから特殊警棒をもう一つ取り出し、両手で構える。
二刀の構えだ。
「二刀? くっく、素人が。麗良お前は俺のボクシングの腕知ってるよな。プロのライセンスも取った。それがどういう意味かわかるか? わからないよな。だからこんな馬鹿な真似をした。今から教えてやる。プロボクサーのパンチがどれだけ痛いかってな」
シモンが頭を低くし懐に入ってくる。ボクシングのワンツーを繰り出すようだ。
「ヴュルテンゲルツ流武技、三の太刀」
右手の特殊警棒をシモンの眼前に、左手の特殊警棒を上に構える。腰を低くし、相手を見据えた態勢だ。
この構えは、前世で何百回、何千回と反復練習した型だった。
「ぷっ、ヴェルなんだって? 麗良、やっぱりお前頭がおかしくなったんだな!」
シモンはニヤつくと、私の顔をめがけて右ストレートを放ってくる。
勝ち誇った顔だ。自分の勝利を確信している目だ。
甘いな。
この技は実戦剣闘術だ。王宮に仕える近衛隊長直々に習った技術。
確かに私は剣を持って敵兵の首を獲ったことはない。戦闘のプロとは言えないだろう。それは兵士の仕事であり、王の仕事ではないから。
だが、嗜みとして剣術は習っている。嗜みとはいえ、数多の戦場を駆け抜けた近衛隊の隊長から直々に習ったのだ。
前世、血反吐を吐くほどの訓練を行った。訓練とはいえ、何度も死にかけた。貴様のようなぬるい練習は一度としてしない。
プロのボクサー?
ふっ、記憶が戻っていない貴様は一介の高校生だ。生き死にも経験していない。たかがボクシングをかじった程度のクズに負ける道理はない。
シモンの右ストレートを一方の特殊警棒で弾くと、その勢いのままもう片方の特殊警棒でシモンの顔面に突きを入れる。
完璧な「三の太刀」だった。
シモンはもろに特殊警棒が当たり、勢いよく地面にたたきつけられた。
「あ、あぐ、はぁ、はぁ、痛え。死ぬほど痛え」
シモンは痛みからか地面をのたうち回っている。
特殊警棒についた血を拭いカバンにしまうと、シモンの傍まで行く。
シモンは何をされるか察したようだ。みるみるその顔を青くしていく。
「あ、あ、まさか……」
「ああ、そのまさかだ」
私は満面の笑みをシモンに見せる。それは前世で敵を討った時の、王女としての冷酷な笑みだった。
「や、やめ、退院したばか——」
「死ねぇ!」
「ぐへぇらぁああ!!」
最後は思いっきりシモンの股間を蹴り飛ばしてやった。
泡を吹いて気絶するシモン。このまま命まで絶つべきであろうが、今はまだ早計だ。権限を取り戻してから亡き者にする。
「ショウ、もう少しの辛抱だ。今助けに行く」
シモンをその場に残し、携帯電話でロックに連絡する。
「ロック、緊急事態だ。ショウの居場所を調べろ」
『既に調査済みです。白石翔太氏は現在、渋谷警察署に身柄を拘束されています』
「やはりな。保釈の手続きは?」
『問題ありません。弁護士チームを既に派遣しています。ただし——』
「ただし?」
『相手側に有力な証拠があると主張しています。動画や証人など』
「すべて捏造だ。証拠隠滅も含めて、完全に処理しろ」
『承知いたしました』
通話を終え、ビルの屋上へ向かった。そこには既にヘリコプターが待機している。
「お疲れ様です、お嬢様」
パイロットが敬礼する。
「渋谷警察署まで、最短コースで」
「はい!」
ヘリコプターが離陸し、東京の夜景の中を飛んでいく。
窓の外を見ながら、考える。
「ショウ、待っていて。必ず助け出す」
前世では、シモンの策謀によってショウを失った。あの時の後悔と絶望を、二度と味わうつもりはない。
今度は違う。今度こそ、愛する人を守り抜く。
そして、シモンには相応の報いを受けてもらう。
ヘリコプターが渋谷の夜空を駆け抜けていく中、前世の王女としての決意が宿っていた。
まだ戦いは始まったばかりだ。シモンは今回の件で一時的に力を失ったが、完全に排除されたわけではない。小金沢グループとの戦いも控えている。
そして最も重要なのは——ショウだ。
「今度こそ、必ず守り抜く」
窓の外に広がる東京の夜景を見つめながら、静かに誓った。
前世では失ったもの——愛する人、王国、すべてを。
今度は違う。
今度こそ、愛する人を守り、シモンを完全に打ち倒し、幸せを掴んでみせる。
前世の王女として、現世の財閥令嬢として。
レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの真の反撃は、これから始まるのだった。
【補足】
ヴュルテンゲルツ流剣闘術は、二刀を縦横無尽に駆使しつつ、足払いや投げ技などの組討ちも含んだ実戦的剣闘術である。戦場での生存を第一とした武技であり、美しさよりも確実性を重視する。
ヴュルテンゲルツ王国の王族・貴族に代々伝承されてきた秘伝の武術で、実際の戦場経験を積んだ近衛隊長クラスの武人によってのみ指導される。一般的な剣術とは異なり、「生きて帰る」ことを最優先とした殺人術の側面が強い。
二刀流の基本理念
右手に攻撃用、左手に防御用の剣を持つのが基本だが、状況に応じて両手とも攻撃に転じることができる。相手の武器を一方で受け止めながら、もう一方で確実に急所を狙う戦法を得意とする。
後の先の技法
相手の攻撃を受け流しながら反撃する「後の先」の技を多数含む。作中でレイラが使用した「三の太刀」も、この技法の一つである。敵の攻撃を一方の剣で捌き、その勢いを利用してもう一方の剣で反撃を繰り出す。この技法の真髄は、相手の力を利用することにある。強力な攻撃ほど、それを逸らした時の反動も大きく、より致命的な反撃が可能となる。
組討ち要素
純粋な剣技だけでなく、接近戦での足払い、関節技、投げ技も体系に含まれている。武器を落とした際や、至近距離での戦闘に対応するためである。特に王族護衛の場面では、暗殺者との肉弾戦も想定されている。
十の太刀~四の太刀:基本技(初級~中級)
三の太刀:作中でレイラが使用した技(上級・習得済み)
二の太刀:奥伝(最上級・レイラは未習得)
一の太刀:流派の最奥義(秘伝・レイラは未習得)
三の太刀の詳細
相手の正面攻撃を右手の剣で弾き、同時に左手の剣で顔面に突きを入れる技。一連の動作が流れるように行われ、相手に反撃の隙を与えない。ボクシングのような直線的な攻撃に対しては特に有効。
作者の白石翔太が創作する際に参考にした実在の剣術流派:
鏡新明智流:二刀流の基本構造
神道無念流:後の先の理論
北辰一刀流:実戦的な間合いの取り方
心形刀流:組討ち要素
天然理心流:足腰を重視した構え
これら名だたる古流剣術の技法をミックスし、架空の王国の武術として再構築した結果、極めて実戦的で強力な剣闘術となっている。




