第十話「ブレインウォッシュの効果とは」
もうなりふり構っていられない。
机の上の洗脳機械を見つめていた。
小さな金属の箱。手のひらに収まるサイズなのに、ずしりと重い。人の心を操る——神の領域に踏み込む道具。
校舎裏での紫門の言葉が蘇る。
「卒業しても続くからな」
「お前は留年だ」
そして麗良との資料室での出来事。髪を掴んでしまったこと。慰謝料を請求されたこと。
逃げ場がない。
もう後戻りはできない。
震える手で起動スイッチを押した。
低い振動音。表面に刻まれた謎の文字が淡く光り始め、液晶画面が青白く点灯する。
『起動中……システムチェック完了』
『洗脳対象のDNA情報を入れてください』
七年ぶりの起動だ。
小学生だった俺が、まさし君の脅迫から逃れるために使った道具。結果的にまさし君は別人になった。あれが最初の罪だった。
今度は二度目。
でも、今回は違う。これは正当防衛だ。
麗良……。
俺がいじめに遭っているのも、麗良が俺の話を信じないからだ。
最初に資料室で話しかけた時、俺は必死に紫門の正体を伝えようとした。でも、麗良は聞く耳を持たなかった。
それどころか、紫門に俺の行動を報告した。それがいじめの始まりだった。
もし、あの時麗良が俺の言葉を聞いてくれていれば——
紫門の甘い言葉に騙されて、真実を見ようとしない麗良。
でも、今度こそ俺の言葉を聞いてもらう。
慰謝料なんて絶対に払わない。草乃月財閥の令嬢が本気になれば、俺の家族は破滅する。
震える指で、爪に絡みついていた麗良の髪の毛を取り出した。
資料室で彼女の髪を掴んだ時、数本が爪に絡みついていた。家に帰ってから気づいた。
金色の髪。いつも憧れていた、麗良の髪。
それを、機械の挿入口に入れた。
『対象を認識中……DNA解析中……』
画面に複雑なデータが高速でスクロールしていく。
『対象を認識しました』
『草乃月麗良(17歳・女性・血液型A型)の情報を取得しました』
よし、うまくいった。
思わずガッツポーズ。
続きのメッセージが表示される。
『洗脳する内容をインプットしてください』
液晶画面の上に、キーボードが浮かび上がった。青白く光る半透明のホログラム。触れると、実際にキーを押した感触がある。
洗脳内容……何をインプットするか。
偉人の記憶は危険だ。まさし君の件で学んだ。
麗良にはある程度今の性格を維持してもらいたい。別人になっては、周囲が気づく。
うってつけのものがある。
俺が執筆中の小説『ヴュルテンゲルツ王国物語』だ。
登場キャラクター、レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの情報をインプットすればいい。
レイラは麗良をモデルにしたキャラクターだ。外見も内面も、すべて麗良がベース。洗脳しても性格はそこまで変わらないはず。
レイラの設定を思い出す。
美しく聡明で、民衆想いの王女。しかし世間知らずで、人を疑うことを知らない。悪人の甘い言葉に騙されやすい。
まさに麗良そのものだ。
そして、何よりレイラは主人公ショウを絶大に信頼している。
幼少期からずっと一緒に過ごし、数々の困難を共に乗り越えてきた無二の存在。レイラにとってショウは、この世で最も信頼できる人物なのだ。
レイラの記憶をインストールすれば、ショウこと俺への信頼度は爆上がりするはずだ。
小説を書き始めた時、無意識にこれを望んでいたのかもしれない。
麗良に振り向いてもらいたくて、彼女をモデルにした理想の女性キャラクターを作った。そして、そのキャラクターに俺への絶対的な信頼を設定した。
現実逃避だったのかもしれない。
でも、今それが現実になる。
キーボードに文字を入力していく。
「小説『ヴュルテンゲルツ王国物語』に登場するキャラクター、レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの記憶および人格情報」
すぐにメッセージが流れる。
『承認しました。次にヴュルテンゲルツ王国物語に関する詳細情報をインプットしてください』
急いでパソコンを起動した。
『ヴュルテンゲルツ王国物語』の原稿ファイルを開く。百万字を超える大作。三ヶ月間、毎日書き続けた俺の魂の結晶だ。
この小説が洗脳の材料になるとは。
原稿をUSBにコピーし、洗脳機械の別のポートに挿入する。
『データ認識中……』
『小説「ヴュルテンゲルツ王国物語」の情報のインプットが完了しました』
『対象キャラクター「レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツ」の人格データを抽出しました』
これで準備は整った。
『洗脳するデータ量を設定してください』
空中につまみのようなホログラムが現れる。元の記憶と洗脳記憶の比率を調整するものだ。
左端が0%、右端が100%。
これは慎重に決めなければならない。
麗良には17年間の人生がある。家族との思い出、友達との時間、学校での経験——すべてが彼女を形作っている。
憎たらしい奴だが、それを完全に消すわけにもいかない。やりすぎは危険だ。
つまみを6割の位置に固定した。
この記憶量なら、レイラがショウを一度失う場面まで含まれる。死んだと思った相手との再会——それは絆を決定的なものにする。
『設定を確認します』
『対象:草乃月麗良』
『洗脳内容:レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの記憶(0歳~16歳まで)』
『記憶比率:洗脳記憶60%、元記憶40%』
『効果時間:永続』
『これでよろしいですか?インストールを開始します』
赤い警告文が点滅している。「実行後の取り消しはできません」
あとはEnterキーを押すだけだ。
押せば、もう引き返せない。
麗良は永遠に変わる。本来の人格は、40%しか残らない。
これは殺人と同じかもしれない。
でも——
草乃月財閥と小金沢グループ。天下の両財閥に敵認定されたのだ。正攻法では解決できない。
俺の人生がかかっている。家族の将来もかかっている。
麗良……。
いじめを黙認するだけでも腹立たしいのに、「慰謝料」という形で俺の家族まで攻撃しようとした。
髪を掴んだのは確かに悪かった。でも、それは麗良が俺の話を聞こうとしないからだ。必死に助けを求める俺を無視し続けたからだ。
それなのに、慰謝料を要求するなんて。
天秤が「使用」に傾いた。
指先がキーボードの上で止まった。Enterキー。これを押せば、もう戻れない。
麗良の顔が浮かんだ。笑っている麗良。怒っている麗良。俺を見下す麗良。
——全部、変わる。
息を止めて、キーを押し込んだ。
『対象へのインストールを開始中……』
画面に進行状況のバーが表示される。
10%……20%……30%……
バーが進むにつれて、機械の振動が強くなっていく。
50%……60%……70%……
今頃、麗良の脳に新しい記憶がインストールされているのだろう。レイラ王女としての16年間が、麗良の記憶として刻み込まれている——はずだ。
80%……90%……100%
『対象へのインストールを完了しました』
終わった。
椅子にもたれかかり、深く息をついた。手が震えている。
これで麗良は変わる。俺の言葉を聞いてくれるようになる。
麗良の記憶の中では、紫門は「シモン・ゴールド・エスカリオン」——王国を裏切る悪逆貴族として刻まれているはずだ。絶対に信用してはいけない相手として。
一方、俺は「ショウ・ホワイスト」——レイラが最も信頼する忠義の騎士。
これで麗良は俺の最大の味方になるはずだ。
——でも、それは本当の麗良なのか。
頭を振った。考えるな。もう終わったことだ。
洗脳機械の電源を切り、四重のラップで包んで押し入れの奥に隠した。
証拠隠滅だ。




