第十話「ブレインウォッシュの効果とは」
もうなりふり構っていられない。
俺は自分の部屋で一人、机の上に置かれた洗脳機械を見つめていた。
小さな金属の箱。手のひらに収まるサイズだが、その重みは計り知れない。人の心を操る——神の領域に踏み込む道具。
今日、校舎裏で紫門から告げられた言葉が脳裏に蘇る。
「卒業しても続くからな」
「お前は留年だ」
そして麗良との資料室での出来事。髪を掴んでしまったこと。慰謝料を請求されたこと。
すべてが俺を追い詰めている。
もう後戻りはできない。
俺は震える手で洗脳機械の起動スイッチを押した。
機械が低い振動音を立てて動き出す。最初は電子機器特有の起動音だったが、次第に異質な響きに変わっていく。地球の機械とは明らかに違う、有機的で複雑な音の重なり。
表面に刻まれた謎の文字が淡く光り始める。幾何学的な図形が組み合わさったような、それでいて何かの意味を持っているような文字体系だ。光は青白く、まるで星の光を凝縮したような透明感がある。
液晶画面が青白く点灯する。その画面の解像度は地球の最新技術を遥かに凌駕していた。画素が見えないほど滑らかで、まるで実際の窓から向こう側を覗いているような立体感がある。
そして、無機質なメッセージが表示される。
『起動中……システムチェック完了』
『洗脳対象のDNA情報を入れてください』
懐かしい響きだった。七年前以来だ。
あの時は小学生だった俺が、まさし君の脅迫から逃れるために使った。
今度は二度目。
俺は機械の左側にある小さな挿入口を見つめた。直径1センチほどの円形の穴。ここに洗脳対象のDNA情報を入れる。
穴の内部には、微細な機械装置が見える。髪の毛よりも細い針状の突起が無数に並んでいた。宇宙人の技術の精密さが窺える。
地球の科学技術では、DNA解析には数時間から数日を要する。対してこの宇宙人の機械は、瞬時にDNA情報を解析し、さらにその人物の詳細な生体情報まで抽出できる。
資料室で彼女の髪を掴んだ時、数本の髪の毛が俺の爪に絡みついていた。金髪の艶やかな髪。いつも憧れていた、天使のような美しい髪。
その髪を、機械の挿入口に入れる。
金色の髪の毛が、まるで生きているかのように機械の中に吸い込まれていく。挿入口の奥で青い光が明滅し、何らかの分析が行われているようだった。
『対象を認識中……DNA解析中……』
メッセージが流れる。画面には複雑な遺伝子情報らしきデータが高速でスクロールしている。処理速度は人間の理解を超えている。
少し心配になって画面を見つめていると——
『対象を認識しました』
『草乃月麗良(17歳・女性・血液型A型)の情報を取得しました』
無機質なメッセージ音が流れた。
よし、うまくいった。
思わず小さくガッツポーズを出す。
麗良の詳細な個人情報まで表示されている。身長157cm、体重45kg、視力右1.5左1.2——まるで健康診断の結果のような詳細さだ。髪の毛一本から、これだけの情報を抽出できるとは。
そして、洗脳機械から続きのメッセージが表示される。
『洗脳する内容をインプットしてください』
液晶画面の上に、ホログラム式のキーボードが空中に浮かび上がった。
青白く光る半透明のキーボード。指で触れると、実際にキーを押した感覚がある。軽いクリック感と、微細な振動。まるで本物のキーボードを操作しているような錯覚を覚える。
この技術は地球にはない。宇宙人の技術は、人間の感覚器官そのものに働きかけているのかもしれない。
洗脳内容……何をインプットするか。
偉人の記憶は性格があまりにも変わってしまう。それは「まさし君」の件で確認済みだ。元の人格が完全に消し去られてしまう危険性がある。
麗良にはある程度今の性格を維持してもらいたい。あまりにも別人になってしまっては、周囲が気づいてしまうかもしれない。
そのためにも、うってつけのものがある。
俺が執筆中の小説『ヴュルテンゲルツ王国物語』だ。
本小説に登場するキャラクター、レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの情報をインプットすればよい。
何せレイラは、麗良の性格をもとに作ったキャラクターだ。外見も内面も、すべて麗良をモデルにしている。
レイラの設定を思い出してみる。
美しく聡明で、民衆想いの王女。しかし世間知らずで、人を疑うことを知らない純粋な心の持ち主。そのため、悪人の甘い言葉に騙されやすいという弱点がある。
まさに麗良そのものだった。
レイラが統治するヴュルテンゲルツ王国は、中世ヨーロッパ風の架空の国家だ。だが、その王国は常に危機にさらされている。東には強大な帝国が控え、国内には腐敗した貴族たちが陰謀を巡らせている。
特に問題となるのが、シモン・ゴールド・エスカリオンという大公だ。これは紫門をモデルにしたキャラクターで、表面上は品行方正な貴公子を装いながら、裏では王国を私物化しようと企む悪役として設定した。
一方、主人公のショウ・ホワイストは、平民出身の騎士だ。孤児院で育ち、努力と才能によって王宮に仕える機会を得た。持ち前の正義感と誠実さで周囲の信頼を獲得し、やがてレイラ王女の専属騎士に抜擢される。
ショウの設定には、俺自身の体験と願望を大きく反映させた。現実の俺は、いじめられても反抗することすらできない弱い存在だ。しかし、ショウは違う。困難に立ち向かい、仲間を守り、正義を貫く強い意志を持っている。
ショウとレイラの関係は、俺と麗良の関係性を理想化したものだった。
最初は主従関係として始まった二人の関係だが、数々の困難を共に乗り越える中で、深い信頼関係を築いていく。
物語の中で印象的なエピソードがいくつかある。
「テンメリの大飢饉」では、王国を襲った大規模な干ばつの中、ショウは不眠不休で救済活動に取り組む。一方、シモンは食糧を買い占めて私腹を肥やしていた。
「南蛮の大乱」では、異民族の反乱に対してショウが見事な外交手腕と軍事的才能を発揮する。しかし、シモンが推薦した将軍は保身ばかり考えて作戦を放棄し、多くの兵士を見殺しにした。
そして、物語のクライマックスとなる「ミナトガワの撤退戦」。帝国軍の大侵攻により、王都が陥落の危機に瀕した時、ショウは数百の騎兵を率いて七万の敵軍に突撃を敢行する。最終的にショウは敵の罠にかかって崖から転落し、生死不明となる。レイラにとっては、最愛の人を失った絶望的な瞬間だった。
『ショウがいてくれれば、どんな困難も乗り越えられる。彼の判断に間違いはない。この王国で、私が心から信頼できるのはショウだけ』
このセリフを書いた時、俺は心の底から「麗良にも同じことを言ってもらいたい」と思った。
レイラの記憶をインストールすれば、ショウこと俺への信頼度は必然的に爆上がりするはずだ。
思えば小説を書き始めた時、無意識にこれを望んでいたのかもしれない。
麗良に振り向いてもらいたくて、彼女をモデルにした理想的な女性キャラクターを作り上げた。そして、そのキャラクターに俺への絶対的な信頼を設定した。
今それが現実になる。
空中に浮かんだキーボードを使い、慎重に文字を入力していく。
「小説『ヴュルテンゲルツ王国物語』に登場するキャラクター、レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの記憶および人格情報」
間を置かずして、メッセージが流れる。
『承認しました。次にヴュルテンゲルツ王国物語に関する詳細情報をインプットしてください』
急いでパソコンを起動した。
『ヴュルテンゲルツ王国物語』の原稿ファイルを開く。百万字を超える大作。三ヶ月間、毎日のように書き続けた俺の魂の結晶だ。
原稿をUSBにコピーし、そのUSBを洗脳機械の別のポートに挿入する。
『データ認識中……』
メッセージが流れ、画面には物語の内容が高速でスクロールされていく。俺が書いた文章が、宇宙人の技術によって解析されている。
『小説「ヴュルテンゲルツ王国物語」の情報のインプットが完了しました』
『対象キャラクター「レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツ」の人格データを抽出しました』
これで大体はオーケーだ。
『洗脳するデータ量を設定してください』
今度は空中につまみのようなホログラムが現れる。元の記憶と洗脳する記憶の比率を調整するためのものだった。
つまみは円形で、中央に青い光の点が浮かんでいる。左端が0%(洗脳記憶なし)、右端が100%(完全洗脳)。
これは慎重に決めなければならない。
麗良には、今まで生きてきた17年間の人生がある。家族との思い出、友達との時間、学校での経験——すべてが彼女を形作っている。
完全洗脳(100%)にした場合、麗良の人格は完全にレイラに置き換わる。これは確実な効果が期待できるが、リスクも最大だ。周囲の人間が変化に気づく可能性が高い。
逆に洗脳比率を低く設定すれば、元の人格への影響は最小限に抑えられるが、期待する効果も限定的になる。
俺はつまみを慎重に5割の位置に固定した。
半分は麗良本来の記憶、半分はレイラの記憶。これなら麗良の人格を完全に破壊することなく、必要な変化を与えられるだろう。
レイラの記憶で重要な部分——幼少時からショウとの絆が育まれる過程——は絶対に必要だ。
5割で小説でいうドルアガギール攻略までの記憶というところか。この記憶があれば、麗良はショウ(俺)への信頼を取り戻すはずだ。
でも、どうせなら……。
つまみを少し右に動かした。6割の位置。
この記憶量なら、帝国とのヴェルガーナ撤退戦でショウが壮絶な戦死を遂げるまで含まれる。
つまり、洗脳後の麗良は、ショウ(俺)を一度失った大切な人として認識することになる。
これなら架空の記憶とはいえ、劇的な再会が期待できる。
しかし、60%という数字は、麗良の人格の6割がレイラに置き換わることを意味する。元の麗良の記憶は40%しか残らない。
一瞬、つまみを戻そうかと迷った。
だが——現実を思い出す。
紫門の脅迫。
麗良の慰謝料請求。
家族の将来への不安。
俺には、もう後がない。
『設定を確認します』
『対象:草乃月麗良』
『洗脳内容:レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツの記憶(0歳~16歳まで)』
『記憶比率:洗脳記憶60%、元記憶40%』
『効果時間:永続』
『これでよろしいですか? インストールを開始します』
最終確認のメッセージが表示される。
赤い文字で「警告:この設定は対象に永続的な変化をもたらします。実行後の取り消しはできません」と表示されている。
これは、間違いなく「殺人」に等しい行為だ。肉体は生きていても、元の麗良の人格の大部分は死ぬことになる。
でも——
あとは、空中に映し出されたキーボードのEnterキーを押すだけだ。これで洗脳が完了する。
最終確認だ。
迷いはない。
草乃月財閥と小金沢グループ——天下の両財閥に敵認定されたのだ。禁断の手を使うしかない。
人生がかかっている。家族の将来もかかっている。
やる!
決意を込めて、Enterキーを強く押した。
『対象へのインストールを開始中……』
画面に進行状況を示すバーが表示される。
10%……20%……30%……
ここまで来てしまった。もう後戻りはできない。
バーが進むにつれて、機械の振動が強くなっていく。最初は微細な振動だったが、今では机全体が小刻みに震えている。
50%……60%……70%……
今頃、麗良の脳に新しい記憶がインストールされているのだろう。レイラ王女としての16年間の人生が、麗良の記憶として刻み込まれている。
テンメリの大飢饉での苦労、南蛮の大乱での心配、ミナトガワの撤退戦での絶望——すべてがリアルな体験として麗良の心に刻まれる。そして何より、ショウ・ホワイストへの絶対的な信頼と愛情が。
現実の俺は何の取り柄もない平凡な高校生だ。成績も並以下、運動神経も悪く、容姿も冴えない。家柄も普通の中流家庭で、特別な才能があるわけでもない。
だが、レイラの記憶の中では、ショウは完璧な男だ。王国一の智将にして勇将、民を愛し正義を貫く理想的な騎士。どんな困難も乗り越える不屈の精神力と、レイラを守り抜く絶対的な忠誠心を持つ。
これで麗良も、俺をそういう男として見てくれるようになる。
80%……90%……100%
進行バーが完了に近づくにつれ、俺の心の中にも様々な感情が渦巻いていた。
罪悪感——麗良の人格の6割を消去するという、取り返しのつかない行為への後悔。
期待感——ついに麗良が俺を認めてくれるという、長年の願望の実現への喜び。
恐怖感——この後どうなるのか、計画通りにいくのかという不安。
草乃月財閥。日本経済界の頂点に君臨する巨大企業グループ。その令嬢である麗良が本気になれば、俺のような一般庶民など簡単に潰せる。慰謝料訴訟なんて序の口で、俺の家族全員の社会的生命を絶つことも可能だ。
それに加えて、小金沢グループからの攻撃も続いている。紫門の「卒業しても続く」という脅しは決して空虚なものではない。小金沢グループの影響力は全国規模だ。どこの大学に進学しようが、どこに就職しようが、紫門の復讐から逃れることはできない。
そんな地獄のような人生を歩むくらいなら——
この禁断の力を使って現実を変える道を選んだ。
『対象へのインストールを完了しました』
ついに完了した。
はあ、はあ、やってやったぜ。
椅子にもたれかかり、深く息をついた。
これで俺の言葉も麗良の耳に届くだろう。紫門への好感度も極限まで下がったはずだ。
麗良の記憶の中では、紫門は「シモン・ゴールド・エスカリオン」——王国を裏切る悪逆貴族として刻まれている。絶対に信用してはいけない相手として。
レイラの記憶によれば、シモンは表面上は品行方正な貴公子を装いながら、裏では民を苦しめる悪徳貴族だった。飢饉の時には食糧を買い占めて私腹を肥やし、戦争の時には部下を見捨てて真っ先に逃げ出す卑怯者だった。
一方、俺は「ショウ・ホワイスト」——レイラが最も信頼する忠義の騎士として記憶されている。
これで麗良の敵認定は解除され、逆に俺の最大の味方になるはずだ。
そして、紫門に鉄槌を与えることができる。
洗脳機械の電源を切り、再び四重のラップで包んで押入れの奥に隠した。
証拠隠滅だ。
この機械の存在を知っているのは俺だけ。七年前も完璧に証拠隠滅したし、今回も大丈夫なはずだ。
明日麗良がどんな反応を見せるのか。俺をどんな目で見るのか。
長い間待ち望んでいた瞬間が、ついにやってくる。