『往時渺茫としてすべて夢に似たり』
少し開いたカーテンの隙間から、微かに太陽の光が差し込み始める。少しずつ露わになる部屋に丁寧に並べられた数々の書籍が、部屋の主の几帳面な性格を表している。
徐々に明るくなる部屋に呼応するように、意識が覚醒していく。
少し寝過ぎたな、と中村雅は思った。
誰もいない家の静寂の中、気だるそうに歩く雅の足音だけが響く。雅の部屋とは対照的に、他の部屋には本や紙が乱雑に積まれ、まるで人が住んでいないかとような有様である。顔を洗い終えた雅は、それらの部屋を横目にリビングに向かい、トーストにジャムを塗っただけという簡素な食事を始める。何となく点けたテレビからは、病院でデータの改竄が発覚しただとか、有名政治家が不倫をして責任問題になっただとかいうニュースが流れていたが、雅は半分上の空で聞きながらトーストを齧る。
朝食を終えテレビを消し、高校に行く支度を始める。寝坊に慣れているかのように──否、実際そうなのであろう──手際良く支度を終え、制服に着替え終わる。
雅は学校指定の鞄を持ち、外に出る。ガチャリと鍵を閉める音がして、また静寂が戻った。
バスを降り、学校に着いた雅を出迎えたのは──自転車の突進であった。
「中村、危なーい!!」
「はあ!?」
突然真横から突っ込んで来た自転車を避け、植え込みに突っ込む寸前で止まった自転車に向き直った。
「よう中村、こんな時間に登校してくるなんて珍しいな。寝坊か?」
自分の事を高い棚の上に見事に放り上げて笑ったのは、雅の友人、遊馬遊斗である。
「珍しくはないだろ、俺はいつもこんな時間だ。てか、まだホームルームまでは時間あるだろ。そんで、お前危ねえ」
とりあえず言いたい事をまとめて同時に言った雅の後ろから、さらに声がした。
「おー、雅と遊斗。…お前ら、何やってんの?」
雅が振り返ると、同じく雅の友人、島村拓也が立っていた。
「まだ時間あるけど、いつまでもグダグダやってると遅刻になるぞ。行こうぜ」
もっともな事を言われ、残る二人は促されるようにして歩き始めた。
「お前らもいい加減名前で呼び合えよ。両方名前で呼んでるの俺だけじゃん」
階段を登る途中で、拓也が口を開いた。
「だって俺、雅って気取った名前呼ぶの嫌なんだもんよー」
「俺が付けた訳じゃないだろ。それに、姓から名まで浮つきまくったお前の名前呼ぶ方が嫌だわ」
「だったら苗字呼んでも名前呼んでも変わんなくね?どうせどっちにしても『遊』って漢字入ってんだからさ」
「気分の問題」
いつも通りの下らないやり取りを交わすうちに、拓也の教室に着いた。
「二人とも奥の教室だろ。じゃあ、俺はここで」
「あ、ちょっと待て」
教室に入ろうとした拓也を、遊斗が呼び止めた。
「今日放課後講義休みだろ。授業終わったらどっか寄ってかねえ?」
「あー、いいね。今日英語の小野田Tがいないんだっけ」
「そうそう」
遊斗の提案に拓也は乗り気だったが、
「悪い、俺今日病院に用事があるから」
雅はそれを申し訳なさそうに断った。
「ああ、野田さん…だっけ?じゃあ仕方ないな」
「行って来いよ。俺らは二人で行くから」
「おい」
事情を知っている二人は快く受け入れ、三人はその場で別れた。
中村雅は、医者であり脳医学者である父を持つ、二人兄弟の弟である。埼玉県内の大きい病院に勤める父・誠に加え、7歳離れた兄・賢悟も現在は県内の医大の大学院に通っているという、まさに医者一家であった。経済的にも余裕があったため、幼い頃から雅は不自由なく育てられた。しかし、雅が10歳だった頃、母・縁が病気で亡くなってから、一気に歯車が狂った。誠は医者の自分がいながらどうして死なせてしまったのかと嘆き、家を出て何かに没頭するかのように病院に籠った。しばらくして、賢悟も進学を機に家を出たため、広い家には雅一人だけが取り残された。
残った良心の表れなのか、誠から生活に必要な費用を送られてきてはいたものの、多感な時期にたった一人で暮らした雅の心持ちは決して明るいものではなかった。本格的に落ち込まなかったのは、時折家を訪れる賢悟や、中学校からの付き合いである遊斗や拓也の存在があったからであろうが、それでも雅が誠に不信感を抱くのには十分すぎる環境だった。そこで雅は、誠が家を出てから直接会う事こそなかったものの、誠と同じ病院に勤め誠との親交も深い野田行宏という脳医学者と連絡を取り合い、誠の様子を定期的に聞いていた。
「ストーカーかよ、俺は」
家族間ストーカーと思えば確かにゾッとする話ではある。実際、コンプレックスの塊のような自分に雅自身嫌気は差していた。だが、数年かけて身に付いた諦念は中々抜けるものではなく、雅を野田のもとへと向かわせた。
7限の授業が終わると、雅は病院に向かうためバスに乗り込んだ。最寄りの大宮駅までバスで行き、そこから電車で浦和駅に行き、駅からバスで15分程の所に、誠と野田のいる病院はある。面倒だとは思いつつ、順調に乗り継いで浦和駅に降りた。
空いているバスの車内に乗り込み、座席に座って発車を待つ。すると車内に、雅の見覚えのある女子高生が入ってきた。
「あれ中村くん?何でこんなとこに?」
いきなり声をかけられた雅は、驚きと緊張で声が硬直した。
「か……川野?」
川野と呼ばれた女子高生──川野奏海は、えへっと笑いながら、何の躊躇もなく雅の隣に座った。まさか横に座ってくるとまでは思っていなかった雅は、子猫のように狼狽した。先程までの落ち着きが嘘のように慌て、落ち着けと自分に言い聞かせる。無理もない。誰だって5年間も恋をしている相手に突然遭遇したら落ち着いてなどいられないだろう。
「川野こそ。わざわざ浦和までどうしたの?」
彼女と話す時には優しい口調に変わる自分に違和感を覚えながら雅は言った。そもそも二人は中高と同じ学校に通っているため、お互いの家が浦和ではない事を分かっているのである。
「もう、私が聞いてるのにー。私はちょっと病院に行かなきゃいけなくて」
「お、俺も病院だ。奇遇だね」
行き先が同じである事にお互いに驚いているうちに、バスは発車していた。
まだ秋ながら、チェック柄のマフラーを巻き、冬用の制服に身を包んだ寒がりな奏海の肩が、バスが揺れる度に雅の肩に当たる。雅は目を合わせづらく、窓の外を通り過ぎる店の看板や、遠くに既に沈み始めている太陽をぼんやりと眺めていたが、せっかく二人で一緒に座っていられるのに黙っているのは勿体ないと思い直し、口を開いた。
「川野は何で浦和の病院に?大宮とかじゃダメなの?」
「うーん、私小さい頃は浦和に住んでてね。その頃からお世話になってるお医者さんがいるから、なるべくこっちに来るようにしてるんだー」
という事は小さい頃から何か病気を患っているのだろうか、と雅は思った。
「中村くんは?」
奏海も同じように聞き返す。
「俺は病院の人と会う用事があってさ。知り合いの人がいて」
「ふーん」
自然に話そうとすればするほど不自然になりそうで、雅は続く言葉を紡ぐのに苦労する。そのうちに奏海の携帯電話に誰かからメッセージが届いたらしく、二人の間には沈黙が訪れた。
俺はチキンだな。雅は心の底からそう思った。
「じゃ、またねー」
「おう」
奏海はドキッとする笑顔を向け、病院のロビーで雅と別れた。未だに残る紅潮の余韻を抑えつつ、雅は野田との約束通り「待合室2」という場所に向かった。そこには幾人かの患者に加え、白衣を着て立っている長身の男がいた。男は雅に気付き、雅が声をかけようとすると、口に手を当てて手招きした。無言で歩き出したその男の後に雅が付いていくと、「準備室」と書かれた部屋に入れられた。
「やあ、雅君久しぶり。会ったのは夏以来かな?」
男が電気を点けると、その部屋にはパソコンにデスク、大量の資料に加え、雅には皆目見当も付かない機材や道具が並んでいるのが見え、準備室というよりは研究室のように見えた。
「野田さんお久しぶりです。そうですね、夏休み以来かと」
「いや、すまないねえ。本来なら学校が休みの日に会いたかったんだけど、僕の都合が合わなくてねえ」
やや長めの黒髪の上から頭をポリポリと掻きながら、その男、野田行宏は言った。
雅がもう一度部屋を見渡すと、研究室と考えれば特別不思議なものは置いていなかったが、棚に並ぶ本や資料の題名に目が止まった。雅は野田が脳医学を研究している事は知っていたが、それにしても──。と、思う。
「ところで」
雅が言葉を発そうとした時、野田の口が開いた。
「いつも僕と会う時は打ち解けた感じなのに、今日は最初から何だか顔が緊張してるねえ。好きな子とお話しでもしてたのかい?」
「え?」
自分はそんなに顔に出やすいのか、と雅は内心思い、頰をつまんで顔を柔らかくしてみようとしてみた。確かに何だか硬い気がする。
しかし、それを見ていた野田は少し驚いた表情をしていた。
「完全に冗談のつもりだったんだけどねえ。悪い事をした」
雅は野田の人柄は好きだが、こういう野田のペースに乗せられるのは苦手であった。若干気まずい雰囲気が流れたので、雅は先程気になった事を聞いてみる事にした。
「野田さん、棚にある資料なんですが」
「ああ、気になるかい?そういえば会う時は基本外だったから、この部屋は初めてか」
野田は雅の質問の途中で話し始めた。
「説明する必要はないと思って話しては来なかったが、僕と誠は"夢"について研究してるんだ。簡単に言えば、夢を見ている時の脳の状態や意識について調べている」
雅が違和感を覚えた棚には、脳科学、それも夢についての研究資料ばかりが並んでいたのだ。
「でもそれって、わざわざ病院で研究する必要はあるんですか?学者として活動した方が楽だと思うんですが…」
「勿論そうなんだけどねえ。色々理由があってね。まず、学者って食えない仕事なんだよ。病院で医者として働きながら研究をしていた方が何かと便利でね。施設や道具も整っているし。もっとも──」
野田は意味ありげに言葉を切った。そして、
「誠の場合は、別にも理由があるだろうけどね」
と、普段は見せない、どこか冷たいようで、どこか寂しそうな表情をした。
白衣を着ているせいもあってか、野田さんらしくないな、と雅は思った。以前野田が雅の家に来た時など、勝手に雅の部屋を漁った挙句、雅に向かって心底残念そうな顔で、「…雅君、君の部屋にはエロ本の一冊も置いていないのかい?」などと抜かしたような、軽いノリの男なのである。そんな様子からは想像できない、暗く冷たい表情に、背筋が凍るような感覚を少し覚えた。
「いや、すまない。深い意味がある訳じゃない。変な雰囲気にしてすまなかったねえ。じゃあそろそろ、いつも通り誠の近況と、雅君の生活費の振り込みについての報告といこうか」
雅は釈然としなかったが、聞き返しても仕方ないので、普段通り話していることを話し始めた。
その話自体はスムーズに終わり、野田も勤務中とあって、病院に長居する事はなく、部屋から出る事になった。
「じゃあ雅君、また会おうか」
「はい、いつもお世話になってます。またよろしくお願いします」
雅は来た時の順路を遡り、病院を出る方向に歩き出した。
一方で、部屋に一人立つ野田は部屋のどこともない場所に目を向け、口を開いた。
「往時渺茫としてすべて夢に似たり───」
「過ぎ去った過去を追う事も、夢の世界を追う事と何ら変わらない。君や、彼はどんな夢を見せてくれるんだろうね?」
誰かに向けて言ったような独り言は、おそらく雅には届いていなかったであろう。宛先もなくただ空虚の部屋を、その言葉は彷徨い続けていた。




