SCIENTIA FLORENS: III
「秋の部屋」に隣合う「冬の部屋」は独特な構造になっている。
部屋の中央を通る薄い壁によって二層に分かれ、それぞれ異なる気温を保っているのだ。
冬に咲くにもかかわらず、寒さに弱い花は少なくない。手間がかかるがやむを得ないのだろう。
とはいえ、そもそも花の絶対数自体は、ほかの部屋と比べてだいぶ少ないのであるが。
「寒さを覚えさせるのが主な役割ですからね。とはいえこちらには……」
アントニウスが案内した先には、鮮やかな桃色の花が咲いていた。
その見た目ではなく香りによって、フラウィアはその正体を理解する。
「匂い桜だね。これまた値の張るものを……」
匂い桜の原産地は東方の『王国』よりもさらに奥地であるとされ、入手の難しさから相当の値段がついているはずだった。その芳香が価格に見合ったものであることは、皇女の表情から推察することができる。
それもまた表に記載されている植物であったが、さしあたりゼノビアが手掛けているのはそちらではなく、部屋の隅に咲いている白と黄色の小さな花である。これはそれほど珍しくないし、ゼノビアも知っている花だ。
彼女が筆を走らせていると、不意に白く細い腕が視界を横切った。指で花びらをごく優しく撫でながら、フラウィアはゼノビアに問いかける。
「これは寒芍薬かな」
「合ってるぜ。匂えば分かるんじゃないのか」
「あまりこの香りが好きではなくてね」
寒芍薬の香りはお世辞にも良いものではなく、その青臭さを嫌う者は多い。もっともその香りには秘められた力があるのだが。
「寒芍薬は医学的にも重要な植物なのだけれど、これを話したことは無かった気がするな。聞きたいかい。聞きたいだろう。聞きたそうな顔をしているのではないかね」
「してない。聞きたくない」
ゼノビアが無下に断るとフラウィアは小さく呻いたが、罪悪感に駆られることもない。
主人の長話に付き合うとどうなるか、ゼノビアはごく最近思い知ったばかりなのである。
一方、アントニウスはそれを知らなかった。
「ぜひともお聞かせ願いたいですな」
彼はそう言って、ふくよかな顔に上機嫌な笑みを浮かべた。彼にとって、花について共に語りえる人というのはそれほど多くは無いのだろう。それも首都の知識人である。この機会を逃す理由はなかった。
一方フラウィアは微苦笑を浮かべる。彼女は自身が専門家であるとは思っていない。言ってしまえば編纂家を自任しているのであり、アントニウスの如き専門家の知識に付け加えるところがあるのかと言えば、そこまで自信はなかった。
そうとは言っても、やはり彼女は話好きなのである。
「君に花の解説など医者に薬の説明をするようなものだが、断るわけにもいかないな。間違っているところがあれば訂正してくれ」という言葉、そして咳払い一つを前置きにして、彼女は小さな口を開いた。
「寒芍薬の重要な品種は二つある。すなわち黒と白の寒芍薬だ。これらは花びらの色ではなく根によって区別される。知っての通り、前者はとりわけ毒性が強く、動物たちも決して口をつけようとしないほどだ。首都で行った実験では豚、牛、兎といった動物は、みごとに黒の寒芍薬を避けて白い方だけを食べた。ただし人間に対する吐瀉剤としては白のほうがずっと効果があるけれどね。この爽快な効果ゆえに、一部の人々が過剰に摂取してしまうこともあったため、かつてはその使用を禁止する法律が存在していたのだが、今では解禁され再び人類の役に立っている。さて、医学的により重要なのは黒寒芍薬だ。花だけではなく葉や茎、根も有毒で、場合によっては死に至ることもある。ただ、香るだけであったり適度に摂取すれば逆に便利な薬効をもち、痛風や水腫、麻痺、炎症、そしてとりわけ神聖病を和らげる働きがあることは、だれでも知っての通りだね。これを初めて書き記したのはエウシステネスだが、薬効を発見した経緯を彼は次のように語っている……」
堰を切ったように語り始めたフラウィアに、一瞬アントニウスは目を丸くした。自業自得であるとはいえかわいそうにとゼノビアは同情しかける。
しかしよくよく見ていると、驚いたのも最初だけで、彼はすぐにその語りに馴染んでいったようだった。
フラウィアの話に相槌をいれつつ、時折訂正や意見を差しはさむ。それをきっかけに会話は一層盛り上がり、フラウィアはもはや喜色満面だ。
首都で学者を招き談義することを好んだフラウィアだったが、思い返せば最近はそうした機会がなかった。旅の準備などで忙しかったからである。それだけいっそう、こうした会話が楽しいのだろう。
「首都では不名誉な目的にも用いられていると聞きますが」
「悪いことばかりではないのだよ。母体が危機的状態に陥った場合……いや、君の前で話すことでもないかもしれないな」
「いえ。これは学問上重要な事柄ですから。うちの奴隷が妊娠・出産する際にも役立つかもしれませぬから」
「なるほどそういう状況もあり得るね。その場合の適切な調合は……」
際どい話題であるにも関わらず、二人はさして気に留めた風でもない。しばしばこうした話題は会話者の名誉を損なうものだと認知されることもあるが、両者がそうした価値観を内面化していないのは、先にも確認したとおりであった。ゼノビアはこのような談義にはついていけない。
そこにはおそらく年齢も関係しているのだろう。重ねた経験、踏んだ場数がゼノビアとは違う。こうした会話もお手の物なのはなんら驚くには値しない。
年齢は別の形でも彼らの関係に影響を与えているのかもしれない。アントニウスからすればフラウィアは娘くらいにあたるはずだ。言ってみれば可愛いらしく勉強熱心な娘に付き合ってやっている、そういう感じもあるのだろう。子供のいないアントニウスならなおさらだ。
そういえば首都でもとある老教師もフラウィアにたいへん好意的であった。それは彼女の身分に対するものでも、あるいは下種な情欲からのものでもなく、それこそ孫娘に対する愛情の如きものだったのかもしれない。
こいつが悪人だったとしたらすごく嫌だな、とゼノビアは思う。彼女は本質的に単純、素朴であり、そして性善説の潜在的な信奉者でもあった。フラウィアが悪質な性格をしているから疑っているだけで、やはりくだんの事件とは無関係なのではないだろうか……。
このような思考を中断させたのは、「春の部屋」から入ってきた一人の奴隷であった。どこか慌てている様ではあったが、ゼノビアとしては如何ともしがたい。アントニウスはその奴隷に一瞥を向けるのみで、すぐにフラウィアとの会話に戻ったが、奴隷はちらちらと彼の様子をうかがっている。やがてアントニウスもその視線に気付き、一言断ってフラウィアから離れ、奴隷と三言ほど会話を交わした。あからさまに不愉快そうであった彼の機嫌は、その会話によっていっそう悪くなったように思われた。
それを察したのか、フラウィアはとてとてとアントニウスに近づいた。
「どうしたのかな。なにか不具合でもあったのだろうか」
「いえ、近隣の住民が相談に来まして……」
郷紳は地元の人々の意見を聞き、相談に乗ることで信頼を得る。その対価に彼らは敬意と労働力を提供する。場合によっては、そうした私的な結びつきは選挙にも大きく影響する。それゆえ地元住民との関係をないがしろにすることは許されない。
とはいえ彼らと皇女とでは比較にならない。むろん後者が優先だ。にもかかわらずアントニウスが逡巡しているとなると、それなりに重要な案件なのかもしれない……。
そうした事情を察したフラウィアは、背を伸ばしてアントニウスの肩を叩きながらほほ笑んだ。
「聞いてやりたまえ。先ほどはああいったがね、やはり付き合いは重んじなければならない。まったく、理想と現実との乖離は我々をいつも苦しめる」
「おっしゃる通りです。……大変申し訳ございませんが、ご講義はまた後程、晩餐の折にでもお聞かせくだされば。」
「私は苛烈だからね。秋桜を出してくれなければ懲罰をもって報いるぞ」
フラウィアの冗談に微笑で応じ、アントニウスは迎えに来た奴隷を伴って花屋敷を離れた。そのさなか、彼がセルウィウスに鍵を渡すのを、ゼノビアは見逃さなかった。
「フラウィア、ちょっと」
振り向いた主人の手のひらにすばやく文字を書く。フラウィアはしばし思考したのち、奴隷の手を取って恐るべき速度で大量の文字を書き並べた。意味不明である。悩んで「わかりやすく」と伝えたゼノビアに、主人はごくゆっくり、丁寧に書き直した。
ゼノビアは大きく丸を書いてそれに答えた。
× × ×
冬の部屋の花を模写し終え、フラウィア、ゼノビア、セルウィウスの三人は一巡して春の部屋に戻った。暖かな空気に汗腺が緩む。ゼノビアはすこし体の臭いが気になった。風呂はあまり好きではないが、今日はちょっとだけ楽しみだ。
さて、もうこの部屋の花も描き終えているから、これで花の記録は終了と相成った、はずなのであるが――
「せっかくだし内装も記録しておこう。まだ草紙はあるね」
という命令が下され、春の部屋を模写することになった。その間、フラウィアは暇そうにあたりをぶらつき、セルウィウスは警戒心のないまなざしでゼノビアを眺めている。
しばらくして不意に、フラウィアが部屋の隅からセルウィウスに声をかけた。彼は慌てて皇女のもとへと走り寄った。
「セルウィウス君、君に聞きたいことがある。ここ、普段はどうやって管理しているのかね。奴隷の君に聞いた方が分かりやすいかもしれないからね」
「ええとですね、基本的には毎朝に私共が水やりをします。それと夕方ですね。その後……」
「水やりは自動化されていないのか」
「あはは、まさか」
背を向けたセルウィウスの視界にはゼノビアの姿は無い。そう判断した瞬間、彼女は跳躍した。
壁の僅かな隙間に指をかけ、腕の筋力だけで体を持ち上げる。
天井が傾斜するあたり、そこに開いている空隙には、可動式の屋根が格納されているはずだ。
すばやくそれを覗き込む。かろうじて見える手がかりから、構造を予測する。機械仕掛けが収まっているのは壁の中央、その奥だ。
そこにゼノビアは、固まりかけの石膏の入った袋を投げ入れた。通常の石膏に複数の鉱物を配合したフラウィアお手製の石膏は、通常のそれよりも速やかに固まり、堅牢かつ耐熱性にも優れる。少し量が多かったかとも思うが、今更手遅れなので気にしない。
しかるのち、音も無く地上に降り立つ。
セルウィウスが振り向いた時には既に彼女は何食わぬ表情で画板を手にしていた。
既に絵は完成していたが、念のためしばらく猶予を置いてから、
「できたぜ。そっちはもういいのか」
とフラウィアに問いかける。彼女は首肯してゼノビアのもとへと歩みよった。
見守るセルウィウスにフラウィアは問う。
「私たちはもう戻るが、君はどうするのだね」
「わたくしには片づけがありますので……」
なるほどと頷いたフラウィアは、ちょうど何かを思い出したかのように手を叩き、
「これに聞いたんだが、ここの天井は可動式らしいね。ちょっとこいつにやらせてやっても構わないかな」
と質問する。彼女の好奇心をすでに承知していたのもあって、セルウィウスは、
「大丈夫ですよ。ただ、女性の力では難しいかもしれませんが」
と、特になんの疑いも持たずに答えた。ゼノビアはその言葉に反論するがごとく、得意げな笑みを浮かべる。
「ほう、実は筋力にはそれなりに自信があるんだがね」
「いいぞゼノビア、やってやれ」
力こぶを浮かべる女奴隷に微苦笑を浮かべつつ、セルウィウスは扉の近くにある輪を指さした。
それを回転させることで天井を封鎖するのであろう。ゼノビアは掛け声とともに、取っ手に体重をかける。
回らない。
「あっ、そっちは反対です」
「む、すまんすまん」
指摘を受けたゼノビアは謝罪しながら、腕を反対方向に動かす。
しかし、回らない。
「あ、あれ? 結構固いな」
「ゼノビア、力自慢はどうしたんだい」
どこからかぎしぎしと不快な音を立てつつ、しかし天井は動かない。正確に言えば少しだけ壁からはみ出したが、そこから進展しないのである。
予想通りと言わんばかりのセルウィウスは、見かねたのか手を貸そうと近づく。
「お手伝いしましょう」
「……悪い、頼むぜ」
ゼノビアが動かしてできた隙間にセルウィウスが入り込み、二人並んで取っ手をつかむ。
大人二名の筋力と体重が掛けられた金属の輪は、しかし依然として動かない。
「あ、本当に固いですね。もしかしてどっか引っかかったかな」
「もしかしたらさっき逆方向に回したからか……?」
「そうではないと思いますけど……。もうちょっと力をかけてみましょう」
二人は力いっぱい取っ手を引っ張った。しばらくそれを続けていると、二人の両腕は何かが少しずつ動きつつある気配を感じ取った。
ゼノビアはセルウィウスに笑いかける。
「いけそうだな」
「もうちょっとですかね、頑張りましょう」
互いに互いを励ましながら、セルウィウスとゼノビアが取っ手に全力を掛けた瞬間、ほとんど不意打ち気味に操作器は回転した。と同時に、勢い余って滑ったゼノビアの足がセルウィウスにぶつかり、両者は大理石の床に強かに体をぶつけた。セルウィウスはぐえっと叫んだ。
「悪い悪い。でもほら、ちゃんと閉まったぜ」
尻をさすりながら見上げれば、一方の壁から姿を現した木板は、しっかりともう一方の壁まで達している。
既に立ち上がっているゼノビアが逆方向に握り手を回すと、今度は壁に引っ込んでいく。
もはや二人がかりで回す必要もなく、彼女だけで十分に動かすことができた。
「ほーん、意外と軽いんだな」
「そうでないと大変ですからねえ。僕も詳しくありませんけど、よくできてますよね」
「雨が降ったらどうするんだ。水が溜まっちまう気がするが」
「溝が彫ってあってそこから外に出してるって聞きました」
額の汗をぬぐいつつ天井を眺め、彼女の質問に答えていると、不意にちょいちょいと服が引かれた。振り向いて視線を下げると、フラウィアが片手に何かを握り、それを差し出している。
「セルウィウス君、これ、落としたよ」
彼女が持っていたのは棒状の金属だった。それを見るやセルウィウスはぺこぺこ頭を下げ、うやうやしくそれを受け取った。
「すみませんすみません……。殿下にこのような真似をさせてしまい大変申し訳なく……」
「よくわからんが大事なものだろう、気を付けたまえよ」
「ありがとうございます……」
恐縮し続けるセルウィウスの背中に、ゼノビアは深い同情の視線を送った。
ともかく、これで花屋敷の見聞はすべて完了したはずである。
フラウィアとゼノビアはまだ仕事が残っているセルウィウスに感謝の言葉を送り、その場を後にした。
彼はしばらく二人を見送っていたが、やがて屋敷の中へと戻っていく。それを横目で確認したゼノビアは、フラウィアの耳元に囁いた。
「できたか」
目的語を欠いた問いに、フラウィアは首肯しつつ、長衣の腰のあたりを叩く。なにかが入っているかのように少しだけ膨らんでいた。
懐に隠している箱の中には、鍵の型を取った粘土が納められている。
セルウィウスが輪を回転させようと懸命になっているうちにかすめ取り、素早く型を取って、その後
あたかも彼が取り落したかのごとく装って、何食わぬ顔で返却したのである。
「これで試してみよう。どうやら『命令権』は使わずに済みそうだ」
フラウィアは安心したように息を吐いた。