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VNDE SPIRAT VENTVS VITAE: IV

 入浴を終えた二人は脱衣所に戻った。

 この屋敷には夫人は不在であるようだが、女性用の化粧設備もそれなりに整っている。あるいは賓客に配慮したのかもしれない。

 ゼノビアの次なる仕事は主人の髪の手入れと編み込みである。これが全く大変な作業なのだ。腰のあたりまで伸ばされた髪を複雑に束ね、折り曲げ、重ねて結んでいく。必然的に時間は大いにかかる。

 座って髪の世話を奴隷に委ねるフラウィアも、身動きがとれずにひどく退屈そうにしている。


「まだ終わらないのかい」

「もう少し我慢してくださいねー」

「それ誰かの真似?」

「首都で世話になった散髪の奴隷」

「女か。女だろうな」

「動くな馬鹿」


 無秩序な動きを始めたフラウィアを止めるため、ゼノビアは軽く髪を引っ張った。おとなしくなった主人の髪を、彼女は再び編んでいく。

 髪の手入れも本来であれば専門の奴隷が従事するが、旅するフラウィアの付き人であるゼノビアも通り一遍の作業を行うことができた。それもこれもフラウィアが、ゼノビア以外の人間に触れられることをひどく嫌がることを原因としている。

 皇女としては当然ではあるが、それでも度を過ぎているところがあった。


「いつも思っているんだが」


 髪の束を別の束に巻き付けながら、奴隷は主人に話しかけた。


「髪、重くないのか」

「慣れてるからね。それにあまり切りたくないんだ」

「面倒だからか。でも切った方が楽だぜ」

「私にはこれが必要なんだよ」


 ゼノビアはそれ以上口出ししなかった。今は亡きフラウィアの母親は、彼女とは異なる艶のある黒髪を典雅に結わえていた。それは現存する胸像からも伺えるし、ひととき市民たちの口端にものぼり、ひとつの流行を形成したとさえ言われている。そしてフラウィアの指定する髪型は、母のそれを模倣したものであるのだ。

 貞淑、勤勉、清楚、慈悲といった美徳を兼ね備え、帝国を束ねる者の配偶者としてだけでなく、一人の女性市民として高い名声を得ていた母親の姿にあやかろうとする打算が、狡猾なフラウィアの脳裏に存在するのは疑いない。彼女はそういうことをする人間である。

 それだけなのかは、ゼノビアにもわからない。


「よし、できたぞ」


 考えながらでも手は動く。気づけばフラウィアの長い髪は、編んだゼノビア本人でさえ惚れ惚れするほど綺麗にまとまっていた。

 フラウィアは形を崩さぬよう、軽く指で髪を撫でて確かめると、満足げに微笑んだ。


「どうだろう。いつもどおり私は可愛いかな?」

「すごいぜ。今の俺には機織りの神が宿っているようだ」

「私の髪は織物ではないのだが」


 織物と言えば衣である。晩餐用の衣服は用意済みだ。下着の上に長衣をまとい、その上に紫に染色された薄い外套を羽織る。夏であるから風通しの良い生地を使っているのは普段着と同様。胸のあたりにつけることが多い留め紐は、フラウィアには必要がなかった。

 自分の着付けを終えさせると、フラウィアはあっという間に着衣を済ませたゼノビアの下半身を撫でた。彼女は筒を二つ繋げたような、遊牧民のごとき履物を好んでいる。


「君、いつもこれだな」

「駄目か」

「別に良いのだけれど、東方の女は皆これを履いているのかい」

「いや、向こうでも俺だけだったよ」


 駄弁りながら浴場を出ると、通路の反対側に女性の奴隷が待機していた。案内役であろう。


「フラウィア様、晩餐の準備ができております。ご案内しますので、こちらに」

「私には見えないからこれに言ってくれたまえ」


 奴隷が卒倒しかけたのでゼノビアは即座に主人の尻をつねりあげ、無言で謝罪を強制する。皇女の謝罪――ひどく尊大ではあったが――を受けるという名誉に預かった奴隷は、びくびくしながらも二人を先導した。

 食堂に続く通路を歩いているさなか、フラウィアは不意にゼノビアの衣を摘んだ。ちょいちょいと耳を寄せるよう身振りで示すのでそれに従うと、主人はにやにやと囁いた。


「晩餐も花ということはないだろうね」


 恐るべき可能性にゼノビアは唸った。


「さすがに飽き飽きしてくるが、しかし……。いや、たしかにあり得るぜ、あれだけ花が好きとなると」

「むう、肉は出ないと覚悟した方が良いかもしれないね」

「焼き花って食えるのか」

「私も食べたことは無いな」


 彼女たちの心配は杞憂に終わった。晩餐は典型的と言って良いものだった。

 寝椅子に体をくつろげ、本土の上等な葡萄酒で乾杯し、ゆで卵に手を伸ばす。帝国では伝統的に卵料理をもって晩餐のはじまりとするが、その起源はよく分かっていない。

 前菜として出されたのは蒸した鮃である。付け合わせは人参、玉菜、葱、蕪で、魚醤と葡萄酒を煮詰めたものがかけられていた。その他別の皿には橄欖の実の塩漬けや乳酪といった小品が並んでいる。


「質素なもので大変恐縮です。何分花屋敷に金を使いすぎていまして……」


 平民からすれば贅沢な食事であっても、貴顕の者にはそうではない。皇族の人間ならなおさらであり、アントニウスの発言は本心からのものであった。だが、


「過度な奢侈を諫めなければならない私としては、むしろこの程度が丁度良いのだ。むしろポルキウス式でも構わないよ」


 と、フラウィアがくつろいだ様子で言うと、彼は安心したように丸みのある顔を緩めた。


「今からでも準備させましょうか」

「いやいや、君のところの奴隷を慌てさせるのも忍びない。ここはこのような贅沢に甘んじることにしよう」


 二人は揃って笑った。ちなみにポルキウスとはとある厳格な政治家の名前であり、転じてひどく質素な食事を指す。もっとも、実際の彼自身の食卓は同時代の基準からすれば手が込んでいたらしいのだが――などと、話に参加することのできないゼノビアは、フラウィアの足元に座して考えていた。その逸話をゼノビアに教えたのは、むろん彼女の主人である。 

 小物を摘み葡萄酒を喉に流し込みつつ、ごく和やかな会話を楽しんでいるうちに、卓上にはさらに料理が並べられていく。

 橄欖油のかけられた松葉独活(アスパラガス)

 炒めて胡椒と塩で味付けされた蝸牛。

 山鼠(ヤマネ)の肉団子。

 ひよこ豆の炒め煮。

 出さられるはじからフラウィアとアントニウスは少しづつそれらを奴隷に取らせ、口に運ぶ。量は当然少なくないが、多くもない。客人が一人であることを考えれば適切な量であった。過剰さは奢侈に繋がり、過少は吝嗇と解される。晩餐はさまざまな社会的文法によって記述されているのだ。

 そしてこの文学におけるゼノビアの役割は、主人のために食事を皿によそうことである。彼女も空腹であったが、そのような様子をおくびにも出さず、淡々とその仕事をこなしていく。


「食については本土とそれほど変わらないようだね。聞いていた通りだけれども。これらはこの辺りで育てているものなのかい?」


 二つ目の山鼠団子――彼女の好物の一つである――を呑み込んだフラウィアは尋ねた。水盆で洗った指を拭いながらアントニウスは、うなずきによって肯定し、


「気候もそう大きくは変わりありませんからね。もう少し北に向かえば話は別でしょうが。統治下に入った時期が早いのも関係しているのでしょう」


 と答えつつ、橄欖の実を一つつまむ。


「これも、この辺りでは本土や東方に負けない質のものが取れます。もっとも酒に関しては幾分劣ると言わざるを得ませんが……」

「うむ、それも今後の開発次第だろう。期待しているぞ」


 フラウィアは杯を傾けながら鷹揚に応じた。中身は本土の葡萄酒である。

 酒精が体に広がっていくにつれ、舌はいっそう滑らかになり、腹はさらなる食事を欲する。しかし食えば語れず、語れば食えぬ。これぞ哲学者どもも気づいていない重要な問題なのではあるまいか。

 かかるゼノビアの妄想を打ち払ったのは、卓上に乗せられた大きな銀盆であった。蓋が開けられた瞬間嗅覚を襲った肉と香草の香りに、ゼノビアの腹は切なげな悲鳴を上げた。


「鹿と猪か」


 フラウィアは嬉しそうに呟いた。彼女の嗅覚が誤ることはめったにない。主菜として出されたのは鹿と猪の香草焼きである。表面は香ばしく焼き上がり、たっぷり塗られた橄欖油や獣脂でてらてらと輝いて、見る者の食欲を誘ったはずである。現にゼノビアは小さく呻いた。皿のなかほどに集められた肉の周りには、茸や海老、貝などが取り囲み、さらにその外周を色とりどりの野菜が飾っている。


「まずは鹿肉が食べたいな。……ゼノビア?」


 ゼノビアの反応は平生よりもだいぶ遅れたが、彼女は辛うじて主の命に従い、取った肉をそのまま胃袋に収めるという欲望を抑えながら、なんとか新しい皿に鹿肉を並べた。

 さすがのフラウィアといえど苦笑いを浮かべざるを得なかったが、それを無視するほど非道でもなかった。幸運にもゼノビアの様子には気づかぬまま猪肉に舌鼓を打つアントニウスに、フラウィアは尋ねる。


「これも昼からあまり食べていない。すこしばかりくれてやってもよいだろうか」


 慌てて肉を呑み込んだアントニウスは、客人の奴隷に一瞥を向けると、にこやかに笑った。


「もちろん、お気になさらず。彼女が働いてくれなければ旅に差支えもありましょう」


 フラウィアは感謝の言葉を述べて奴隷に許可と皿を与えた。ゼノビアは恭しく礼をして皿に食事をよそった。肉だらけであったので自由民二人は笑った。ゼノビアは笑わず、粗野な感はあるが奇妙な気品を感じさせる手つきで、鹿肉を口に運んだ。


「君はどちらの出身かな」


 アントニウスの口調は、奴隷に対するものとしてはだいぶ柔らかなものであった。皇女の奴隷であるということが第一の理由だが、それと同じくらい、彼女の身振り口振りから、尊敬されるに値するもの特有の雰囲気を感じ取っていたのである。

 呑み込んで答えようとするゼノビアであったが、


「八年前の東方遠征で得たんだ。向こうの貴族……といってよいかな、それの娘だったそうだ」


 答えたのはフラウィアである。アントニウスは嘆息した。かの戦争の記憶はいまだ生々しく人心に残っている。


「なるほど。それにしてもあれは大事でしたね。私の甥も従軍し、そこで命を落としました」

「国家のために剣を振るい、自らの生命と引き換えに戦友の命を救った君の甥、クイントゥス君だったかな……、彼の名は私にも聞こえている。ただ、そう言っても慰みにはならないだろう。ただ冥福を祈らせてくれ」


 フラウィアは杯をうやうやしく天に掲げ、アントニウスもそれに倣った。ゼノビアはかろうじて表情を隠した――彼女にとって、帝国兵とは故国を滅ぼした仇敵である。いまだに怨恨の感情が消えうせたわけではない。

 杯を空にしたフラウィアは、酒精に火照ったかんばせを、どこか物憂げに曇らせた。


「あのお方はいまだに東方に固執しておられる。事情は誰よりも承知しているつもりだが……。君のような西部属州の人々には、多少は不満もあるのではないかね」


 フラウィアの問いにアントニウスは顔を強張らせた。それを見てフラウィアは自らの失言を自覚したかのように眉を下げる。


「いや、密告しようなどというわけではないから安心してくれたまえ。そういう風習は私好みではない。……ここだけの話、陛下も西部属州の治安を心配なさっているのだよ。蛮族が騒擾を起こすという噂が流れていてね」

「それはわたくしも聞いたことがあります。しかもその首領は元帝国兵だとか」

「どうも事実らしい。実は私はね、『世界誌』の作成だけでなく、『第五管区』の状況を報告する任を受けているのだ。だから君からも、知っていることがあれば教えてほしいのだ」

「ふうむ……」


 フラウィアの言葉はアントニウスにとって真実味を感じさせるものだった。皇女とあろうものが東方遠征を控えているこの時期に派遣されてくるとなれば、単なる学術目的だけではなく、政治的意図がその背後に存在していると考えた方がはるかにもっともらしい。


「といってもこのあたりは平穏そのものだね。まあ、本土に近いからあたりまえかもしれないが」

「少なくともマッサリアのあたりでは最近目立った動きはありませんなあ。ネマウサも同様です。ナルボなり、あるいは北の境まで行けばまた変わってくるやもしれませぬが」

「さすがにそれは総督に聞いた方がいいか。今はスルピキウス・ガルバだったかな。あまり話したことがない」

「やや気弱な印象を受けます。もっとも、総督としての経験が浅いがゆえのものでしょう……」


 二人が政治談議を始めると、ゼノビアはさも退屈そうな表情で、彼方に視線を泳がせた。しかし聴覚と意識はひそやかに、貴族二人の会話に絶え間なく向けられた。それが彼女の人生に関わる可能性など、ほんのわずかでしかないにも関わらず。

 自分が生涯を奴隷身分で終えるのか、あるいは解放されるのか、あるいは別の仕方で新しい身分を得るのか、彼女には未知数であった。もっともありえそうなのは第二の可能性であるが、しかし最後のそれが絶対不可能であるとは思っていない。それゆえゼノビアは、あらゆる事柄を己がものとしようと試みていた。 

 彼女のこうした逞しさは、彼女の生存をこれまで引き伸ばし続けた力であり、フラウィアが彼女を傍に置いて離さない理由のひとつでもあったのである。

 そうした主人の真意など、もちろんゼノビアの知ったことではなく、彼女は今もこうして、人目を気にしつつも、運びやすい料理をこっそりと懐に隠していくのであった。


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