第18話 待ち人
「立っていられたら、褒めてやる」
立っていられたら、かぁ。
三度目に空を見上げながら、アレンは昨日の言葉を思い返していた。どうやらあの老人に、立たせておく気など最初からないらしい。
「今の、まだ始まってませんでしたよね?」
「構えろと言った」
「構えてる途中でした」
「なら、相手に待ってくれと頼め」
木剣を拾って立ち上がる。村の裏手の空き地は、朝露がまだ乾ききっていなかった。踏み荒らした草の匂いが、転ぶたびに近くなる。
見回りを終えてから、もう半刻ほどこうしている。エルシーは少し離れたところで腕を組み、ルナはアレンが倒れるたびに半歩踏み出しては、また元の場所へ戻っていた。ミルは切り株の上で、退屈そうに尻尾を揺らしている。
「昨日、考えてこいと言ったな」
ガロが木剣を肩に担いだ。
「強くなって、何をするか」
「目の前で困っている人を助けたいです」
「そうか」
感心したふうでもなく、老人は顎で後ろを示した。
「なら、あの二人を守ってみろ。わしを一歩でも下がらせたら、お前の勝ちだ」
言われるまま、エルシーとルナがアレンの背後へ回る。
アレンは足を開き、腰を落とした。今度は倒れない。
来た。上からだ。
受けた瞬間、腕ごと沈んだ。昨日の猪よりも重い。膝が笑い、歯の奥が軋む。それでも踏みとどまり、押し返す。押し返せる。もう少しで――
ふっと、重さが消えた。
「あ」
前へ泳いだ足を、払われた。
背中から落ちる。そう思った直前、襟首をつかまれて止まった。
「四回目」
ガロはアレンを立たせると、その胸を指で突いた。
「助けたいと言うわりに、お前が見とるのはわしの剣ばかりだな」
「見ないと当たるじゃないですか」
「見ろ。だが、それだけになるなと言っとる。後ろはどうなった」
振り返る。
エルシーとルナは、いつの間にか空き地の端まで下がっていた。
「……二人とも、いつから?」
「アレンが押され始めたあたりから。あそこにいたら邪魔でしょう」
「すみません、私も避けたほうがいいかと思って……」
「謝らなくていいのよ。正解なんだから」
エルシーの言葉に、ガロが頷く。
「剣を押し返すのと、人を守るのは別のことだ。心の力を覚えたところで、その区別がつかん奴は同じしくじりをする」
アレンは木剣を握り直した。
「もう一回、お願いします」
「その前に、ほかの二人だ」
ガロが振り向くより早く、エルシーは手にしていた木剣を地面に置いていた。
「……私も転ばされるの?」
「転ばされたくないのか」
「できれば」
「わしもできれば転ばしたくない」
「全然安心できないんだけど」
ルナが小さく吹き出しかけて、ガロと目が合った。
「お前からだ。いつも使っとる魔法を見せろ。攻撃に使うやつだ」
◇◇◇
ルナは魔導書を開き、空き地の端に転がされた丸太へ向き直った。
短い詠唱。指先に灯った炎が、まっすぐ飛ぶ。丸太の表面に、手のひらほどの焦げ跡が残った。
「もう一度。今の倍の力で」
「はい」
今度は、詠唱にたっぷり時間をかけた。指先の熱が膨らみ、炎がひと回り大きくなる。
大きくなって――そこで、形がほどけた。
飛ぶはずの炎が、手元で火の粉になって散る。ルナは慌てて袖ではたいた。
「す、すみません」
「謝るな。できんところを見るために頼んだんだ」
ガロは丸太の焦げ跡を指でなぞった。
「力を込めると、形が保てなくなるか」
「……はい。時間をかければ、もう少しは大きくできます。でも、戦っているときは」
誰も待ってはくれない。
廃坑では、ヴァイスの力を借りなければ何もできなかった。昨日も、張った障壁をあっけなく破られた。覚えた術式は増えていくのに、それを扱う自分のほうが、いつまでも追いつかない。
「強い魔法を、使えるようになりたいです」
魔導書を胸に抱え直す。
「教えてもらったことを、ちゃんと使いこなせるくらいに」
「誰に教わった」
「父です。小さいころに、少しだけ」
「なら、今日はそのいちばん初めに戻る」
ルナが首を傾げると、ガロは彼女の指先を顎で示した。
「初めてできた魔法は何だ」
「……灯りをつける魔法です」
「それを使え。消さずに、そのまま話を聞いとれ」
ルナは息を整え、指先に意識を集めた。
小さな光が、ぽつりとともった。
◇◇◇
「心の力っていうのは、魔法を使わない人にもあるんでしょう?」
エルシーが尋ねたのは、四人で切り株に腰を下ろしてからだった。ルナの指先では、まだ灯りが揺れている。
「ある。だが、怒鳴ったり祈ったりすれば出てくるもんじゃない」
「強く思うだけじゃ駄目、ってこと?」
「思いが強くても、身体が逆のことをしとったら力は出ん」
ガロはルナを見た。
「お前、その灯りを大きくしたいか」
「はい」
「なら、なんで小さく押さえとる」
ルナは指先に目を落とした。
押さえているつもりはなかった。ただ、消してはいけないと思っていた。消さないために、いつの間にか、失敗しない大きさに縮めていた。
「まず、自分が何をしとるか知れ。それから、したいことに身体を寄せていく。心と身体が揃ったとき、ふだんは出せん力が出ることがある」
「それが、昨日の?」
アレンが口を挟んだ。
「あれは長年の稽古があってのことだ。心の力だけで剣の握り方まで上手くなると思うなよ」
「じゃあ、俺はとにかく剣を振ればいいんですか」
「振るたびに、自分が何をしようとしとったか考えろ。さっきのお前は途中から、わしに負けたくないだけになっとった」
言い返そうとして、アレンは口を閉じた。四回も転がされれば、一度くらいやり返したくもなる。
「私は?」
「お前は、まず自分の身を守るところからだ。足は速いか」
「アレンを追いかけるのには慣れてるわ」
「なら、逃げる稽古の相手には困らんな」
「俺を何だと思ってるんですか」
ガロが立ち上がると、切り株の上のミルも立ち上がった。
老人は足元を見下ろす。
「お前まで習う気か」
ミルはひとつ大きく伸びをして、また丸くなった。
「見学らしい」
「いちばん楽な役ね」
エルシーが笑った拍子に、ルナの灯りがふっと揺れた。慌てて指先を覗き込むルナへ、ガロが言う。
「笑い声くらいで消えるなら、笑いながら使う稽古もしておけ」
◇◇◇
翌朝、アレンは寝台から起き上がれなかった。
「……痛い」
「最後にもう一回、なんて頼むからでしょう」
「エルは平気なのか」
「平気よ」
言いながら靴へ手を伸ばしたエルシーが、腰を曲げたところでぴたりと止まった。
「……ちょっと待って」
「平気なんじゃなかったのか」
「靴が遠いだけ」
ルナが黙って二人の靴を拾い、足元へ揃えた。
「助かる」
「いえ」
「今朝は、誰にも鞄を持つって言われないので」
アレンは笑い、脇腹を押さえてうずくまった。
空いた寝台では、ミルがまだ温かいところを見つけて丸くなっている。
「お前はいいよな」
返事の代わりに、尻尾が一度だけ揺れた。
筋肉痛だろうと、見回りは休めない。
村の入口で待っていたガロは、三人の歩き方をひと目見るなり、声を出して笑った。
「今日は軽くしてやる」
「休みにはならないんですね」
「休みたいか」
「……いえ」
「なら、飯を食ったら来い」
それからの日々は、だいたい同じように過ぎた。午前は稽古。昼は治療所へ薬を届け、村人の話を聞いて回る。夕方の見回りを終えるころには、足が自然とガロの家へ向くようになっていた。
初めは稽古のことを尋ねるためだった。三日目には、エルシーが勝手に鍋の蓋を開けていた。
「これ、何人分?」
「見れば分かるだろう」
「分からないから聞いてるの。私たち、三人よ」
「若いんだから食うだろう」
鍋には、どう見ても六人分の芋が煮えている。
アレンが器を差し出した。
「食べます」
「お前は話が早くていい」
「アレンを基準にしないでくださいね」
ルナが言うと、ガロは黙って彼女の器にいちばん大きな芋を落とした。
「お前も食え。昼のパン、半分残しとっただろう」
「……見ていらしたんですか」
「向かいで残されたら、嫌でも目に入る」
エルシーが吹き出した。
「アレンと同じこと言ってる」
「俺、あんなに口うるさくないだろ」
「そうだったかしら」
食事のあと、アレンは椅子の脚がぐらつくのに気づいた。道具を借りて直そうとすると、ガロが隣へ腰を下ろし、頼んでもいないのに釘の打ち方から教えはじめた。
ケルの言っていたとおりの人だ、と思ったが、口には出さなかった。
ルナは洗い終えた器を拭いて、戸棚へ戻していた。
棚の奥に、湯飲みがひとつだけ伏せてある。昨日も、一昨日も、同じ場所にあった。誰かが使っているのを見たことはない。
「……奥様は、お料理をなさる方でしたか」
金槌の音が止んだ。
「わしより上手かった。量も間違えん」
ガロはそう言ってから、少し考えるように付け足した。
「ただ、よく鍋を焦がした」
「上手だったんじゃないの?」
「喋りだすと火のことを忘れるんだ。それで焦がすと、あんたが話しかけるからだと怒りよる」
「それ、ガロさんのせいではないですよね?」
「そう言って勝てるなら、苦労はせん」
アレンが笑った。
ルナは、会ったことのないその人を思い浮かべた。焦げた鍋を前に、この老人へ言い返している誰かを。
「賑やかな方だったんですね」
「ああ」
短く答えて、ガロはアレンの手から金槌を取り上げた。
「貸せ。そのまま打ったら板が割れる」
その晩、三人が帰るときには、食べきれなかった芋の煮物が布に包まれて持たされた。
◇◇◇
五日目。アレンは初めて、ガロを一歩下がらせた。
振り下ろされた木剣を受ける。重い。いつもならここで押し返して、外されて、転ぶ。
押し返さなかった。
受けた剣を斜めに傾け、相手の木剣を横へ流す。空いた側へ、一歩踏み込む。
ガロの踵が、土を擦った。
「今、下がりましたよね!」
「ああ、下がった」
ガロは木剣を下ろした。
「今の踏み込みはよかった。受けたあと、押し返さずに流したな。あれでいい」
勢いよく振り返ると、エルシーの頬まで緩んでいた。
「見てたわよ」
「昨日より、ずっと速かったです」
「もう一回できるかな」
「できるまでやるんだろう」
言われる前に、アレンはもう構え直していた。
エルシーはまだ一度も、ガロの手から逃げきれていない。
それでも、つかまれると思った瞬間に目をつぶることはなくなった。手首を取られても足を止めず、空いた腕でもがいて距離を取ろうとする。
ルナは、灯りをともしたまま短い会話ができるようになった。
ただ、大きくしようとすると、やはり消えた。
夕方の見回りを終えても、ルナは空き地に残った。
「……もう一度だけ、いいですか」
指先の光を広げる。
ふわりと明るくなる。なった、と思った。
その途端、光はちぎれるように消えた。
「また……」
「今日はそこまでだ」
「あと一度だけ」
「何度言わせる」
ガロは手を伸ばし、開いたままの魔導書を閉じさせた。
「あの二人ができたから、自分も今日中にできにゃならんと思っとるか」
ルナは答えられなかった。
「私は、ほんの少ししかできないので」
「少しなら、少しずつ増やせばいい。明日使う分まで、今夜ここで使い切ることはない」
「……はい」
うつむいたルナの足元に、ミルがやってきた。しゃがむと、膝に前脚をかけてくる。抱き上げた拍子に、ふさふさの尻尾が頬を撫でた。
「ミルさん、そこは、くすぐったいです……」
顔を背けて笑ったときには、ガロはもう背を向けて歩き出していた。
「明日も見てやる。今夜は寝ろ」
ルナはミルを抱いたまま、その背中へ深く頭を下げた。
◇◇◇
翌日の昼、ガロは村に来ていた治療師に呼び止められた。
「来週、巡回の神父様がいらっしゃるから。今度こそ膝を診てもらいなさいよ」
「余計なことを言わんでいい」
「また逃げる気?」
「逃げられる膝なら、診せるほどのことはない」
後ろでアレンが吹き出した。
「俺たちには無理するなって言うくせに」
「お前らは、わしより転ぶ」
その日もアレンは何度も転がされ、エルシーは一度だけガロの手をすり抜けた。ルナの灯りは、消える直前のほんの数呼吸だけ、いつもより明るく輝いた。
帰り道、いつものようにガロが三人を家へ誘うと、エルシーが首を横に振った。
「今日はこっちで作るわ。ガロさんがうちに来て」
「なんだ、急に」
「毎晩ご馳走になってるもの。ルナも手伝ってくれるし」
「俺もいるぞ」
「アレンは芋の皮むきね」
ガロは少し黙ってから、頷いた。
「一度家に寄ってから行く」
「冷める前に来てよ」
「お前らじゃあるまいし、寄り道などせん」
◇◇◇
夕暮れの道を、ひとりで歩く。
右の膝が、いつもより少し重かった。神父に診せる気は、やはり起きない。
家の前まで来て、ガロは足を止めた。
扉の前に、女がひとり立っていた。旅の外套を着て、胸に布包みを抱えている。
「ガロさんですね」
「何の用だ」
「お返しするものがあります」
差し出された包みを、ガロは受け取らなかった。開けるまでもなかった。
布の端に、小さな花の刺繍がある。
妻が縫ったものだ。針目の癖まで覚えている。
亡くなったとき、棺に一緒に入れたはずのものだった。
「……どこで、手に入れた」
女は一歩近づき、静かに言った。
「奥様が、お待ちです」




