8.養育院
【その頃ジョンたち】
大通りで馬車を下りたジョン、クロード、マリーは、養育院へ続く細道を歩いていた。平民が住む家々や、大衆的な魚屋に果物屋、花屋などが並ぶ。
足早に歩きながらも、クロードが興味深そうに辺りを見渡す。
「ルネがいなくなった緊急事態に不謹慎かもだけど、ボスポラスの市井の人たちの生活がこうやって見れる機会ができて良かったよ。バーントシェンナに帰ったら、ナワバリの街の視察を増やそうかな」
クロの言葉にマリーが目を丸くする。頭の上の白い猫耳がパタパタと落ち着きなく動くことから、相当驚いているようだ。
「クロードったら、黒い亀になって総合室のみなさんと過ごしてから本当に性格が変わったみたい。享楽的で即物的でだったあなたが、領地のことを考えるなんて……」
「マリー、それくらいでやめてやってくれ。クロ、大丈夫だ。人はきっかけがあれば変わることができるんだ」
辛辣なマリーの呟きにいたたまれなくなったジョンは、励ますつもりで力強くクロに頷いた。
しかし当の本人はきょとんとした顔で、
「あ、けなされてたんだ……ボスポラスの言葉を勉強したとはいえ、『きょうらくてき』とか『そくぶつてき』とか、知らない単語だらけだったからわからなかった」
「……昔から勉強が少し苦手だものね。何だか安心したわ、全部が全部変わっていなくて」
「それは良かった。クロのためにボスポラス語が学べる本を数冊見繕おう。二人とも、到着した。ここが養育院……エレナ、くん? と、誰だあれは……」
ジョンの目に飛び込んできたのは、部下であり想い人であるエレナと、彼女にぴったりと寄り添うパイナップル柄のスカーフを頭に巻いた少年の姿だった。
養育院に到着したエレナとルネが門をくぐると、すぐ脇の物置小屋の前にドロシーと一人の男性が何か話をしていた。
ルネに気づいたドロシーが、弾かれたように駆け寄ってきた。
「ルネ!! ああ無事で良かった……!!」
「ルネ、怪我はないかい? リサも他の子どもたちも職員たちも、みんな心配していたんだよ。無事に帰ってきてくれて本当に良かった」
「アル先生、ドロシーおねえちゃん、本当にごめんなさい……」
ルネを抱きしめたドロシーも、ルネが「アル先生」と呼んだ背の高い柔らかな雰囲気の男性も、ルネをとても大事に思っているのがその言葉や態度からわかる。
(この方が養育院の責任者かしら。とても優しそうだわ。古書店の店長さんのおっしゃっていたとおり、ドロシーさんやアル先生はルネをあまり表に出したくなかったようね)
エレナが心の中で考えていると、ひとしきりルネの体調を確認していたドロシーとふいに目が合った。
「エレナさん?! どうしてここに?!」
「ドロシーさん、こちらの方は?」
「彼女は職場の同僚のエレナさん。部署は違うけど、えっと、私の友達、なの」
「はいっ、私、ドロシーさんの友達のエレナです! 王宮の総合室付きのメイドを勤めております! ルネくんとは先程出会いまして……」
ドロシーが少し照れたように、それでもはっきりとした口調でエレナを紹介した。
嬉しくて仕方ないエレナは張り切って自己紹介と、ルネと出会った経緯を説明した。
一通り話を聞いたドロシーとアルベルトは深々と頭を下げた。
「ルネを保護してくれて本当にありがとう」
「私からも多大な感謝を。私はアルベルトと申します。妻のリサと二人で養育院の管理や子供たちのはお世話をしています。ところで、このバンダナはエレナさんの物ですか?」
続いたアルベルトの質問も、エレナが予想していたものだった。
バンダナの下はルネが一番隠したがっていた虎の耳があり、それはきっとルネだけでなくアルベルトたちも秘密にしたいことだろう。
アルベルトの温和な口調に含まれた警戒に気付いたエレナは笑みを深めた。
「ええ、私のバンダナです。アルベルトさん、<海神の名の下>、私は今日起きたことを胸に秘めておくことを誓いますわ。迷子になったルネくんと仲良くなって、ここへ連れて来たのです」
ボスポラス海国で信仰されている海神に誓うこと。
口約束でしかない言葉だが、意味はとても重い。誓いを破るということは海神に背く行為である。
大人も子供も関係なく、ボスポラスの民であれば真剣さが必ず伝わる。
まさかエレナが海神の誓いをすると思わなかったアルベルトは驚いた顔をした。
「今日会ったばかりのルネを、何故そんなにも気にかけてくださるのでしょう?」
「どんな事情があろうと、心細くなっている子を放っておけない、お節介な性格なだけですわ」
「あなたは総合室で働いているのでしたね。なるほど……お心遣い、大変感謝いたします」
「エレナさん、ありがとう」
アルベルトは口元を引き締め、再度頭を下げた。ドロシーもそれにならう。
ルネもこの約束の重大さを知っていたようで、エレナの隣にピタッとくっついて「ありがとう、ございます」と小さく呟いた。
「あっ! 私、アルベルトさんにお願いがあるんです」
「なんでしょう?」
「ドロシーさんにもお話したのですが、今度開かれるバザーに私も参加させていただきたいのです。もし良ければ手作りのお菓子を提供したいですし、売り子としてお手伝いできたらなぁと」
「私は賛成! エレナさんなら安心して任せられるわ」
「ぼ、僕も!」
先ほどまでのしんみりとした空気を払拭するような明るいエレナの提案に、ドロシーとルネが嬉しそうに賛同の声を上げ、アルベルトを見つめる。
「ええ、大歓迎ですよ。お待ちしています。総合室の方々には本当にお世話になってばかりで。ローラさんはバザーや感謝祭のときに息子さんと一緒に手伝ってくださいますし、ジョンさんは二か月前のあの一件以来、定期的に寄付や日用品を提供してくだってとても助かっているんです」
「え? ローラさんだけでなく、ジョン室長も?」
アルベルトの言葉に耳を傾けながら、エレナは動揺した心を落ち着かせるように苦心していた。
(ジョン室長が養育院の寄付をしていたことを知らなくても、当たり前じゃない。私にお話しされていないことがあっても不思議じゃないわ。ただの上司と部下の関係だもの。お昼ごはんを一緒に食べることが増えて親しくなったなんて勘違いしちゃって)
「エレナさん、元気がないみたい」
「大丈夫? もしかしてあなたって肌が白いから日焼けしやすいんじゃない? 建物に入って水で体を冷やしたほうがいいわ」
「お二人とも、ありがとうございます。大丈夫ですよ。あら、お客様がいらしたのでは……えっ!」
心配そうなルネとドロシーの優しさを嬉しく思いつつ、視線を感じて養育院の門に目をやると、今まさに考えていたジョンがいたので、今度こそはっきり驚いてしまった。
「エレナ、くん? ……と、誰だあれは」
「ジョン室長に、マリーさん! もしかして、そちらの方は、ク……」
ジョンとエレナが同時に言葉を発したので、互いの言葉でかき消されてしまった。
ジョンはエレナにくっつく少年に、エレナはジョンの隣にいる立派な体躯の黒毛の狼獣人に、それぞれ視線が釘付けだ。
「エレナちゃーん! 俺だよ、クロだよー! 良かったぁ、会えずに帰るところだった! 久しぶりのエレナちゃんはやっぱりかわい……いたーいっ!」
「まず挨拶だろう。ローラに言いつけるぞ」
「いきなり抱きつこうとするなんて失礼すぎるわ」
大きな尻尾をぶんぶん振ったクロードは真顔のジョンとマリーに尻尾を掴まれたため悲鳴をあげることになった。
そして「ローラ」の名前が聞いたのか、クロードはエレナから距離を置き、即座に背筋を正して胸に手を当てた。顔つきもキリリと引き締める。
「この姿でお初にお目にかかります。バーントシェンナ獣国傭兵部隊所属のクロード・ルー・ノワールと申します。我が国の王レオンより勅命を預かり、ここへ参りました。ってお前、もしかして……」
「僕は、僕はどうなってもいいからっ、この養育院の人たちや、エレナさんのことは、どうか許してくださいっ……!」
「ルネくん!」
エレナの前に飛び出したルネが、震える両手を広げてクロードをまっすぐ見つめた。
少しの間ルネの視線を受け止めていたクロードがニカッと笑った。サッとしゃがんでルネに視線を合わせる。
『ありがとな、ルネ。全部お前のおかげだ』
クロードはバーントシェンナ語を発した。
怯えていたルネはその言葉に呆気にとられる。
「……え、なんで……」
「後でな。あなたがこの施設の責任者のアルベルトさんですね? 本当にニコラスとそっくりだ!」
困惑しきりのルネにもう一度笑いかけたクロードが、アルベルトに向き直り握手を求めた。
「あなたは兄と会ったのですね」
「そうですね。気のいい男だったからすぐに意気投合しましたよ」
「そうでしたか」
「詳しい話は後でしましょう。俺とマリーの二人で話す予定でしたが、ジョンも一緒でも?」
「もちろん大丈夫ですよ。エレナさんは……」
首肯したアルベルトが振り向くと、エレナとドロシーは奥まったところにある建物の入口に移動しており、小さな女の子と何か話していた。
アルベルトの横に移動していたルネがおずおずと口を開く。
「ニーナが、僕に気付いたみたいで、外に出てきちゃったんだ。そしたら転んじゃって、最初に気付いたエレナさんがドロシーおねえちゃんと助けに行って。お話の邪魔をしちゃいけないからって、僕は伝言を頼まれたんだ」
「そうだったのか。教えてくれてありがとう。そうだ、ルネ、昼食を食べてないだろう。あっちの建物にいるリサが腹持ちのするオレンジケーキを焼いたから、一緒にもらいに行こう。みなさん、すみませんがすぐ戻りますので」
アルベルトとルネが連れ立って去った後、マリーが興味深げに呟いた。
「これも、エレナちゃんの能力なの?」
「おそらくな」
「ふうん、興味深いわね。カメリーンから聞いていたけど、こうまでタイミングがいいとは」
「さすが俺のエレナちゃん!」
「お前のではない。俺のだ」
「二人ともいい加減にしなさい。お付き合いしているならまだしも、片思いの相手に対して自分のものだなんて図々しいわ! 女性は物ではないのよ!」
「「すみません……」」
くだらない言い合いをする二人に、青い猫目を吊り上げたマリーが一喝した。
叱られたジョンとクロードが子供のようにうなだれているなどと、エレナは知るよしもなかった。
更新がだいぶ遅くなり申し訳ありません!
今年中にこの章を終わらせる予定です。
あと二話ほどお付き合いくださいませ〜!




