第48話:静寂の岩礁
リヴォルノ北部に位置する『嘆きの入り江』。
切り立った断崖が複雑に入り組むその場所は、波の音さえも何かに吸い込まれるような、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
アッシュは黒剣の柄を握り直し、湿った重い砂を踏みしめて奥へと進む。周囲には鳥の鳴き声も、潮騒の気配すらない。ただ、捕食者の絶対的な支配を示す、岩肌を深く削り取った巨大な這い跡だけが、侵入者を拒むように点在していた。
(……静かすぎる。じーちゃんが言ってた、格上の縄張りの空気だ。呼吸をすることさえ、誰かに許されているような感覚……)
生存本能が脳内で激しく警鐘を鳴らしている。冷たい汗が背筋を伝い、心臓の鼓動が早鐘のように打つ。だが、アッシュは足を止めなかった。
目を閉じれば、寝る間を惜しんで算盤を叩き、自分のために無理な笑顔を作って「商談」へと向かうニーナの姿が浮かぶ。
――自分のために彼女が無理をする必要はない
その一心だけが、凍りつきそうな足を一歩前へ突き動かしていた。
その時、入り江の最奥にそびえる、苔むした岩山そのものが不自然に揺らめいた。
「――ッ!」
岩だと思っていたそれは、藍色の鱗に覆われた巨躯を震わせ、ゆっくりと鎌首をもたげた。
ネームドモンスター『砕岩の海竜』。
立ち上る魔力のプレッシャーは、先日のヴィクトルやルカとは比較にならない。何もかもを凌駕する、原生的な暴力の塊。海竜の金色の瞳が、侵入者である小さな少年を、塵芥でも見るかのような冷徹さで射抜いた。
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「おお、始めたぜ。あのボウズ、物怖じもしねえで突っ込みやがった」
岩棚の影、風下に陣取った男たちは、望遠鏡を回しながら下卑た笑みを浮かべていた。
「いいぞ、もっと暴れろ。あのガキがどこまであの鱗を削れるか……死ぬまでに一箇所でも弱点を見つけるなり、弱らせてくれりゃ、俺たちの仕事が楽になる」
「リーダー、ありゃ無理ですよ。格が違いすぎる。見てな、一瞬で『餌』になりますよ」
男たちは、アッシュの命を、自分たちがネームドを狩るための「効率的な捨て石」としてしか見ていなかった。
視線の先では、アッシュが予備動作を一切排した鋭い踏み込みを見せていた。静止状態から一気にトップスピードへ乗る【無歩】。
海竜の懐。死角である顎の下へ滑り込み、アッシュは渾身の力で黒剣を突き立てた。表面の鱗には傷一つ付けられない。アッシュは即座に体勢を立て直し、表面の鱗ではなく、衝撃を直接内部構造へと通す【透過撃】。
確かな手応えが拳に伝わった。海竜の肉体の深部を揺らしたように感じられた。
だが、海竜は苦悶の声を漏らすどころか、わずかに身を震わせただけだった。あまりに巨大な生命力の密度が、一撃の衝撃を飲み込んでしまったのだ。
海竜は、鬱陶しい羽虫を払うかのように、太い尾を無造作になぎ払った。
(速すぎる……これは本気でヤバい!)
アッシュは咄嗟に剣を盾にし、肉体密度を極限まで高める――【金剛身】で衝撃に耐える準備をした。
直後、爆音と共にアッシュの身体が真横に吹き飛ぶ。
防御スキルをもってしても相殺しきれない、山が動いたかのような物理的質量。岩壁に激突し、肺の空気が強制的に絞り出される。
「が、は……っ!」
視界が火花を散らし、鉄の味が口内に広がる。
立ち上がろうとするアッシュの身体は、全く言うことをきかない。
「……く、そ……」
必死に黒剣を構え直そうとするが、限界を超えた衝撃に脳が揺れ、指先の感覚が遠のいていく。
薄れゆく意識の中、岩棚の上から嘲笑混じりの冷徹な声が届いた。
「おいおい、期待外れだな。一発で終わりかよ」
「もう死んだのか?」
それが、アッシュが最後に聞いた言葉だった。
崩れ落ちるアッシュの意識は、底の見えない深い闇へと沈んでいった。
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時は少し遡り、リヴォルノの上層街。
ガレノス商会本邸の周辺、ニーナは潜入に備え、最終的な確認を行っていた。
スカウトとしての神経は極限まで研ぎ澄まされ、無駄な思考は排除されていたはずだった。だが、ふと彼女の指先が、何かに弾かれたように微かに震える。
計算し尽くしたはずの計画を塗りつぶすような、正体不明の嫌な予感。
「……アッシュ、ちゃんと大人しくしてるかしら」
自分に言い聞かせるように、あるいは自分を落ち着かせるように呟くニーナ。
しかし、その瞳には、今まで数多の危険な冒険を潜り抜けてきた彼女でさえ経験したことのない、色濃い不安が宿っていた。
港を吹き抜ける潮風が、不吉な鳴き声のように彼女の耳元を通り過ぎていった。
すみません、以前に21:20固定でアップすると言いましたが、でき次第のアップに変更します。
時間は不定期となります。
二転三転して、申し訳ありません。
平日:1回アップ(時間不定期)
土日:2回アップ(時間不定期)
気まぐれに1日2回アップする日があることも変更なしです。
今後ともよろしくお願いいたします。




