ヒノエ
モダンなブラウンのカーペットが敷かれた廊下を進んだ右手の奥にメイクルームがある。
メイクルームに入ると左手の壁際には六席ほどの鏡台があり、それぞれがパーテーションで区切られていて隣とは干渉しないような作りになっている。
鏡の周りには電飾のようにLEDのライトが設置されている。部屋の右手のスペースはやや広く、ソファーや観葉植物が置かれ、リラックスできるようになっているが窓はない。外光をメイクに干渉させないためだ。
きっと先程まで誰かいたのだろう、メイクアップアーティストの伊野が鏡台の片付けをしていた。
軽く挨拶をして手前の席に座りメイクを始める。取材や撮影であれば担当のメイクも付くが、そうでない場合にはほぼ自分で行う。他は知らないが自分の場合はそうだし、撮影が無ければ断る場合も多い。近頃はいろいろ教わって慣れてきたこともあって簡単なメイクであれば自分で十分だった。
片付けの終わった伊野が手伝いましょうかと声を掛けてくれたが丁重に辞した。
メイクが間もなく完成というところで部屋に誰かが入ってきた。
女性だった。腰まである癖のない長い黒髪。真っ直ぐに切り揃えた前髪の下にある少し垂れた柔和そうな瞳と鏡越しに目が合った。
Nobel Chainsのヴォーカル、ヒノエだった。
背の高い女性が一緒だったが、恐らくヘアメイクアップアーティストだろう。
カシムは椅子を回し、ヒノエに挨拶した。ヒノエは小さく頭だけ動かすと二つ空けて席に着いた。
その様子を伺い、カシムは自分のメイクを再開した。
年末の武道館ライブ、おめでとう。
とヒノエが言った。
唐突に言われたので、ありがとうございます、としか答えられなかった。
まさか話しかけられるとは思っていなかった。
Nobel Chainsは二年前にデビューし、新星として注目された三人組のユニットだ。シンセのレンジ、ギターのハルキ、そしてヒノエ。軽快なテクノ系のサウンドとヒノエのキレのあるダンスが人気を博した。
長い黒髪の和の雰囲気、そのプロポーションの良さも人気の理由で、最近はモデルの仕事も増えている。化粧品の広告もよく見るようになった。現在でも一線を走る有名アーティストだ。
そんなヒノエと直接話すのは初めてだったが、カシムに対してあまり良い感情を持っていないという噂は時折耳にしていた。
まぁ面白くは無いのだろう。ぽっと出の新参が注目されれば、どの業界、どの時代でも不愉快に思うところはあるだろう。それを受け入れるのか、拒絶するのかが分かれ目ではあるが、それは各々の問題だ。ただ、どちらかと言えばヒノエもカシムと同類の筈で、デビュー曲がアニメの主題歌に採用され一気に火が付いた。急激に売れた自身に照らせば受け入れやすい筈だが、むしろ同族嫌悪の感情が勝るのかも知れなかった。
丁度、自身がSNSへ歌の投稿を始めた頃、飛ぶ鳥を落とす勢いで様々なメディアに露出をしていたNobel Chainsの曲のジャンルは好みでは無かったが、彼女らの世界観は好きだった。近未来を想像させる中に和のテイストが融合したヒノエの放つ存在感は独特だった。
しかし、どうやら実際の彼女はその幻想を打ち破る程度には普通の人間のようだった。
また不意にヒノエはカシムが自身でメイクをしていることに触れてきた。
制作打ち合わせと言えども、商品として人の目に触れる以上は最高の状態であるべきだ。
それにも拘らず今やトップアーティストの仲間入りをした歌手にヘアメイクを付けないのは先方にもアーティストにも失礼だ。もし良かったら社長に話してあげようか。
自分の時はすぐに付けてもらえた。
今のマネージャーたちは気が利かない。
などといったことを延々と話した。
合間に、そう思わないユキちゃん、と同意を求めると、ユキと呼ばれたヘアメイクは困ったように愛想笑いした。
字面だけで見ればあながち間違いでは無いのかも知れないが、それは余計なお世話である。
そもそも自分で断っているのだ。やんわりとそう伝えたが、それをアーティストに言わせることが間違っていると断じた。
恐らく、何を言ったところで切り返されるのだろう。彼女にとっては彼女の感じたこと、彼女の意見こそが大切なのだ。
一見相手を気遣っているように言っていても、そこにはカシムの意見は介在しない。彼女にとっての正義が皆の正義だと思っている。その正義を貫き、押し付けることで、相手の為になることをした、助けてあげた、守ってあげた、そういう自己満足に浸っている。そして、そこに加えて自分の時はこうだった、あの時はどうだった、そんな思い出話を聞かされた。それはアドバイスではない。単なる自慢とノスタルジーである。
優秀な人間は、無知な相手に対して知恵を与える。
こういう時はこう言うのが良い、こうするのが良い、方法手段を教示する。そして与えられた者は知恵を得て、より効率的に物事を進めることが出来るようになり、結果的に能力、成果の底上げに繋がっていく。
優秀な人間とは、そうして誰かが十分に能力を発揮出来る地盤を固める補助が出来る人間だ。
だが、無能な人間はそうではない。
無能な人間は、無知な相手に己の知識をひけらかす。こんなことが出来ないのか、そんなことも知らないのか、考えれば分かることだと相手を見下す。
結果、無駄な時間が知恵を得る効率も下げ、意欲を下げ、能力も上がらなければ成果など到底出ようはずもない。そして、またそれを嘲る。無能な者はそれを当たり前にするのだ。
何故なら、誰かを見下すことで自身の承認欲求を満たしたいだけだからだ。
そんな自己満足に浸っているだけの人間はことのほか多い。
中には飛び抜けて一切の他者を返り見ないエゴイストも存在するが、そこまでいけば逆に天才の域である。そういう人間はそもそも他者など相手にしない。
つぎつぎと流れ出してくる話を聞きながら、残念ながらヒノエもまたそんなつまらない連中と同じなのだと感じてしまった。
一流と呼ばれる人たちは、その程度の人達ではないと信じている。だが一線にいるからといって一流とは限らない。きっと彼女が単に二流以下だったというだけなのだ。
正直言えばそんな苦言すら何か意味があるものと、きっとヒノエはもっと素晴らしい人物の筈なのだと信じていた気持ちを裏切られたような気がした。心になにか靄がかったようで、すっきりとはしなかった。
不意に、ライブでは『Friend』を歌うのかとヒノエが言った。
『Friend』はカシムが世に出る切っ掛けになった曲だ。大好きだった友達が消えてしまった悲しみを綴った歌。
あの歌は好きだとヒノエは言う。
悲しい歌の筈なのに、どこか楽しそうにも聞こえる不思議な歌だと。
あれがもしカシムという人間の才能なのだとしたら―――
あなた、壊れてるわよ。
ヒノエが初めて目を向けてそう言った。
あたしそういう人、嫌いじゃないけれど、とヒノエは微笑んだ。
その時、メイク室の扉が開いて宮越が入ってきた。
宮越はヒノエに気付くと挨拶し、二言三言世間話をした。特にユキというヘアメイクとは旧知のようだった。
宮越は鏡に映ったカシムのメイクを見て頷くと、行きましょうと両肩に手を置き、再びメイクを続ける二人に挨拶をした。
席を立ち、部屋を出ようと扉の前に立ったカシムにヒノエが小さく手を振った。それに応えるように頭を下げた。
顔を上げるとヒノエとユキの向こう側、一番奥の鏡のあたりに少女の姿があった。少女はいつものようにただじっと、カシムを見ていた。
ヒノエ越しに少女を見つめながらカシム――
大原璃子は小さく微笑んで呟いた。
そうかも知れませんね。