喪失
璃子は父を知らない。
もちろん、大原将生という父親が存在していたことは知っているし、写真に残るその顔を見れば、それが自分の父だという判別もできる。
ただ、記憶も曖昧な幼い頃に父は病で亡くなった。癌だったと聞いている。
父を失って以後は、母が女の細腕でひとり必死に璃子を育ててきた。
生きる為、璃子を育てる為に出来ることは何でも必死にやっていたことを、幼いながらも璃子は確りと理解していた。
だから璃子も自分なりに出来ることは必死にやってきたつもりだ。勉強も人一倍二倍やってきたから成績もほぼ学年トップの位置にいたし、苦手を無くす為に運動だって手は抜かなかった。
そして目標の一つ、歌手になるという想いも捨てずにやってきた。
今、その夢は達成されて想像よりも大きな現実となった。
図らずも歌姫とまで称されるほどの成果を上げて、これまで正に身を切り刻み続けてきた母を、やっと幸せにしてあげられる力を持つことができた。
大学を卒業したら、本格的に歌手として専念するつもりだ。
本来であればすぐにでも歌に専念するべきだろう。時間に余裕のある練習生ではないのだ。
プロの世界、中でもトップアーティストとなれば、その世界は生易しいものではない。
楽曲の制作、レコーディング、トレーニング、振付け、取材や撮影、打ち合わせも細かなものを含めれば数えきれず、分単位のスケジュールだ。
それでも何とか出来ているのはマネージャーの宮越の手腕が大きく、彼女無くしてカシムは存在し得なかっただろうと璃子も実感してた。
アーティスト、学生という過密なスケジュールは負担が大きかったが、すぐにでも大学を中退し歌に専念しなかったのには理由がある。もしかしたら、その後は失ってしまうかも知れない普通の生活を満喫したかったし、もし凋落し全てを失ったとしても生きていくことのできる力と強さも身に付けておきたかった。
人の生は栄枯盛衰、最高の時がいつまでも続く道理は無い。今の栄華も数年後には人の記憶から忘れ去られることだって大いにありえる。だからこそ今のうちに、出来ることはしておく必要があると考えていた。
その話はもちろん母にもした。母はすべての話を黙って聞いて、最後にあなたの好きなようにしなさいと言った。ただし、あなたのすることはあなた自身の為だけに行いなさいと、そうも言った。この人は本当に強い女性なのだと、この時痛感もしたのだった。
その日は大学の講義のあと、ボイストレーニングの予定だった。
声の基盤となるものなのだが、これまでは我流でやってきたこともあって璃子としては専門のトレーナーが付いてくれるこの時間が楽しみでもあった。だからと言って講義をいい加減に過ごすつもりも無い。
大学では心理学を専攻している。
当然ながらその道を選んだ理由として少女の存在が与えた影響は大きかった。
少女は一般的に幽霊と呼ばれる存在か否か。
心理学に於いて霊のようなものを考える場合、超心理学の分野ということになる。しかし実際に問題だったのはこれを学べる大学自体多くないということだった。
希望する大学に入る為に必死に勉強して入学したことも考えれば、どんな講義も決しておざなりには出来ようもない。
特にその日の講義はとても興味深いものだった。
もし少女が霊だと仮定するならば、それは『霊姿現象』ということになる。
『霊姿現象』は世界各地で目撃事例があり、国籍、人種、宗教、教育、性別、年齢に関わらない。また個人に限らず集団で目撃されることもある。
この現象については様々な説が存在していて、例を挙げるならば暗示錯覚説、暗示幻覚説、磁場説、電圧効果説、ESP幻覚説、因果関係説、などがある。
まずは暗示錯覚説。
恐怖感による自己暗示から、壁の染みを見違える等、何かを見間違えるというケース。
瞬間的なものではない少女の存在には適合するとは思えない。
次に暗示幻覚説。
睡眠不足などで意識レベルが低下し、自己暗示による自己催眠状態で幻視を見るというものだ。
だが、睡眠不足などの意識レベル低下が無くとも璃子には見えていることが殆どだ。そんな状態が璃子の常態とはとても思えない。
では磁場説ではどうだろう。
磁力の乱れが脳に影響を及ぼし、神経回路を流れる微弱な電波に影響して幻覚を引き起こしたというケース。
しかしこれは一般的には磁場を発生させる磁鉄鉱が含まれる岩などが周囲に存在し、それが影響するともいわれ、ある条件がそろった場所とされることが多い。となると場所を選ばず現れる少女に当て嵌まるとは思えない。
電圧効果説はどうか。これも磁場説に近いものがある。
電気による磁場の発生が原因とされ、現代社会に於いてはテレビ、電車、電子レンジ、踏切、スマホなど影響がありそうなものは多い。
しかし、この条件下において『霊姿現象』が観測されるのであれば、もっと多く同様の目撃事例があっていい筈だ。それだけ現代にはありふれた条件でもある。だが実際には霊の目撃などそう多くは無い。
ESP幻覚説。
これは複数名の集団に於いて、ある一名に発生した幻覚などが本人の持つESP(超感覚的知覚)、つまり精神感応・予知・透視などの総称で、いわゆるテレパシーのようなもので他のメンバーに共有されるというものである。
これはESP能力が前提となり、それ自体の証明さえ難しく非常に無理のある説でもある。そもそも璃子は一人なのだし影響を受ける相手などいない。仮に璃子がそうだったとして、そもそも根は幻覚であるのだからESPの介在する余地は無い。
最後の因果関係説はどうなのか。
これは例えば心霊スポットのような場所で、亡くなった人の思念が強い電磁波としてその場に残留し、その電磁波の影響で何かを見るというケースだ。
これも磁場説に近いものがあるが、場所という縛りが存在していることで少女の存在には符合しない。
様々な説はあれど、少女の存在を示す説は今回の話の中には無かったように思う。
もちろん角度を変えればまだまだ説はあるし、そんなに簡単に霊の存在を証明できるなら誰も苦労しない。
急いで少女の存在を解明したいという訳では無い、気長にいこうと璃子はノートを閉じた。
講堂から出て噴水の脇を抜け、正門へと向かった。
お昼なので周囲のベンチには弁当を開いて食べているグループも何組か見えた。天気も良いし室内よりよほど気持ちいいだろう。
紅葉は遅いが銀杏は色づいて周辺に黄色いカーペットを作り出していた。もう少し寒くなれば紅葉も赤みを増してくるだろう。あの赤い色はアントシアニンの色なのだそうだ。もっと色付いたなら母も連れて紅葉狩りに行くのも良いかも知れない。忙しくとも一日くらい何とかなるだろう。
そういえばあの川辺も紅葉の時期ならさぞ綺麗だったろうと思い出に意識を馳せた。
刹那、風が強く吹いた。銀杏の葉が大舞台の紙吹雪のように黄落していく。
美しくも、どこか物悲しい寂しさのある眺めだった。
事務所の前に到着した直後だった。
不意にポケットに入れていたスマホが振動した。取り出すと画面には宮越の名前が出ていて、通話にするとイヤホンから切迫した宮越の声が聞こえてきた。その声音に背筋に冷たいものが奔るのを感じていた。
どこにいると問われ、事務所に着いたところだと応えると、すぐに行くからそこにいるようにと伝えられた。そして、自分よりも呼吸を乱す宮越が落ち着いて聞いてと言った。
お母さんが事故に巻き込まれて、先ほど息を引き取った。
音が消えた。
宮越の発した言葉の意味もよく分からなかった。
遠くの方で宮越が何かを言っているのは分かるのだが、言葉の輪郭がぼやけて聞き取ることが出来なかった。周囲の音も同じように、ぐにゃりと歪んで平衡感覚が失われた。
まともに立っていられなくなり、璃子は膝と手を着いて何とか身体を支えた。
周囲にいた警備員が、大丈夫ですかと声をかけてきたが、その声に答えることは出来なかった。
自分の周りで次々と残響が重なり、処理しきれず眩暈を感じ、吐き気を覚えた。
残響を搔き分けるように宮越の声が聞こえてきた。
宮越は璃子に駆け寄るとその肩を抱き、ゆっくりと立ち上がらせる。
幾度か声をかけられたが璃子は反応することも出来ず、身体にも力が入らなかった。
すぐ脇にミニバンが止まった。
宮越と警備員、その時は誰だか判別も出来なかったが、バンを回してきた男性マネージャーの田所チーフに支えられ、そのまま車に乗り込んだ。切迫した宮越の指示が飛ぶ中で、璃子は何も考えることも出来ずに、ただ放心することしかできなかった。
母が亡くなった。
その言葉が頭の中で繰り返し反響する。
幾度も、幾度も繰り返すうちにその言葉の意味も見失うと、璃子はなんだか少しだけ可笑しくなった。
暫く経って落ち着いてから聞いた話だ。
母は買い物に出かけてバスに乗った。バスは渋滞した交差点に差し掛かり、右折レーンで止まった。その時、交差する道の右手、左折しようとしていた車の列の一台が、渋滞を避けて空地をショートカットしようと飛び出した。勢いよく飛び出したその車は、その勢いを制御できずに止まっていたバスの右腹に突っ込んだのだそうだ。
運転手は軽傷、その他の乗客も軽傷が多かった中、璃子の母だけが亡くなった。
運悪く突っ込んできた場所の席に座っていた母は、押し潰されるように挟まれ、胸部圧迫による外傷性窒息により救急搬送中に亡くなったとのことだった。
璃子は宮越に連れられて病院の霊安室で母の遺体と面会した。
母の遺体は想像以上に綺麗で、死んでいるなんて嘘だとさえ思えた。だが、その皮膚の青白さはどこか作り物染みていて実感は無かった。
近づいてその顔を見つめた。
今朝、母はいつものように台所に立っていた。そして他愛もない会話を交わして、家を出る璃子に、行ってらっしゃいと声をかけた。いつものように、今までもこれからも交わされるはずだった何の変哲もない挨拶だった。
その行ってらっしゃいは、璃子にとって母の発した最後の声になってしまった。
今はまだ覚えている。
だが、いつかその声を忘れてしまう日が来るのかも知れない。
母の声を思い出そうとするほど、その声を見失いそうになる。
視界が歪む。
じわりと目頭が熱くなるのを感じた。
次の瞬間には大粒の涙が零れ落ちる。
これからだった。
これからだった筈なのだ。
自分の為に全てをかけてくれた母。
その母が、苦しみを忘れ、幸せになれるのはこれからだった筈なのだ。
広い家に住もう、美味しいものを食べよう、世界中の行ったことの無い場所に行こう、母はエジプトが好きだったから、エジプト旅行に行くのはマストだ。ついでに地中海沿岸を回って、一緒にクルージングを楽しむのもいい。
今まで出来なかった全部を、母にプレゼントするのだと決めていた。
そう思っていたのに。
なんで母が死ななければいけなかったのだ。
他には誰も死んではいないのに。なぜ母だけが死ななければならないのだ。
璃子は拳を握りしめた。
そのままどのくらいの時間そうしていたのかは分からない。
宮越がそっと近づいて肩を抱いた。宮越も泣いている。
ストレッチャーの上で母が静かに横たわるその先に、少女が立っていた。
いつものように璃子を見ている。
しかし、初めてだったかも知れない。
璃子はその姿を見ても、笑うことは出来なかった。
――香澄
璃子は小さくそう呟いた。




