陰森の奥にて Ⅲ
一日目──。
まず、問題になったのは食料だった。
森へ放り込まれた直後は、修行の事を考える余裕すら無かった。
優先すべきは、生存。
とにかく、生き延びる事だ。
「はぁっ⋯⋯」
シャルロットは、大きく息を吐きながら木にもたれかかる。
額には汗。
服の裾には草や泥がついていた。
川の水は確保できる。
だが、食料が無い。
(つまり、自分で調達しろってことだよね⋯⋯)
理不尽である。
だが、今さら文句を言っても仕方ない。
シャルロットは、レイピアを握り直し、森の中を慎重に進んでいく。
木々の隙間から差し込む光。
湿った土の匂い。
虫の羽音。
そして──
ガサッ。
「っ!」
反射的に身体が動く。
レイピアを構え、音の方向を見る。
だが、飛び出してきたのは小動物だった。
「あ⋯⋯」
小さな兎が、驚いたように逃げていく。
「はぁ⋯⋯」
緊張で、心臓が嫌になるほど跳ねていた。
(気を張りすぎ⋯⋯)
そう思う。
だが、気を抜く方が怖い。
ここは街ではない。
魔獣が徘徊する森だ。
◆◆◆◆◆
夜──。
それは、昼以上に過酷だった。
焚き火の火が、ぱちぱちと音を立てる。
だが、その程度で安心など出来ない。
──暗い。
静かすぎる。
そして、時折聞こえる。
「グルルル⋯⋯」
遠くから響く、魔獣の唸り声。
シャルロットの肩がびくりと震える。
レイピアを握る手に、自然と力が入った。
(寝れるわけないよこんなの⋯⋯!)
初めての野営を思い出す。
あの時も、不安で眠れなかった。
それでも隣には、ユーリがいた。
今は、頼れる彼は、いない。
木々の隙間、闇の奥。
そこから、何かがこちらを見ている気がする。
実際にいるのか。
気のせいなのか。
──もう、分からない。
少しでも瞼を閉じると、不安になる。
もし、その間に魔獣が来たら?
結局その夜、シャルロットはほとんど眠れなかった。
◆◆◆◆◆
三日目──。
疲労は、確実に蓄積していた。
「はぁっ⋯⋯!」
振るったレイピアが、小型魔獣の身体を裂く。
──ザンッ!!
魔獣は霧散。
だが、シャルロットの呼吸は荒い。
(今ので⋯⋯三体目)
戦闘そのものは問題ない。
今のシャルロットなら、下級魔獣程度に遅れは取らない。
問題は──休めない事だった。
常に神経を張り続けている。
食料を探す時も、水を汲む時も、眠る時ですら。
その緊張が、少しずつ精神を削っていく。
だが──
その極限状態の中で、シャルロットは少しずつ気づき始めていた。
音、気配、森の『違和感』。
葉が揺れる音にも種類がある。
風で揺れた音。
小動物が通った音。
そして──魔獣が動いた音。
違う──微妙に。
ほんの僅かに。
(今のは⋯⋯左後ろ!)
シャルロットが反射的に振り向く。
次の瞬間、飛び出してきた狼型魔獣へ、レイピアを突き出した。
──ザシュッ!!
魔獣が霧散する。
シャルロットは目を見開いた。
「今の⋯⋯分かった」
以前なら、飛び出してきてから反応していた。
だが今は違う。
『来る前』に察知した。
◆◆◆◆◆
一週間後──。
シャルロットは、木の上に座っていた。
最初の頃より、呼吸はずっと落ち着いている。
森の音にも、多少慣れた。
風、葉擦れ、虫の羽音、川の流れる音──。
そして、その中に混ざる『異物』。
──ガサッ
(右、距離およそ二十メートル⋯⋯来るっ!)
反射的に位置を把握する。
飛び出してきた魔獣へ、シャルロットは迷わず飛び降りた。
「はぁっ!!」
──ザンッ!!
上空から突き下ろしたレイピアが、魔獣を貫く。
「⋯⋯前より、分かる」
シャルロットが、小さく呟く。
音だけで、接近方向を察知できるようになってきた。
以前なら、不可能だった事だ。
だが──
(まだ、足りない)
ユーリが求めているのは、きっとこの程度じゃない。
直感的に、そう感じていた。
彼は、『音』なんかで敵を見ていない。
もっと別の何かを、感じ取っている。
シャルロットは、木々の奥を見つめながら、静かにレイピアを握り直した。
◆◆◆◆◆
二週間後──。
森の中を、シャルロットは静かに歩いていた。
最初の頃のように、無闇に周囲を見回す事はない。
視線を動かさずとも、森の変化が分かるようになってきていた。
風の流れ、葉の揺れ、草を踏む音、枝が軋む音。
その一つ一つが、頭の中で繋がっていく。
──左から来る。
直後、草むらから狼型魔獣が飛び出した。
「はぁっ!!」
振り向きざまの一閃。
──ザシュッ!!
魔獣は断末魔すら上げられず霧散した。
シャルロットは、油断なく周囲を見渡す。
(前より⋯⋯見える)
いや、正確には違う。
──感じている。
以前は、飛び出してきた敵に反応していた。
だが今は、敵が動く前の気配が分かる。
森全体の澄んだ空気の中に、『不純物』が混ざる感覚。
それを、少しずつ掴み始めていた。
◆◆◆◆◆
その日の夜──。
シャルロットは、木の上で膝を抱えていた。
焚き火は使わない。
光は、自分の位置を知らせるだけだからだ。
最初の頃は、暗闇が恐ろしくて仕方なかった。
だが今は違う。
目を閉じ、耳を澄ませる。
川の音、風や木々の揺れる音──。
その中に混ざる、生き物の音。
(──三体)
シャルロットは、ゆっくり目を開く。
──遠い。
こちらへ向かってきてはいない。
──危険は無い。
そう判断した。
(⋯⋯あれ?)
不意に、違和感を覚えた。
音じゃない。
もっと、別の何か。
ぼんやりと、輪郭すら曖昧な感覚。
だが確かに、『そこに何かいる』と分かる。
シャルロットは、眉をひそめた。
(何⋯⋯今の)
気配とは違う。
音でもない。
もっと直接的な何か。
だが、掴もうとした瞬間、その感覚は霧のように消えてしまった。
◆◆◆◆◆
三週間後──。
シャルロットは、川辺で水を汲んでいた。
その時──
ぞわり、と。
背筋を何かが走る。
反射的に、身体が動いた。
──ガァァッ!!
直後、背後の木陰から飛び出した大型魔獣の爪が空を裂く。
シャルロットは地面を転がるように回避。
そのまま低姿勢で滑り込み──
「せぇぇいっ!!」
──ザンッ!!
魔獣の首を切り裂いた。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯」
呼吸を整えながら、シャルロットは目を見開いていた。
(見えてた⋯⋯)
──いや、違う。
感じていた。
魔獣が飛び出す前から、そこにいると分かっていた。
もっと内側へ直接響くような感覚。
シャルロットは、自分の胸元へ手を当てた。
鼓動が速い。
だが──不思議と、怖くはなかった。
(これって⋯⋯)
脳裏に、ユーリの姿が浮かぶ。
背後を取られた、あの日。
──気づけなかった。
でも今なら、少しだけ分かる気がした。
ユーリは、目や耳だけで戦っている訳じゃない。
もっと別の感覚で、『存在そのもの』を捉えている。
シャルロットは、森の奥を見つめる。
静かな森。
だが今は、その奥にいる生き物の『存在』が、ぼんやりと感じ取れる気がしていた。
◆◆◆◆◆
四週間後──。
森の中を歩くシャルロットの足取りは、最初の頃とは比べ物にならないほど静かだった。
草を踏む音は最小限。
枝葉を掻き分ける動きにも無駄が無い。
呼吸すら、森へ溶け込むように自然だった。
──右上。
視線を向けるより先に、身体が動く。
木の枝を蹴り、跳躍。
「はぁっ!!」
──ザンッ!!
上空から飛びかかってきた鳥型魔獣を、一閃のもとに切り裂いた。
そのまま周囲へ意識を広げる。
(⋯⋯他には、いない)
自然と分かる。
以前のように、耳を澄ませたり、目を凝らしたりする必要はなかった。
森の中にある『生命の流れ』──マナを感じ取れる。
ぼんやりとだが、確かに。
シャルロットは、自分の掌を見つめた。
(これが⋯⋯ユーリの言いたかった事?)
まだ、完全には分からない。
だが──以前より遥かに、世界が鮮明だった。
◆◆◆◆◆
その夜──。
シャルロットは、焚き火の前に座っていた。
最初の頃と違い、表情に怯えは無い。
むしろ、静かだった。
火の揺らめきを見つめながら、この一ヶ月を思い返す。
──怖かった。
何度も逃げ出したくなった。
眠れない夜もあった。
魔獣に囲まれた事もある。
食料が尽きかけた事もある。
それでも──生き延びた。
シャルロットは、小さく笑う。
「⋯⋯ちょっとは、強くなれたのかな」
正直、自分ではよく分からない。
不意に、風が吹く。
木々が揺れ、葉が擦れる音が響いた。
だが、もう怖くはない。
森の中にいる『存在』が、分かるからだ。
◆◆◆◆◆
翌朝──。
シャルロットは、森を後にし、一ヶ月ぶりにシルヴァトーアへと帰ってきた。
「うわぁ⋯⋯人多い⋯⋯」
思わず、そんな感想が漏れる。
たった一ヶ月。
されど一ヶ月。
森しか見ていなかったシャルロットには、街の喧騒が妙に新鮮だった。
そして、宿へ辿り着くなり──
ベッドへ倒れ込んだ。
「むり⋯⋯もう限界⋯⋯」
そのまま、一瞬で意識が落ちる──
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目を覚ました時には、外はすっかり暗くなっていた。
「⋯⋯あれ」
ぼんやりした頭で身体を起こす。
すると──
「起きたか」
椅子に座っていたユーリが、静かに口を開いた。
「ゆ、ユーリ⋯⋯」
シャルロットは、寝ぼけ眼のまま身体を起こす。
「⋯⋯私、どれくらい寝てた?」
「半日」
「そんなに!?」
シャルロットが目を丸くする。
ユーリは、小さく笑った。
本当に、ほんの僅かだけ。
だが確かに、笑った。
「よくがんばった」
「っ⋯⋯」
その言葉に、胸が熱くなる。
涙が、零れそうになる。
たった一言。
だが、それだけで──この一ヶ月が報われた気がした。
◆◆◆◆◆
──翌朝。
久しぶりに、柔らかなベッドで眠ったからだろうか。
目覚めは、驚くほど良かった。
シャルロットは、宿の窓から差し込む朝日を浴びながら、大きく伸びをする。
「ん〜〜っ⋯⋯」
身体は軽い。
森での疲労は、まだ完全には抜けていない。
だが、不思議と感覚は澄んでいた。
着替えを済ませ、一階へ降りる。
──ユーリとアルベルトが、先に食堂に行ってる。
見なくとも、分かる。
食堂には、ユーリとアルベルトの姿があった。
「お、シャルロット!おはよう!」
「おはよ、アルベルト」
アルベルトが明るく手を振る。
その隣では、ユーリが静かに紅茶を飲んでいた。
「おはよう、ユーリ」
シャルロットが席につく。
すると、不意にユーリが口を開いた。
「シャル」
「ん?」
真剣な声音。
「この宿屋には、今何人いる?」
一ヶ月前、ここで聞いたものと同じ課題。
──ああ、そういうことか。
一ヶ月前、自分は何も分からなかった。
だが今は違う。
シャルロットは、静かに目を閉じる。
耳を澄ませる訳じゃない。
気配を探る訳でもない。
ただ、感覚を広げる。
宿の中に流れる『存在』。
いや、これは──『魔力』だ。
生物が生まれながらに持っている、『存在の証』だ。
厨房に二人。
二階に宿泊客が三人。
入口付近に一人。
他にも、部屋に残る『存在』がいくつか。
そして──
ゆっくり、目を開く。
「⋯⋯私達を入れて、十五人」
静かに答える。
数秒の沈黙。
やがて──
「正解だ」
ユーリが、短く答えた。
その瞬間、シャルロットの胸が、熱くなった。
(──できた)
ただ生き延びただけじゃない。
ちゃんと、意味があった。
あの森での一ヶ月。
恐怖も、不安も、孤独も。
──全部、無駄じゃなかった。
自然と、口元が綻ぶ。
「すごいな、それ」
「えへへ⋯⋯」
アルベルトの言葉に、少し照れながら笑うシャルロット。
ユーリは、そんな彼女を見ながら静かに言った。
「それが、『魔力感知』だ」
「魔力、感知⋯⋯」
「目や耳だけに頼るな。魔力感知を鍛えれば、戦いの幅はもっと広がる」
シャルロットは、真剣に頷く。
まだ、入り口だ。
ユーリには、きっともっと先の景色が見えている。
だけど──
今なら少しだけ、その背中に近づけた気がした。
窓の外では、森の都シルヴァトーアが朝の賑わいを見せている。
新たな力を得た少女は、その景色を静かに見つめながら、小さく拳を握った。




