絶望の始まり
世界樹ユグドラシル。
空を貫く巨木。
その幹は雲を突き抜け、枝は天のさらに上へと広がっているとされている。
その頂を見た者はいない。
根は大地の奥深くに張り巡らされ、この世界を支えている。
その根の果てを見た者も、またいない。
命は巡る。
人は死に、魂は形を失い、マナとなって大地へ還る。
還ったマナはユグドラシルの根に吸い上げられ、やがて新たな命として芽吹く。
それは、絶対に途切れることのない循環──誰も疑わない世界の理だった。
その日も、どこにでもある一日だった。
とある小さな農村。
畑では土を耕す音が絶えず響き、いつもと変わらない時間が流れていた。
その中の一人が、ふと手を止めた。
空が、暗い。
晴れていたはずの光が、じわじわと陰っていく。
雲ではない。
もっと上から覆われている。
風が止まり、虫の羽音も家畜の鳴き声も途切れる。
何かが空気を押しつぶしているかのようだ。
見上げると、そこに巨大な『何か』があった。
赤だ。
異様に赤い塊が空を覆っていた。
ゆっくりと、だが確実に落ちてくる。
距離が縮まり、輪郭がはっきりしてくる。
こちらに迫ってくると理解した瞬間、体が勝手に動く。
足がもつれ、畝に躓いて転げる。
土に叩きつけられ、息が詰まる。
手で地面を掻き、転がるように立ち上がる。
振り返ることなく──ただ、逃げる。
その瞬間、風が爆ぜた。
空気が叩きつけられ、畑の土が一斉にめくれ上がる。
遅れて衝撃が来る。
──轟音と同時に大地が沈む。
畝が潰れ、土が波打つ。
鍬が宙を舞い、叩きつけられて砕けた。
土煙が立ち込め、視界が白く塗り潰される。
──静寂が戻った。
誰も、すぐには動かなかった。
やがて、ひとりが恐る恐る足を踏み出す。
もうひとり、またひとりと、それに続く。
崩れた土を踏み越えながら、ゆっくりと近づいていく。
誰も口を開かない。
ただ、確かめるように。
それは、そこにあった。
赤い塊が地面にめり込んでいる。
ぬめるような光沢、歪んだ楕円、見覚えのある形。
畑で見慣れたものに、どこか似ている。
「⋯⋯果実⋯⋯か?」
──ドクン。
空気が揺れる。
胸の奥が跳ねる。
ドクン、ドクン。
自分の鼓動と噛み合わない。あれが鳴っている。
ミシ。
ひびが入る。
ミシ、ミシ⋯⋯と広がり、歪み、膨らむ。
内側から押し上げられ──破裂。
赤い殻が弾け飛び、ぬめった何かが地面に滴る。
それが、現れた。
四つの脚。
地を掴む重い肢、鉤爪が土を抉る。
胴が持ち上がり、頭部が現れる。
獅子のように見えた──一瞬だけ。
だが違う。
何かが決定的に噛み合っていない。
形だけをなぞった、歪な模倣。
それが、完全に外へ出る。
目が、合った。
それは、あまりにも異質な瞳だった。
一歩、後ずさる。
その瞬間──
鼓膜が破けんばかりの咆哮。
空気が激しく震える。
頭が、真っ白になる。
体が、動かない。
巨躯が、飛びかかってくる。
──そこまでだった。
村は、廃墟になっていた。
建物も畑もまとめて踏み荒らされ、大地ごと引き裂かれている。
人の姿もある。
だが動かない。
ただ、そこに転がっているだけだ。
同じことが、各地で起きていた。
村が消え、町が消え、都市が消える。
逃げる時間も抵抗する時間もなかった。
空が裂ける。
赤い果実が落ちる。
それが割れ、『あれ』が現れる。
同じ光景が繰り返される。
後に人は、それをこう呼ぶようになる。
──神獣、と。
それでも人は抗った。
生きるために。
逃げ、隠れ、守りながら。
各国でも騎士団が、神獣の討伐に動いた。
しかし、すべてが失敗に終わった。
剣も魔術も通用しない。
傷一つ付けられない。
まるで不可視の何かに守られているかのように。
神獣が現れる度に、騎士団壊滅の知らせが耳に届く。
絶望の日々が続く。
ある日、朗報が舞い込んだ。
とある国の騎士団が、神獣を討ったのだという。
最初は、誰も信じなかった。
だが、その報せが二度、三度と続いたとき、事実なのだと理解した。
世界は歓喜に沸いた。
泣き崩れる者。
空を仰ぐ者。
抱き合う者。
絶望に沈んでいた人々が、初めて顔を上げた。
だが、それからしばらくして。
空は再び裂けた。
落ちてきたのは、果実ではない。
白い、人の形。
静かに、ゆっくりと降りてきた。
その背に、白い翼が広がった。
それは、美しかった。
あまりにも。
だからこそ、誰もが理解してしまった。
あれは──天使だ。
再び、絶望が始まった。
一体だけではない。
二体、三体と、空から次々と降りてくる。
神獣を討伐した騎士団が迎え撃つ。
だが──数が多すぎる。
手が回らない。
間に合わない。
日が経つごとに、報せが届く。
村が、街が、都市が──
壊滅、崩壊、全滅⋯⋯
世界は、再び沈んでいった。
そんな中で、ひとつの噂が流れた。
「たったひとりで、天使を全滅させた奴がいるらしい」
信じられなかった。
だが、その話は消えなかった。
消えるどころか、広がっていく。
目撃者は語る。
「黒い影を見た」
──黒い影。
それだけしか分からない。
名前も、素性も、何一つ。
だが、確かに何かがいる。
天使を殺した何かが。
ある日、ひとつの報せが届く。
正体不明の存在を確認した、と。
天使とは、違う。
その一報だけで、空気が変わった。
騎士団は即座に、現場へと向かった。
街はまだ残っていた。
だが、中心にそれは立っていた。
人の形。
ただ、そこにいるだけ。
それだけなのに、誰も近づけない。
足が、止まる。
踏み込めば終わると、理屈ではなく、身体が理解していた。
それが、顔を上げる。
視線が、合う。
その瞬間、理解した。
あれは──神だ。
「裁定の時間だ」
声が、響く。
言葉として理解できる。
だが、意味が分からない。
続けて語られる内容も、確かに『理屈』としては通っているはずなのに、理解が追いつかない。
噛み合わない。
何を言っているのかではなく、何を基準に語っているのかが分からない。
そして何より。
そこには、人の意思が一切ない。
恐怖も。
懇願も。
怒りも。
何一つ、届かない。
「お前達に、救いを与えよう」
穏やかな声だった。
だが、誰一人として、それを救いだとは思えなかった。
先に騎士団が、動く。
踏み込み、斬りかかり、魔術を放つ。
突撃した騎士の動きが止まる。
心臓が、盾ごと抉られていた。
音もなく、動きも見えず、一瞬だった。
抗うことすら、許されない。
騎士達は『死』の気配を感じ取った。
──風が、揺れた。
気づいた時には、そこに黒い影がいた。
見えなかった。
誰も、気づけなかった。
黒い外套。
黒い刃。
今は、それだけがはっきりと見える。
「何だ、きさ──」
言葉が途切れる。
神の首が、胴体からずり落ちたのが見えた。
静寂。
誰も、動けない。
何が起きたのか、理解できない。
だが、ひとつだけ分かる。
あの『噂』は、本当だった。
天使を全滅させた存在。
そして今──
神を、斬った。
神を、殺した。
騎士団ですら為す術のなかった存在を、一瞬で。
それが、何なのかは分からない。
人なのか、それとも⋯⋯
その時、誰かが呟いた。
震える声で。
畏れを込めて。
神の天敵──死神、と。




