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RAGNARΦK  作者: 竜胆
プロローグ
1/13

絶望の始まり

 世界樹ユグドラシル。

 空を貫く巨木。

 その幹は雲を突き抜け、枝は天のさらに上へと広がっているとされている。

 その頂を見た者はいない。

 根は大地の奥深くに張り巡らされ、この世界を支えている。

 その根の果てを見た者も、またいない。


 命は巡る。

 人は死に、魂は形を失い、マナとなって大地へ還る。

 還ったマナはユグドラシルの根に吸い上げられ、やがて新たな命として芽吹く。

 それは、絶対に途切れることのない循環──誰も疑わない世界の理だった。


 その日も、どこにでもある一日だった。

 とある小さな農村。

 畑では土を耕す音が絶えず響き、いつもと変わらない時間が流れていた。

 その中の一人が、ふと手を止めた。

 空が、暗い。

 晴れていたはずの光が、じわじわと陰っていく。

 雲ではない。

 もっと上から覆われている。

 風が止まり、虫の羽音も家畜の鳴き声も途切れる。

 何かが空気を押しつぶしているかのようだ。


 見上げると、そこに巨大な『何か』があった。

 赤だ。

 異様に赤い塊が空を覆っていた。

 ゆっくりと、だが確実に落ちてくる。

 距離が縮まり、輪郭がはっきりしてくる。


 こちらに迫ってくると理解した瞬間、体が勝手に動く。

 足がもつれ、(うね)(つまず)いて転げる。

 土に叩きつけられ、息が詰まる。

 手で地面を掻き、転がるように立ち上がる。

 振り返ることなく──ただ、逃げる。


 その瞬間、風が爆ぜた。

 空気が叩きつけられ、畑の土が一斉にめくれ上がる。

 遅れて衝撃が来る。

 ──轟音と同時に大地が沈む。

 畝が潰れ、土が波打つ。

 鍬が宙を舞い、叩きつけられて砕けた。

 土煙が立ち込め、視界が白く塗り潰される。


 ──静寂が戻った。

 誰も、すぐには動かなかった。

 やがて、ひとりが恐る恐る足を踏み出す。

 もうひとり、またひとりと、それに続く。

 崩れた土を踏み越えながら、ゆっくりと近づいていく。

 誰も口を開かない。

 ただ、確かめるように。

 それは、そこにあった。

 赤い塊が地面にめり込んでいる。

 ぬめるような光沢、歪んだ楕円(だえん)、見覚えのある形。

 畑で見慣れたものに、どこか似ている。

「⋯⋯果実⋯⋯か?」


 ──ドクン。

 

 空気が揺れる。

 胸の奥が跳ねる。


 ドクン、ドクン。

 

 自分の鼓動と噛み合わない。あれが鳴っている。


 ミシ。

 

 ひびが入る。


 ミシ、ミシ⋯⋯と広がり、歪み、膨らむ。

 内側から押し上げられ──破裂。

 赤い殻が弾け飛び、ぬめった何かが地面に滴る。


 それが、現れた。

 四つの脚。

 地を掴む重い肢、鉤爪(かぎづめ)が土を抉る。

 胴が持ち上がり、頭部が現れる。

 獅子のように見えた──一瞬だけ。

 だが違う。

 何かが決定的に噛み合っていない。

 形だけをなぞった、歪な模倣。

 それが、完全に外へ出る。


 目が、合った。

 それは、あまりにも異質な瞳だった。

 一歩、後ずさる。

 その瞬間──

 鼓膜が破けんばかりの咆哮。

 空気が激しく震える。

 頭が、真っ白になる。

 体が、動かない。

 巨躯が、飛びかかってくる。

 ──そこまでだった。

 

 村は、廃墟になっていた。

 建物も畑もまとめて踏み荒らされ、大地ごと引き裂かれている。

 人の姿もある。

 だが動かない。

 ただ、そこに転がっているだけだ。


 同じことが、各地で起きていた。

 村が消え、町が消え、都市が消える。

 逃げる時間も抵抗する時間もなかった。

 

 空が裂ける。

 赤い果実が落ちる。

 それが割れ、『あれ』が現れる。

 同じ光景が繰り返される。

 後に人は、それをこう呼ぶようになる。


 ──神獣、と。



 それでも人は抗った。

 生きるために。

 逃げ、隠れ、守りながら。

 各国でも騎士団が、神獣の討伐に動いた。

 しかし、すべてが失敗に終わった。

 剣も魔術も通用しない。

 傷一つ付けられない。

 まるで不可視の何かに守られているかのように。

 神獣が現れる度に、騎士団壊滅の知らせが耳に届く。

 絶望の日々が続く。


 ある日、朗報が舞い込んだ。

 とある国の騎士団が、神獣を討ったのだという。

 最初は、誰も信じなかった。

 だが、その報せが二度、三度と続いたとき、事実なのだと理解した。

 世界は歓喜に沸いた。

 泣き崩れる者。

 空を仰ぐ者。

 抱き合う者。

 絶望に沈んでいた人々が、初めて顔を上げた。


 だが、それからしばらくして。

 空は再び裂けた。

 落ちてきたのは、果実ではない。

 白い、人の形。

 静かに、ゆっくりと降りてきた。


 その背に、白い翼が広がった。

 それは、美しかった。

 あまりにも。

 だからこそ、誰もが理解してしまった。


 あれは──天使だ。


 再び、絶望が始まった。

 一体だけではない。

 二体、三体と、空から次々と降りてくる。


 神獣を討伐した騎士団が迎え撃つ。

 だが──数が多すぎる。

 手が回らない。

 間に合わない。


 日が経つごとに、報せが届く。

 村が、街が、都市が──

 壊滅、崩壊、全滅⋯⋯

 世界は、再び沈んでいった。


 そんな中で、ひとつの噂が流れた。

「たったひとりで、天使を全滅させた奴がいるらしい」


 信じられなかった。

 だが、その話は消えなかった。

 消えるどころか、広がっていく。

 目撃者は語る。

「黒い影を見た」


 ──黒い影。

 それだけしか分からない。

 名前も、素性も、何一つ。

 だが、確かに何かがいる。

 天使を殺した何かが。


 ある日、ひとつの報せが届く。

 正体不明の存在を確認した、と。

 天使とは、違う。

 その一報だけで、空気が変わった。


 騎士団は即座に、現場へと向かった。

 街はまだ残っていた。

 だが、中心にそれは立っていた。


 人の形。

 ただ、そこにいるだけ。

 それだけなのに、誰も近づけない。

 足が、止まる。

 踏み込めば終わると、理屈ではなく、身体が理解していた。


 それが、顔を上げる。

 視線が、合う。

 その瞬間、理解した。


 あれは──神だ。

 

「裁定の時間だ」


 声が、響く。

 言葉として理解できる。

 だが、意味が分からない。

 続けて語られる内容も、確かに『理屈』としては通っているはずなのに、理解が追いつかない。

 噛み合わない。

 何を言っているのかではなく、何を基準に語っているのかが分からない。

 そして何より。

 そこには、人の意思が一切ない。

 恐怖も。

 懇願も。

 怒りも。

 何一つ、届かない。

 

「お前達に、救いを与えよう」

 穏やかな声だった。

 だが、誰一人として、それを救いだとは思えなかった。

 

 先に騎士団が、動く。

 踏み込み、斬りかかり、魔術を放つ。

 

 突撃した騎士の動きが止まる。

 心臓が、盾ごと抉られていた。


 音もなく、動きも見えず、一瞬だった。 

 抗うことすら、許されない。

 騎士達は『死』の気配を感じ取った。

 

  

 ──風が、揺れた。

 気づいた時には、そこに黒い影がいた。


 見えなかった。

 誰も、気づけなかった。

 黒い外套(がいとう)

 黒い刃。

 今は、それだけがはっきりと見える。


「何だ、きさ──」

 言葉が途切れる。

 神の首が、胴体からずり落ちたのが見えた。


 静寂。

 誰も、動けない。

 何が起きたのか、理解できない。

 だが、ひとつだけ分かる。


 あの『噂』は、本当だった。

 天使を全滅させた存在。

 そして今──

 神を、斬った。

 神を、殺した。

 騎士団ですら為す術のなかった存在を、一瞬で。

 

 それが、何なのかは分からない。

 人なのか、それとも⋯⋯


 その時、誰かが呟いた。

 震える声で。

 畏れを込めて。

 

 神の天敵──死神、と。

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