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267話:(1879年3月/早春)早春の朝鮮大変革

明治十二年三月。

 まだ朝晩は氷が張りつめ、川沿いの葦には霜が残っていた。

 だが、漢城の町に吹き抜ける風には微かなぬくもりが混じり、春の気配を告げていた。

 その早春の空気の中で、人々の暮らしは劇的に変貌しつつあった。



 西郷総督の号令の下、後藤新平が設計した後藤システムは、導入から半年にして驚異的な成果を挙げていた。


 学校――。

 瓦屋根の校舎には子供たちの声が満ちていた。

 「一、二、三!」と声を合わせ、板に書かれた文字を読み上げる。

 半年前まで字を読めたのは両班の子弟の一部だけであったが、今や農民の子も商人の娘も机に向かい、筆を走らせていた。

 教師は黒板に大きく「国・家」と書き、意味を説明する。

 子供たちは得意げに家に戻り、布告を読み上げてみせる。

 かつて三割に満たなかった識字率は、八割を超えていた。

 母親が涙ぐみながら言った。

 「この子が文字を読めるようになるとは思わなかった。未来は変わるのだろうか」



 病院――。

 新たに建てられた木造の診療所には、白衣を着た医師と看護婦が巡回していた。

 入口には大きな桶が置かれ、「手を洗え」と書かれている。

 母親は赤子を抱え、恐る恐る中に入る。

 医師は優しく言った。

 「煮沸した水を飲ませるのです。井戸の水をそのまま与えてはなりません」

 数週間後、村では乳児の葬列が激減した。

 村長は報告書に記した。

 「乳児の死亡率は六割減少。母たちは安堵の涙を流している」

 長年の「春の流行り病」が姿を消したことに、人々は魔法を見たかのように驚いた。



 交通――。

 凍てつく土を切り開き、鉄道の線路が漢城から各地へ延びていた。

 まだ完成したのは一部だが、試運転の汽笛が鳴り響くと、群衆は歓声を上げた。

 「馬車では数日かかる荷が、一日で届いた!」

 市場の商人は笑いを止めなかった。

 「この速度、この量……。商売は三倍に膨れ上がるぞ」

 物流の効率は三百パーセントに跳ね上がり、各地の市場には新鮮な物資が並ぶようになった。



 久信(十一歳)は、西郷総督の許しを得て各地を巡る視察に赴いていた。

 彼はまだ幼いが、誠実な眼差しと柔らかな言葉で人々に受け入れられていた。


 京畿道の小学校では、子供たちと一緒に声を合わせて文字を読み、板書を手伝った。

 「日本の子供と同じように、朝鮮の子供たちが勉強できるのが嬉しいです」

 そう言って微笑むと、教師は深く頭を下げた。

 「殿下のような若い方が、民と共に机を並べてくださるとは……」


 平安道の村落では、診療所を見舞い、煮沸した水を飲む子供を抱き上げた。

 「病気で苦しむ人が減って、本当に良かった」

 母親は泣きながらその言葉にうなずいた。


 咸鏡道の市場では、鉄道で届いたばかりの米俵を見て感嘆した。

 「物流が変われば、人々の暮らしも変わりますね」

 商人たちは一斉に笑顔で答えた。

 「はい、殿下。我らの町は生まれ変わりました!」



 半年前、誰もが清国の影の下で息を潜めて暮らしていた。

 だが今、子供は学び、母は笑い、商人は取引を拡大し、農夫は安心して種を蒔ける。

 わずか半年――その短さに似合わぬ、革命的な大変革が朝鮮の大地を覆っていた。

早春の陽はまだ弱く、朝鮮の大地を冷たく撫でるだけだった。

 しかし、人々の暮らしの中には確かな温もりが芽生えつつあった。

 それは、後藤システムがもたらした新しい秩序と繁栄の兆しであった。



 農村――。

 京畿道の一つの村を久信が訪れると、農夫たちは土の匂いにまみれた手で鍬を握り、笑顔を浮かべていた。

 「殿下、去年より二倍の収穫です」

 彼らは日本から派遣された農学者の指導を受け、肥料の使い方や輪作の仕組みを学んだ。

 これまで痩せた土に頼り、天候次第で飢えるしかなかった彼らが、今では余剰を市場に出せるほどになっていた。


 ある農夫は誇らしげに語った。

 「清国の役人に収穫を奪われていたころは、冬を越すだけで精一杯でした。

  今は税が明確で、残りは家族を養うことができます。

  子供を学校に通わせ、薬も買える。……これが本当の暮らしなのですね」


 久信は深く頷き、手帳に丁寧に書き込んだ。

 「農の実りが民を養う。これこそ国を強くする基礎です」



 商業――。

 咸鏡道の街市では、鉄道が運んできた荷が並んでいた。

 米俵、塩、布、鉄器……。

 商人たちは大声で呼び込み、以前には見られなかった活気に満ちていた。


 中年の商人が久信に頭を下げ、誇らしげに語った。

 「殿下、鉄道ができて以来、取引が三倍になりました。

  遠方から品を運ぶのに、馬車では数週間かかっていたのが、今では数日です。

  腐る前に魚を売れる。新しい布を南から運び込める。

  商いは正直な数字で測れるようになり、我らの帳簿も日本式に整いました」


 その商人は手帳を広げ、整然と並んだ数字を見せた。

 「清国の頃は、役人の言い値で搾り取られていました。

  今は契約と証文で守られている。安心して商売ができるのです」


 久信は目を細め、答えた。

 「正しい取引があれば、人は必ず力を発揮するのですね」



 知識層――。

 成均館の講堂には、白衣をまとった若い学者や士族の子弟が集まっていた。

 壁に掲げられた黒板には「算学」と大書され、教師が数式を示している。

 「これは農業にも商業にも役立つ数だ」

 その言葉に、学生たちは真剣な眼差しで筆を走らせた。


 一人の若い知識人が久信に近づき、感慨深げに言った。

 「かつて学問は両班の特権でありました。

  だが今は農の子も商の子も、同じ机で学んでいる。

  これほどの変革を誰が想像したでしょう。

  私は初めて、学問が国を変える力であることを知りました」


 別の学者も声を重ねた。

 「清国の属国であったころには望むべくもなかった。

  日本の改革は、我らに新しい未来を見せてくれたのです」



 視察を終えた久信は、西日に染まる街を歩きながら深く息を吸った。

 農夫の笑顔、商人の誇り、学者の希望――。

 それは一つの国が生まれ変わる鼓動のように響いていた。


 「父上が言っていた通りだ。

  制度が人を変え、人がまた制度を強くする。

  朝鮮は、もう後戻りはしない」


 彼の手帳には、びっしりと人々の声が記されていた。

 その文字は、春の陽射しのように新しい時代を照らし出していた。

漢城の春はまだ浅く、城門の石畳には残雪がところどころ影を落としていた。

 しかし、役所の広間には熱気が漂っていた。

 そこには朝鮮政府の高官や知識人、郷紳が一堂に会し、新しい統治について議論していた。



 総督府の役人が布告を読み上げる。

 「教育制度改革により識字率は八五パーセントへ上昇。

  乳児死亡率は六〇パーセント減少。

  鉄道と道路の整備により物流効率は三〇〇パーセントに達した」


 数字が並べられると、高官たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。

 長年、口先だけの報告に慣れていた彼らにとって、実際の成果を裏づける数字は重みを持って響いた。



 ある高官が立ち上がり、感嘆を込めて語った。

 「清朝の属国であった時代とは比較にならぬ発展です。

  日本との協力こそ、我らの国を救う道。

  この関係を永続化し、さらに深めたい」


 別の高官も頷いた。

 「これまでの属国体制では、我らは常に搾取される側だった。

  だが今や、教育と制度の恩恵は民衆の隅々にまで届いている。

  日本の手腕は驚くべきものだ」


 その声に、多くの知識人が同意を示し、記録を取る筆が一斉に走った。



 だが、全員が賛同していたわけではなかった。

 広間の隅で黙っていた一人の官僚が、鋭い声を放った。

 「我らの国が清朝の宗属を外れるなど、天に逆らうも同じ。

  数字がどうであれ、日本は外から来た異国の支配者だ!

  民の前で彼らを称えるのは、我らの誇りを捨てることになる」


 場が一瞬で凍りついた。

 清国至上主義を掲げる勢力は少数ではあったが、依然として影響力を持っていた。

 彼らにとって、数字や制度の成果よりも、伝統と忠誠の物語のほうが重かったのである。



 議論は紛糾した。

 「民の暮らしが楽になれば、それが正しいではないか!」

 「いや、伝統を失えば国は死ぬ!」


 双方が声を張り上げる中、久信(十一歳)は静かに傍らで記録を取り続けていた。

 彼の耳には、民衆から聞いた声がよみがえる。

 「子供が文字を読めるようになった」

 「病で子を失わなくなった」

 「取引が正直になった」


 久信は心の中で呟いた。

 「制度が人を救う。だが、人の誇りもまた無視できない。

  この両方をどう結びつけるのか……父上の言う“調和”が、ここでも求められている」



 最終的に、議長役を務めた西郷総督が低い声で告げた。

 「数字は虚妄ではない。民は嘘をつかぬ。

  しかし伝統もまた重んじねばならぬ。

  我らは清朝への礼を失わず、実を改めていく。

  それが調和の道だ」


 広間の空気が少しずつ落ち着き、議論は次の段階へと移っていった。



 その夜、久信は日誌にこう記した。

 「朝鮮の未来は確かに明るい。だが、影は消えてはいない。

  協力と反発、そのどちらも人の心の中にある。

  制度だけでなく、心をどう導くか――それこそがこれからの課題だ」


 灯火の下で記されたその文字は、幼い筆跡ながら重みを帯びていた。

 外では春を告げる風が吹き、遠くで犬の声が響いていた。

夜の漢城は静かだった。

 昼間の議論の熱は消え、街路の石畳には春の雨が残り、灯火が揺れていた。

 総督府の執務室では、西郷隆盛と久信が向かい合い、一日の出来事を振り返っていた。



 西郷は分厚い体を椅子に沈め、煙管を手にして深い息をついた。

 「今日の議会……協力を誓う声と、清国への忠誠を叫ぶ声。どちらも本心じゃろう。

  民の暮らしは楽になった。だが、人の誇りは数字だけでは動かぬ」


 久信は真剣な顔でうなずいた。

 「はい。農民や商人、子供たちは皆、日本の制度を喜んでいます。

  でも、高官や一部の知識人は、清国への忠義を捨てられない。

  制度と誇り……両方をどう結びつけるかが、これからの課題だと思います」



 西郷は目を細め、久信の言葉をじっと聞いていた。

 「十一歳でその考えに至るとは、たいしたものだ。

  わしは鹿児島で学んだが、制度よりも”人の情”を重んじてきた。

  そなたの父上は”数字と制度”で国を動かしておる。

  わしらの違いを学び、そして組み合わせていくことが大事だ」


 久信は少し考え込み、やがて静かに口を開いた。

 「父上は”制度が人を変える”と仰います。

  総督は”人の心が制度を動かす”と仰る。

  僕は……どちらも正しいと思います。

  だから、制度と心をつなぐ役目を果たしたい」


 その声は幼さを残しつつも、確かな決意を帯びていた。



 外では小雨が降り、夜警の兵士の足音が響いていた。

 北里が整えた病院では、夜も明かりがともり、子供の泣き声が聞こえていた。

 後藤の制度に基づき、夜学の教室では灯火の下で農民が文字を習っていた。

 制度は動き出し、民はそれを受け入れ始めていた。


 だが、城の奥深くでは未だに清国の旗を隠し持ち、「日本に従うは恥」と囁く者もいた。

 社会は変わりながらも、影は消えてはいなかった。



 西郷は立ち上がり、窓の外の雨を見つめた。

 「久信。民は数字を信じ、心を求める。

  そなたがその両方を結ぶなら、朝鮮はきっと揺るぎなくなる」


 久信は静かに答えた。

 「はい。僕は学び続け、民の声を聞き続けます。

  父上や総督から学んだことを生かし、制度と心を結ぶ橋になります」



 その夜、久信は日誌にこう記した。

 「朝鮮は変わった。だが、誇りと伝統を重んじる心もまた強い。

  制度が民を救い、誇りが国を支える。

  この二つを調和させることこそ、未来の課題だ」


 筆を置いたとき、外の雨は止み、春を告げる風が障子を揺らした。

 彼の文字は幼いながらも確かに、次代を担う指導者の歩みを記していた。

漢城の夜は静かに更けていた。

 日中の議会で交わされた激しい言葉がまだ城壁の内に残響しているように、空気には微かな緊張が漂っていた。

 総督府の執務室では、西郷隆盛と久信が並んで腰を下ろし、火鉢の炭を囲んでいた。

 窓の外は雨上がりの夜気で濡れ、灯籠の明かりが路面に淡く映っている。



 西郷は大きな体を背もたれに預け、煙管をゆっくりと吸い込んだ。

 「……今日の会合は骨が折れた。

  民のために制度を認めようとする者と、清国への忠義を捨てぬ者。

  両方がこの国の血を流しておる」


 久信は真剣な眼差しで頷き、手帳を開いていた。

 そこには農民の声、商人の報告、知識人の意見がびっしりと記されていた。


 「確かに反発は残っています。

  でも、今日見てきた学校の子供たち、病院で笑った母親、市場で誇らしげに帳簿を見せた商人――

  あの人たちの声が、数字としての成果を裏づけています。

  僕は、朝鮮はもう後戻りできないと感じました」



 西郷は煙を吐き、久信の横顔をじっと見つめた。

 「十一の子にしてはよう見ておる。

  わしは情で人を動かす道を歩んできたが、藤村殿は数字と制度で世を変えておる。

  そなたはその二つを学び、やがて結び合わせねばならぬ」


 久信は少し考え、やがて答えた。

 「制度がなければ人は救えない。

  でも、人の誇りを無視した制度は、いずれ壊れる。

  僕は制度と心をつなぐ役目を果たしたいです」


 その言葉に、西郷はゆっくりと頷いた。



 外の街では、夜学に通う人々の声が響いていた。

 火の灯る小さな教室で、農民や職人が文字をなぞっている。

 「これが自分の名前か」と嬉しそうに呟く男。

 「子供に負けてられない」と笑う母親。

 彼らの笑い声は、昼間の議論の緊張を溶かすように温かかった。


 西郷は窓を開け、遠くの声を耳に入れた。

 「聞こえるか、久信。あれが民の声だ。

  議場でどれほど清国への忠義を叫ぼうと、民は日々の暮らしにしか答えを求めん」


 久信は手帳に走り書きをしながら頷いた。

 「はい。だから僕は、この声を記録し続けます。

  制度と心、その両方を見失わないように」



 やがて夜が更け、火鉢の炭が小さくはぜた。

 西郷は立ち上がり、重い声で言った。

 「久信、覚えておけ。民の声を信じ、礼を忘れず、数字を軽んじず。

  それがこの国を変える道だ。

  そなたがその橋となれば、朝鮮は必ず揺るぎなくなる」


 久信は深く頭を下げ、力強く答えた。

 「はい。必ずや、その役目を果たします」



 その夜、久信の日誌にはこう記された。

 「朝鮮は大きく変わった。だが、影はなお残る。

  数字が民を救い、誇りが国を支える。

  この二つを調和させることこそ、未来の課題だ。

  僕はその橋となるため、学び続ける」


 筆を置いたとき、窓の外には雲の切れ間から星が顔を出し、春を告げる風が障子を揺らした。

 小さな灯火に照らされた文字は、幼い筆跡ながらも確かに未来を描いていた。

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