266話:(1879年2月/残冬)残冬の満州統治体制
明治十二年二月。
残冬の風は鋭く、白日の下でも吐く息は白く立ちのぼった。奉天城の石垣は霜に縁どられ、凍てつく川面には無数のひびが走る。城門前の広場には軍旗が林立し、兵士と役人、そして各地の村から集った住民が幾重にも列をなし、やがて訪れる新たな秩序を待っていた。
鼓が一打、冷気を裂いた。壇上へ進み出たのは、河井継之助。
長岡において藩政を担い、財政の立て直しと行政の効率化、教育と土木の整備で実績を挙げた実務家である。黒紋付の裾を正し、凛として広場を見渡す眼差しには、いつもの静謐な熱が漂っていた。
「満州総督、河井継之助――」
名が告げられると、兵は剣を掲げ、住民は一斉に頭を垂れた。壇背には旭日旗とともに、龍の旗が並ぶ。日本と清朝、二つの権威が同じ風に揺らぐ光景は、この地に始まる統治のかたちを象徴していた。
河井は一歩前へ進み、声音を落として語り始めた。
「満州の民よ、諸卿。これより此の地は、新しき道を歩む。
清朝・光緒帝陛下の名は尊び、礼は尽くす。然れど、行政・教育・医療・土木の近代化は我らが担う。
伝統を守りつつ、暮らしを改め、民の安寧を確かにする。――それが保護統治の要である」
最前列の農夫が顔を上げた。役所の門前で長く嘆きを重ねてきた男の目に、初めて「民」を正面から呼びかける支配者の姿が映る。
「長岡にて、私は藩政を預かり、帳簿の透明と無駄の削減、学校と道路の拡張に努めた。ここ満州でも同じく、数字で捉え、人で動かし、仕組みで支える。名を奪わず、実を改むる――それが我らの術である」
淡々とした語り口の奥に、確固たる意志があった。
式が結ぶと、河井は幕僚と共に執務室へ入った。壁には満州全図。山脈は北東から弧を描き、草原は果てしなく延び、炭鉱・鉄鉱・林地・水運の結節が墨点で記されている。
地図の前に立つ大村益次郎が棒で示した。
「馬賊の根はこの一帯、旧清軍の指揮系譜はこの辺りに残る。だが、清朝の威信をいたずらに傷つければ北京の反発を招き、列強に口実を与える。……総督、ここは名目と実務の分離が肝要です。皇帝の名で布告を出しつつ、治安・防衛・防疫・兵站は我らが掌に置く」
河井は頷き、硯の前に座して筆をとった。
「名を立て、実を動かす。――長岡で得た答えだ。
布告は龍旗の名にて発し、実務は総督府が担う。官吏の位階は当面存置するが、職掌は日本式に改める。住民には“皇帝と日本が共に治める”という安心を与えよ」
「治安は二層で行く。」大村は続けた。
「第一は機動警備隊――馬賊上がりの者も契約雇用で取り込む。俸給・家族扶養・功に応じた昇進で『反乱の腕』を『治安の腕』に変える。第二は常設憲兵・警察――郡ごとに配し、租税・戸籍・水利と密に連携する。力の分節が無用の流血を防ぐ」
窓の外で雪がぱらついた。ときおり、馬の嘶きと橇の鈴の音。広い中庭では、清朝式の冠を被った旧官吏と、新式の制服に身を包んだ日本人書記が図面を挟み、身振りでやり取りしている。
河井は彼らの姿を見て、そっと独白する。
「この地は広い。言葉も習俗も違う。……だからこそ礼が道を拓く。名を奪う統治は長く続かぬ。名を立て、暮らしを改め、数字で示し、成果を分かち合う――それが、民の心をこちらに向ける唯一の術だ」
執務卓には、導入予定の施策が綴密に並ぶ。
――戸籍・地券・租税の三位一体。
――道路・橋梁・冬季補修計画(残冬対策)。
――浄水・便所・隔離所を骨格にした防疫線(北里の図面)。
――郷学校・夜学校の設置(読み書き・算術・衛生)。
――炭鉱・伐木・鉄工の安全規則(事故・病の削減)。
――役所の二言語併記(満州語・漢文/日本語)と通訳養成。
――布告の公示方式(役人伝令ではなく掲示板+読み上げ人)……。
そこへ、清朝派の旧官吏が控えめに進み出た。
「総督。皇帝の名を掲げてくださるのは、有難きこと。しかし、我らの面目は――」
河井は穏やかに微笑む。
「面目を守るは、民が安んずることだ。位はそのまま、生身の仕事は改める。あなた方の学問と地理の知は尊い。肩書ではなく、働きで新しい信を得てほしい」
旧官吏は長く息を吐き、深く頭を下げた。
「……承知いたした。民のための役所が、ここから始まるのですな」
午後、広場では住民向けの説明会が開かれた。
通訳を介して布告が読み上げられる――
「税は一定、帳簿は公開、役人の賄賂は厳禁、井戸は共同、病は隔離」
素朴な言葉に直され、掲示板に張られると、人々は指でなぞるように読み、互いに確かめ合った。
「役所の言うことが、目で見てわかる」――その小さな驚きが、空気を変えた。
夕刻。総督府の屋上に上がると、街路の彼方でゆっくりと灯がともる。
河井が肩越しに問う。「大村殿、初手としては?」
「上々だ。」大村は短く答える。「皇帝の名を立て、人と数字で実を動かす。これが北京の怒りと列強の口実を封ずる最善の構えだ。馬賊の頭目には明朝、条件を示す。『銃を納めるなら俸給と土地、従わねば厳罰』――荒馬に鞍を置く時だ」
白い息が、二人の間でほどけた。
河井は手袋を外し、凍りつく欄干に掌を置く。
「長岡で培ったのは、調和の工夫だった。ここ満州で、その工夫をもう一度、いや何度でも試す。
名は龍旗の下に、実は総督府の机の上に――。名と実の橋を渡し続けよう」
夜の底へ、太鼓が低く鳴った。
霜に光る奉天の屋根々々の上、二つの旗が同じ風に鳴る。
新しい統治の夜が、静かに始まっていた。
総督府が奉天に開庁して数週間。
満州の町並みに、これまでにない光景が広がり始めていた。
冬の冷気は依然として厳しいが、人々の顔に漂うのはかすかな安堵と驚きであった。
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まず動き出したのは、北里柴三郎が率いる防疫部門だった。
雪解けの水はすぐに汚れを溜め、春先には疫病が広がると古来から恐れられてきた。
北里は井戸の水を検査し、顕微鏡を通して村の長に見せた。
「この小さなものが病を運ぶ。沸かして使えば、命を救える」
初めは怪訝な表情を浮かべていた村人たちも、実際に煮沸後の水で腹痛が減るのを知ると、たちまち信じるようになった。
総督府は公共の井戸に煮沸用の大釜を備え、衛生兵が巡回して使い方を指導した。
「ただの水が、薬になる……」と老婦人が呟き、周囲の者がうなずいた。
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野戦病院も整えられた。
壁は木板と布張りに過ぎなかったが、内部は清潔に保たれ、隔離室や煮沸室が設けられた。
患者は到着すると衣を替え、医師や看護人が手を洗って処置を行う。
「病人に触れる前に手を洗う」――それだけで感染が減ることを村人は目の当たりにした。
やがて、満州に蔓延していた「春の流行り病」がほとんど見られなくなり、町の口々に「日本の医者は魔法を使う」との噂が広がった。
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一方、後藤新平が率いる行政部門も着実に成果を挙げていた。
役所には二言語の布告が掲げられ、清朝式の漢文と日本式の簡明な文が並記された。
読み上げ役が市中を歩き、農民たちの耳に届くように配慮されていた。
「税は一定、収入に応じて徴収。役人の賄賂は禁止。記録は誰でも閲覧可能」
単純で明快な布告に、長年複雑な取り立てに苦しめられてきた民衆は目を丸くした。
「こんなに分かりやすく示されたのは初めてだ」と嘆息する声があがり、役人に渡していた裏金を返す農家も現れた。
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道路の整備も始まった。
雪に閉ざされていた道が掘り返され、木橋には補強が施され、馬車の通行が容易になった。
工事には住民も雇用され、日当が銀貨で支払われた。
「働いた分がすぐに手元に届く」
これまで強制労働に近い扱いしか知らなかった農夫たちは、その公平さに驚き、次第に誇りを持って工事に従事するようになった。
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学校も設けられた。
昼間は子供が通い、夜には大人のための読み書き教室となる。
壁に掲げられた大きな板に「一」「二」「三」と書かれ、教師が指で示しながら声を出す。
子供たちが元気に唱和すると、農民たちが窓越しに覗き込み、やがて恥ずかしそうに中へ入ってきた。
「我らも文字を学びたい」と言い出す老農の姿に、町の人々は笑いと共に温かい拍手を送った。
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北里と後藤の施策が重なり合い、町の空気は確実に変わり始めた。
市場では取引が活発になり、役人は帳簿を開いて公示した。
井戸端では子供たちが「水は煮ると病が減る」と母に説明していた。
夜学校の明かりの下では、農民が震える手で初めて自分の名を書き、涙を浮かべていた。
「清朝の役所では見たこともない……」
そんな声が村々で囁かれ、やがて「日本の統治は暮らしを楽にする」という評判に変わっていった。
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河井継之助は総督府の窓から雪景色の街を見下ろし、静かに呟いた。
「民の顔が変わるのを見るのは、何よりの証だ。
伝統を傷つけず、しかし暮らしを変える。これが我らの進むべき道だ」
彼の眼差しは冷たい冬空を越え、春に芽吹く未来を見据えていた。
北京、紫禁城。
龍の彫刻が連なる大殿の奥、重厚な帳の向こうでは、冷たい風が吹き込むような緊張が漂っていた。
光緒帝はまだ若く、沈黙の中で臣下たちの議論に耳を傾けていた。
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ある大臣が声を荒げた。
「満州の地が日本の手に落ちつつあるのは、あまりに危険でございます!
皇帝の威信を損ねる前に、日本に抗議を――」
しかし別の大臣は冷静に反論した。
「だが、現実をご覧あれ。奉天や吉林では疫病が収まり、道路が整えられ、民が日本を褒め称えている。
清朝の役人が百年かけても成し得なかったことを、日本は数か月でやってのけたのです」
議論は二つに割れた。
一方は日本を追い払えと叫び、もう一方は日本の統治を利用すべきだと唱えた。
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宦官が読み上げる報告には、満州からの具体的な記録が並んでいた。
「奉天の市場、物価安定。炭鉱労働、事故激減。農村、租税明確にして収穫増加。夜学校にて老若男女が文字を学ぶ」
皇帝の顔にかすかな驚きが浮かぶ。
「……本当に、そのようなことが?」
若い君主に答える者はなかった。ただ重苦しい沈黙が大殿を包んだ。
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一方、天津の外国公使館街でも波紋が広がっていた。
イギリス公使は口ひげを撫でながら呟いた。
「清国が百年かけても届かなかった統治水準を、日本が満州で示している。
これでは欧州列強の立場も揺らぐ」
ロシア公使は眉をひそめ、冷たい声を放った。
「シベリア鉄道が未完の今、我らが南下する前に日本が満州を押さえるなど、断じて容認できぬ」
列強の視線は、清朝以上に鋭く日本に注がれ始めていた。
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満州の民衆の声は複雑だった。
「税が軽くなった」「井戸の水で病が減った」と笑顔を見せる者もいれば、
「龍旗は飾りに過ぎず、実権はすべて日本にある」と囁く者もいた。
旧来の支配層は面子を失い、庶民は生活の安定に喜ぶ――その間で均衡は揺れ続けていた。
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奉天の総督府執務室。
河井継之助は清国からの書簡を読み終え、机に静かに置いた。
「歓迎と警戒が並び立っているな。彼らも揺れている」
大村益次郎が頷いた。
「我らは皇帝の名を掲げ続けることだ。面子を保たせ、実を握る。それ以外に道はない」
河井は窓の外の雪景色を見つめた。
「伝統と近代化の狭間……。この調和を保ち続けることこそ、我らに課された使命だ」
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雪は静かに降り続け、奉天の街路を白く覆っていった。
その下で、人々の心もまた白紙のように、新しい秩序の色を待ち受けていた。
夜、奉天の総督府。
窓外では粉雪が斜めに落ち、屋根の線をやわらかく滲ませている。
執務室の火鉢には赤い炭が起き、壁の大図は雪明かりに淡く光っていた。
卓を囲むのは、総督・河井継之助、軍事補佐・大村益次郎、医療防疫・北里柴三郎――満州の現地統治を担う三本柱である。
河井は、昼間の巡視簿を閉じて口を開いた。
「井戸の煮沸は村々に定着しつつある。学校も夜学を加え、読み書きの希望者が増えた。
だが、旧官吏の面子と郷紳の利権はなお根強い。名を保たせ、実を改める手綱を緩めるわけにはいかぬ」
北里は顕微鏡から顔を上げ、静かに続けた。
「数字は嘘をつきません。隔離と煮沸で、感染曲線は確かに下がっています。
この趨勢を春先まで保てれば、”春の流行り病”は峠を越えましょう。
しかし、教育を怠れば来年は元の木阿弥です。村医と衛生係を増員し、常識としての衛生を根づかせるべきです」
大村は地図の北東を棒で指し示した。
「治安は二層で運ぶ。一つは機動警備隊――降った馬賊を契約雇用し、給金・扶養・賞罰で縛る。
もう一つは常設の憲兵・警察だ。郡単位で巡察し、租税・戸籍・水利と連動させる。
それと、ロシアの“耳”が草原に増えた。情報局と密に連絡を取り、芽のうちに摘む」
河井は頷き、机上の書簡の束から一通を取り上げた。
それは東京から、藤村総理を経て届いた極秘の達しであった。
――「後藤新平、台湾総督に内定。南方の行政・港湾・移民・衛生を一挙に整える。満州は河井・大村・北里の三本柱で推進。中央にて財政・外交は支援す」。
河井は二人に向き直る。
「後藤殿は台湾を担う。南の扉を抑える者がいるからこそ、北の秩序も太いものとなる。
我らはここで、政(行政)=私、軍=大村殿、医=北里殿の三位一体で臨む。
中央(東京)・南(台湾)・北(満州)が呼吸を合わせてこそ、日本の秩序は全うされる」
北里が小さく笑む。
「南は黄熱やマラリア、北はコレラやチフス。病は違えど、予防という答えは一つです。
台湾での衛生体制は、いずれ満州にも学びを返してくれるでしょう」
大村は短く、しかし力を込めて言った。
「三本柱なら、戦わずに勝てる。……いや、壊さずに治める、だな」
そのとき、控えの者が書簡を差し入れた。
「北京より公文――『皇帝の名を掲げつつ民生を整えるは喜ばしい。ただし日本の権勢拡大には警戒を怠らぬ』」
河井は一読し、火鉢の光に文面をかざしてから、封を丁寧に戻した。
「歓迎と警戒、二つの声。……想定のうちだ。礼を尽くし、実を進める」
夜更け、三人は短い巡視へ出た。
奉天の裏路地は雪に沈み、井戸端には蒸気が立つ。
煮沸釜の前で、年老いた女が湯気の向こうから会釈した。
「このやり方にしてから、腹を壊す子が減りました」
北里は深く頭を下げ、衛生兵に釜の点検を指示した。
通りの先では、憲兵が郷紳に書類を示している。
「租税の額、この通り。裏の取り立ては許さぬ。帳簿は市の掲示板に出す」
郷紳は一旦眉を吊り上げたが、憲兵の背後に並ぶ若者の巡査――地域の青年から採用された者たち――を見て、肩を落とした。
「わかった。……わかったよ」
面子は保たれ、実は改められる。河井の方針は、細い毛細血管にまで通い始めていた。
やがて総督府に戻る道すがら、遠くから低く太鼓の音。
大村が耳を傾け、「警備隊の合図だ。降った頭目に、明朝、土地証文を渡す」と言った。
「反乱の腕を、治安の腕に。荒馬に鞍を置く作法ですな」
河井の言葉に、雪明かりの中で三人の影が重なった。
執務室に戻ると、河井は灯を落とす前に小さく記した。
――『名は龍旗に、実は総督府に。政・軍・医、三位を一つに。台湾の後藤、中央の藤村と拍を合わせ、北辺を治む』。
筆跡はぶれず、墨は濃く、文字は凜としていた。
最後に河井が口を開く。
「この地の春は遅い。だが、必ず来る。
春が来たとき、民が『冬は短かった』と言えるよう、我らは昼も夜も、名と実の橋を渡し続けねばならぬ」
北里と大村が同時に頷いた。
外では、雪がいよいよ細かくなっていた。
白い静けさの底で、満州の新しい統治は確かに脈を打っていた。
それは三本柱で支える鼓動――北の大地に、春を呼ぶための鼓動であった。