262話:(1878年10月/初冬)初冬の朝鮮完全統合
十月の朝鮮半島。
初冬の風は乾ききり、街路樹の葉を一枚残らず散らしていた。
石畳の道を行き交う商人たちは分厚い外套を羽織り、吐く息は白く曇っている。
市場には干し魚と穀物の匂いが漂い、遠くからは馬車の轍の音が響いていた。
だが、漢城の王宮に集まった老臣たちの胸中は、それ以上に冷え切っていた。
彼らの前に座すのは、大久保利通。
その眼差しは、冬の刀剣のように鋭く光っていた。
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「諸君。日本と朝鮮は協定を結んだ。
今後、すべての行政・教育・医療・インフラは我が国の制度に従って改められる」
大久保の声は低く抑えられていたが、広間全体を震わせる迫力があった。
清国派の重臣が震える声で口を開いた。
「だが、それでは朝鮮の伝統が……我らは清国の宗属関係を断つわけには――」
大久保は机を叩き、鋭く遮った。
「伝統で民が救えるのか?
清国の庇護にすがり、腐敗と汚職にまみれたまま、民は飢え、病に倒れてきた。
民を救えぬ伝統は鎖に過ぎぬ!
日本はすでに七千万両の重債を処理し、近代国家として立ち上がった。
朝鮮もまた、この道を歩むのだ」
その言葉に誰も反論できなかった。
老臣らは顔を伏せ、時代の波に抗う術を失った。
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翌日、漢城の広場には群衆が集められた。
吹きすさぶ風の中、布告が高らかに読み上げられる。
「朝鮮総督として、西郷隆盛を任ずる!」
その瞬間、群衆の間にざわめきが広がった。
薩摩の巨人、西郷の名は既に伝説のように知れ渡っていた。
黒馬に跨り現れたその姿は圧倒的で、人々は自然と道を開けた。
西郷は馬を降り、群衆の前に立った。
その声は大地を震わせるほど太く、力強かった。
「わしはここで力で押さえつけるつもりはない。
皆の暮らしを守り、制度を正し、誰もが生きやすい国を共に作る!
日本と朝鮮は兄弟だ。共に進むのだ!」
その言葉に、恐れに固まっていた民衆の中から、小さな拍手が起こった。
やがてそれは大きな歓声へと変わっていった。
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行政の実務は後藤新平が担った。
彼は山積する書類を前に、官吏を集めて宣言した。
「三か月で行政・教育・医療・インフラを完全に日本式へ統一する!
戸籍を整理し、税制を公平に改め、汚職を徹底的に排除する。
役所は民のために働く場だ。抵抗する者は罷免する」
警察制度が整えられ、役人は制服をまとい、街には新しい秩序が生まれ始めた。
道路には石畳が敷かれ、井戸の周囲には衛生指導が掲げられた。
学校では日本式の教科書が配布され、子供たちが初めて文字を声に出して読み上げていた。
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その場に、藤村の命を受けて派遣された三兄弟の一人、**久信(十歳)**の姿があった。
彼は民政部の机に座り、朝鮮人官吏と共に戸籍の整理にあたっていた。
役人が疑わしげに問いかけた。
「子供が何をできるというのか?」
久信は真剣な瞳で答えた。
「私はまだ未熟です。でも、皆さんと一緒に学びたい。
人々が少しでも安心して暮らせるよう、制度作りをお手伝いします」
その素直な言葉に、官吏の表情がほころんだ。
「この少年は偉ぶらず、我らを見下さない……」
やがて彼らは久信を仲間として受け入れ、共に机を並べるようになった。
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初冬の冷たい風が吹きすさぶ中で、朝鮮の大地には確かに変化の兆しが芽生えていた。
清国の影を脱し、日本式の制度が根を下ろそうとしていた。
それはただの統治ではなく、人々の生活を変える改革であった。
後藤新平が指揮を執ってからわずか一か月。
朝鮮の町や村は、これまで見られなかった速度で姿を変えつつあった。
冷たい初冬の風にさらされる街路には、日本から運び込まれた標識や器具が並び、改革の足跡を示していた。
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まず医療。
北里柴三郎が導入した近代医学は、人々の生活に劇的な変化をもたらした。
王宮近くに建てられた新式病院は、清潔な白壁と大きな窓を備え、庶民にも開かれていた。
内部には診療室と薬局が整然と並び、煮沸器や顕微鏡まで備え付けられていた。
医師たちは北里の指導で衛生教育を受け、看護婦は日本式の白衣に身を包んだ。
各地の村には巡回医療班が派遣され、乳児への予防接種が実施された。
「今年は子供が皆元気だ。咳ひとつせず冬を越せそうだ」
母親たちの口からそんな声が聞かれるようになった。
乳児死亡率は瞬く間に半減し、庶民はこの成果を肌で感じていた。
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教育制度も急速に整えられた。
かつては両班の子弟しか学ぶ機会のなかった文字が、町や村の子供たちにも開かれたのである。
瓦屋根の学校舎には、漢字とハングルを併記した教科書が並び、日本人教師と現地出身の若い助教が一緒に授業を行った。
子供たちは声を合わせて文字を読み上げる。
「日……本……」「朝……鮮……」
その拙い声は新しい時代の鐘の音のように響き、保護者たちは涙ぐんで耳を傾けた。
識字率は数か月で目に見えて上がり、村の掲示板に書かれた布告を読める者が急増した。
庶民は自分の目で政令を確かめられるようになり、役人の虚言に惑わされることがなくなった。
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インフラ整備もまた目覚ましかった。
石畳の道路が次々に敷かれ、夜には街灯が灯された。
水路は清掃され、井戸には石枠が嵌められ、衛生状態は格段に改善された。
農村では小規模な灌漑工事が行われ、収穫量が増加。
「飢える心配がなくなった」
農民の口から漏れたその言葉は、改革の成果を何より雄弁に物語っていた。
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久信(十歳)は民政部の一員として、こうした現場を訪ね歩いた。
ある村では井戸の新設を見守り、子供たちに笑顔で声をかけた。
「これで病気も減るはずです。どうか大切に使ってください」
別の村では学校の教室に入り、子供たちの拙い読み書きを見守った。
「立派です。皆さんが学んでいけば、必ずこの国はもっと強くなります」
その言葉は翻訳を介して子供たちに届き、彼らは嬉しそうに微笑んだ。
小さな少年が民政を担う姿は、朝鮮人官吏や村人たちの心に深い印象を残した。
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民衆の声は日ごとに変わっていった。
「日本の制度で役人の取り立てが公平になった」
「子供が字を覚え、手紙が書けるようになった」
「病院で薬をもらったら咳が治った」
最初は恐れと不信の目を向けていた人々が、今では制度を歓迎する声を上げ始めていた。
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冬の寒さが深まるなかでも、町の空気は確かに温もりを帯びていた。
朝鮮社会は、後藤システムと日本式の技術によって、急速に近代化の道を歩み始めていた。
初冬の冷気が王宮の瓦屋根を覆い、吐く息が白く立ちのぼる。
漢城の総督府には、朝鮮の高官・学者・地主層が次々に呼び出されていた。
日本式の改革が進むなか、彼らの協力を得ることが次の課題だった。
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広間に整列した両班の高官たちは、重苦しい沈黙を守っていた。
彼らは長らく清国の威を背に権勢を振るい、庶民を支配してきた。
しかし今、その清国は遠ざかり、日本が制度を掌握していた。
西郷隆盛総督が正面に座り、大きな声で切り出した。
「おはんらが学問と経験を持ちながら、民を飢えさせたこと、わしは責めはせん。
だが、これからは違う。
日本の制度に従い、民と国を共に支える者だけが、これからの指導者や」
その言葉は荒々しくも真実を突いていた。
場の空気は張り詰め、やがて一人の学者官僚が進み出た。
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「我らはこれまで清国に忠誠を誓ってきました。
だが……日本の医術は病を治し、教育は民を目覚めさせている。
庶民はすでに感謝の声を上げております。
清国では決して成し得なかったことです。
……我らも協力を惜しまぬ覚悟です」
その発言に他の両班たちもざわめいた。
「日本の統治能力は清国を遥かに上回る」
「制度が整えば、我らの家も守られる」
「ならば完全に協力するしかあるまい」
こうしてエリート層の空気は、一気に協力へと傾いていった。
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その流れを見届け、後藤新平が前に出た。
「諸君の学識と経験は無駄にはせぬ。
教育改革には学者を、行政には旧官吏を、インフラには地主の資金を。
日本式の枠組みの中で、君たちが力を尽くせば、朝鮮は真に近代国家となる」
合理的な役割分担が提示されると、両班たちは互いに顔を見合わせ、深々と頭を下げた。
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一方、久信(十歳)は会議の端に座り、静かに記録を取っていた。
休憩の折、数名の若い官僚が彼に声をかけた。
「少年でありながら、我らと共に働くのか?」
久信は微笑み、答えた。
「はい。人が幸せに暮らせる仕組みを作るために学んでいます。
皆さんと力を合わせて、この国をよくしたいのです」
その率直な言葉に、彼らは心を動かされた。
「ならば、我らも変わらねばなるまい」
新しい時代の空気は、確かに彼らの胸に芽吹いていた。
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夜、西郷は縁側に立ち、冷たい風を受けながら呟いた。
「清国の影を払うは容易ではなか。だが、民もエリートも心を寄せてきた。
あとはわしらが責任を背負うだけじゃ」
総督の背を見て、後藤も久信も深く頷いた。
朝鮮の完全統合は、もう揺るぎない道筋となっていた。
初冬の夜、漢城の空は澄み渡り、月光が瓦屋根を銀色に照らしていた。
総督府の大広間では、西郷隆盛、後藤新平、そして久信(十歳)が並んで座し、朝鮮統合の成果を振り返っていた。
蝋燭の火は静かに揺れ、外からは風に混じる遠い犬の声が響く。
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西郷は杯を置き、太い声で語った。
「わずか三か月でここまで変わるとは思わなんだ。
道は整い、学校には子供らの声が満ち、病院には笑顔がある。
朝鮮の民は、もう清国の影を恐れてはおらぬ」
後藤は頷き、分厚い帳簿を開いた。
「戸籍の整備は八割完了。租税も明確化され、取り立ての不正は激減しました。
教育制度により識字率は急上昇し、布告が庶民に直接伝わるようになった。
衛生改革により乳児死亡率は半減。これらの数字が統合の実績を証明しています」
彼の声は淡々としていたが、その背後にある膨大な努力は誰もが理解していた。
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久信は小さな手で記録帳をめくり、真剣な表情で言葉を添えた。
「ある村で、おばあさんが言いました。
『子や孫が字を読めるようになった。それだけで心が明るくなる』と。
また、別の村では農夫が言いました。
『役人に奪われず、正しく納めれば来年の種も残る』と。
民の声が、この改革を支えているのだと思います」
その言葉に、西郷と後藤は互いに目を合わせ、静かに笑った。
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やがて西郷は正面を見据え、重々しく告げた。
「朝鮮の完全統合は、もはや疑いようはなか。
だが、これは始まりに過ぎん。
我らが背負うは一国の統治ではなく、東アジア全体の未来じゃ」
その声は広間の梁を震わせ、久信の胸にも深く刻まれた。
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翌朝、漢城の街は早くも新しい息吹に満ちていた。
市場では子供が帳面を広げて商人の言葉を書き取り、井戸端では女たちが衛生の話をしていた。
西郷総督の騎馬姿が通りを進むと、人々は帽子を取り、道を開けた。
「総督様、ありがとうございます!」
声が次々に飛び、かつての恐怖は跡形もなかった。
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総督府の高台に立ち、西郷は遠くの山並みを見やった。
「民が笑い、学び、病に怯えぬ国……。
わしはようやく、この目で見ることができた。
ここから先は、日本と朝鮮が共に進む道を守り抜くのみじゃ」
後藤は隣で冷静に頷き、久信は小さな拳を握りしめた。
彼の心には強い決意が芽生えていた。
「自分も必ず、この道を未来へ繋ぐ役目を果たす」と。
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初冬の冷たい風が高台を吹き抜け、三人の背を撫でた。
その風は冷厳でありながら、確かに新しい時代の始まりを告げていた。
朝鮮の完全統合は成し遂げられ、東アジアの秩序は新たな段階へと進み始めていた。