261話:(1878年9月/秋風)秋風と満州作戦開始
九月の空は高く澄み、秋風は草原を渡って乾いた砂埃を巻き上げていた。
一面に広がる満州の大地は黄金色に染まり、遠くの山並みはかすんでいる。
その広大な大地に、かつて見たことのない光景が描かれていた。
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草原をまっすぐに貫く黒々とした線路――臨時軍用鉄道である。
数か月前から工兵隊が総力を挙げて敷設したこの軽便線は、藤村総理大臣の令和の知識によって計画されたものだった。
国内で鉄道を運用してきた技師たちを呼び寄せ、北海道や関東で得た経験をそのまま満州へ応用したのである。
線路は木製の枕木と鉄材を簡易に組み合わせ、橋梁も木組みで短期間に仕上げられた。
だが蒸気機関車は確かに動き、貨車には石炭、穀物、医薬品が山と積まれ、前線へと運ばれていく。
その光景は、まるで草原に新しい「鉄の血管」が通ったかのようだった。
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義信(十一歳)は、馬上からこの軍用鉄道と整然とした野営地を見渡していた。
数万の兵が列をなし、補給車が規律正しく並ぶ。
野戦病院の白い旗がはためき、衛生兵が水場で浄水装置を設置している。
鉄道とともに延びる兵站基地は、まるで城塞都市のように物資と人を飲み込んでいた。
義信は地図を広げ、各方面指揮官に向かって声を張った。
「これより進撃を開始する。
この作戦は、単なる戦ではない。
令和の軍事理論、北里先生の防疫、後藤先生の兵站、大村先生と河井殿の計画――すべてが融合した史上最も効率的な軍事作戦だ。
情報戦・心理戦・兵站戦を一体化し、敵が動く前に勝利を収める」
その声に兵士たちが一斉に鬨の声を上げ、草原にこだました。
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陣幕の中、大村益次郎は義信の姿を見て静かに頷いた。
「理論を知るだけでなく、兵の心を掴んでいる……十一歳にして、すでに将の器だ」
河井継之助もまた感慨深げに言葉を添える。
「机上の計画を、人を動かす力に変えられる者――。
それが真の指揮官ですな」
二人の視線は、馬上の義信に注がれていた。
少年の声が数万の兵を震わせ、鉄道に積まれた物資が前線を潤す。
未来の戦争が、ここから始まろうとしていた。
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行軍は秩序正しく進んでいった。
鉄道の列車は数時間ごとに基地と前線を往復し、食糧と医薬品を補給した。
兵士たちは温かい粥を食べ、予防接種を受け、病に倒れる者は一人も出ない。
野営地では浄水器が稼働し、疫病の影すら見えなかった。
義信は馬を進め、列を見渡しながら呟いた。
「戦う前に環境を制す。
勝利はすでに始まっている」
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秋風は冷たく頬を撫で、草原の波は果てしなく続いていた。
その大地を進む軍の姿は、ただの遠征ではなかった。
それは未来の戦争様式――人類史を変える新たな軍事の姿であった。
行軍が始まって数日、満州の大地は朝晩の冷え込みと日中の乾いた風に覆われていた。
これまでなら兵士の列はすぐに疲弊し、疫病の影が忍び寄っていたはずである。
だが今回は違った。日本軍の陣営には、清潔と秩序が貫かれていた。
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野営地の中央には、真新しい野戦病院が設置されていた。
木材と布で簡素に造られた建物であったが、内部は驚くほど整然としていた。
水場には濾過装置が置かれ、兵士たちは必ず手を洗ってから食事を受け取る。
便所は掘割式で野営地の下手にまとめられ、廃棄物は石灰で処理されていた。
北里柴三郎が考案した衛生管理マニュアルは、各部隊に徹底されていた。
「食器は煮沸せよ」「水は必ず濾過せよ」「発熱者は即隔離」
簡潔で明確な指示は、兵士たちの行動に習慣として根付いていた。
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さらに驚くべきは予防接種である。
出発前に全兵士が接種を済ませており、従来の遠征軍を苦しめた天然痘やコレラの恐怖は影を潜めていた。
副作用で倒れる者はわずかに出たが、それも医師団が即座に処置し、大事に至ることはなかった。
これまで「十人に一人は病に斃れる」と言われた行軍において、
日本軍の損耗はほぼゼロであった。
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兵士の一人が語った。
「こんなに腹いっぱい食えて、病気の心配もない行軍なんて初めてだ。
家族に見せてやりたいくらいだ」
その笑顔は、軍の士気そのものを物語っていた。
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一方、後方の補給線では、後藤新平の兵站システムが威力を発揮していた。
鉄道を主軸に、輸送馬車と舟運を組み合わせた三層構造。
前線の在庫は数値化され、各基地の物資残量が板札に記され、毎夕更新された。
「小麦、残り三日分」
「医薬品、残り五日分」
数字は正確で、誰もが一目で理解できる仕組みだった。
さらに現地調達も組み込まれていた。
農村からの買い上げは公平な価格で行われ、住民に利益をもたらした。
略奪は一切禁じられ、違反者には厳罰が科される。
そのため住民は兵士に敵意を抱かず、むしろ協力的に荷を運んだ。
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補給効率は従来の三倍。
兵士の口には毎日温かい粥が行き渡り、肉や野菜も欠かされなかった。
「腹が満ち、病気に倒れぬ軍は、恐るべき力を持つ」
と後藤は静かに語った。
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北里と後藤の体制は、互いを補い合っていた。
病を防ぐ衛生管理と、食糧を切らさぬ兵站。
この二つが揃ったことで、日本軍はこれまで誰も想像し得なかった水準の健康と士気を維持していた。
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視察に訪れた大村益次郎は、野営地を歩きながら小さく呟いた。
「従来の軍事作戦では、兵の半数が病に倒れても不思議ではなかった。
だがここでは、誰も倒れない。
――これこそが未来の軍事だ」
その言葉に河井継之助が応じた。
「効率だけでなく、兵も住民も守る作戦……。
藤村様の令和の知識は、まさに人を生かす戦を形にしたのですな」
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秋風が野営地を吹き抜け、乾いた草の匂いが漂った。
その風は冷たさを孕みながらも、どこか清々しかった。
疫病も飢えもない行軍――それは、戦の常識を根底から覆す革新的な光景であった。
秋風は一層強まり、草原を渡る軍列の旗を大きく揺らしていた。
行軍が始まって十日余り、日本軍の進撃は驚くほど順調に進んでいた。
病による脱落は皆無、食糧は潤沢、補給は滞りなく続く。
この光景は、従来の軍事常識を根底から覆すものであった。
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その報はすぐさま世界へ伝わった。
各国の軍事専門家は耳を疑った。
「損失率が従来の十分の一以下だと?」
「疫病で千人規模が死ぬのが常識だぞ……」
「北里という医師が防疫体制を築いたと聞く。もし事実なら、軍事史に革命をもたらす」
欧州の軍事雑誌には、早くも「日本の統合作戦理論」と題した特集が組まれた。
「兵站・防疫・心理戦を統合した日本軍の作戦は、ナポレオン以来の軍事思想を刷新する」
――そんな論評が紙面を飾った。
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一方、清国は激しい動揺に包まれていた。
沿岸の港湾や鉄道建設には、常に**苦力**と呼ばれる下層労働者が使役されていた。
彼らは日銭にもならぬ賃金で酷使され、栄養失調や疫病で次々に倒れていった。
労働者が一万人動員されれば、半年後には半数が消えている――それが清国の現実であった。
だが、日本軍の兵站線では違っていた。
現地で雇われた労働者には明確な契約と報酬が与えられ、食糧と医療が保障されていた。
「労働者は人である。兵站はその協力なくして成立しない」
後藤新平の方針が貫かれていた。
作業に従事した男はこう語った。
「日本の軍は、我らを人として扱う。
清国の役人は鞭を振るったが、日本は銅銭と飯を与え、薬までくれる。
これほどの違いがあるとは思わなかった」
労働者の間で「日本軍に付けば生き延びられる」という評判が広がり、
日本軍は自然と現地の協力を得ていった。
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この報はまたたく間に清国宮廷にも届いた。
役人たちは顔を青ざめさせた。
「日本軍の進軍速度は予想をはるかに超えている。
疫病に倒れる兵がいない……。まるで鉄の軍だ」
皇帝に近しい高官は震える声で言った。
「もし日本のやり方が広まれば、我らの支配は瓦解する。
苦力を搾取する体制こそが帝国を支えてきたのだ」
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ロシアもまた慌てていた。
シベリア鉄道の計画を進めつつあったが、その工事現場ではやはり苦力に酷似した労働者が酷使され、病で倒れていた。
日本軍の報せを受けた将官は机を叩いた。
「馬鹿な! 疫病ゼロだと?
補給を三倍にした? そんな芸当ができるはずがない!」
だが報告は続いた。
「現地住民は日本軍に協力的。
彼らは金銭と医療を受け取り、労働に従事している。
反乱や逃亡はほとんど起きていません」
将官は沈黙した。
日本が新たな戦争の形を創り出した事実を、誰も否定できなかった。
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義信は前線で冷静に戦況を見つめていた。
「戦は兵の数ではない。
補給と衛生、そして人の心を制する者が勝つ」
彼の言葉に、大村益次郎は深く頷いた。
「この十一歳の指揮官が、軍事の未来を指し示している……」
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秋風は冷たさを増し、草原を渡る波のような音を立てていた。
その風に揺れる軍旗は、もはや単なる軍の象徴ではなかった。
新しい時代の戦争様式、人を生かし、効率を極めた軍事の姿を、世界に示す旗印であった。
秋の空は高く澄み、夕陽が草原を赤く染めていた。
満州進出の第一段階――兵站線の確立と主要拠点の制圧は、予定より早く完了した。
疫病による損耗はゼロ、食糧不足もなく、兵士たちは疲労の中にも確かな笑みを浮かべていた。
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義信(十一歳)は指揮所に戻り、幕僚たちの報告を受け取った。
「鉄道輸送、予定通り稼働中。
兵站基地、在庫余力あり」
「野戦病院、収容者なし。発熱者も出ていません」
「現地労働者の協力、順調。逃亡者ゼロ」
その一つひとつの言葉が、勝利を裏付けていた。
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義信は地図の上に手を置き、静かに言った。
「父上が語った未来の戦は、ここに形となった。
兵を守り、民を生かし、無駄を排した進軍。
これが、人を犠牲にしない戦の姿だ」
彼の声は幼さを超え、堂々とした将の響きを帯びていた。
幕僚たちは深く頷き、その場に静かな感銘が広がった。
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大村益次郎が口を開いた。
「義信君、この作戦は軍事史を塗り替える。
しかし忘れるな。戦はこれで終わりではない。
これから先、清国もロシアも黙ってはいまい」
義信は真剣にその言葉を受け止め、答えた。
「承知しています。
だが我らには兵站も防疫も、民の支持もある。
いかなる大国を相手にしても、この方法で必ず勝てる」
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夕暮れの野営地では、兵士たちが粥をすすり、笑い声を交わしていた。
労働に従事した現地住民にも温かい食事が配られ、子供たちの声が聞こえる。
それは軍の駐屯地というよりも、ひとつの町が生まれたかのような光景だった。
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河井継之助はその様子を眺め、ふと呟いた。
「これほどの行軍を、かつて誰が想像できただろうか。
兵も民も共に笑う戦――。
義信殿、あなたは戦を変えましたな」
義信は微笑み、遠くに広がる草原を見つめた。
「まだ始まりにすぎません。
満州、朝鮮、東南アジア――三正面はすべて繋がっている。
我らは必ず、新しい秩序を築きます」
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その瞳には、少年らしからぬ決意が燃えていた。
秋風がその横顔を撫で、軍旗をはためかせた。
それはただの軍旗ではない。
人類史を変える戦いの始まりを示す旗であった。