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258話:(1878年6月/梅雨)梅雨の朝鮮外交

六月、梅雨の雨は連日城下を濡らし、瓦の軒を叩く音が昼夜を問わず響いていた。

 空は厚い雲に覆われ、光は鈍く、地面には絶えず泥が溜まる。

 だがその重苦しさの中で、東京城の奥座敷にはさらに濃密な空気が漂っていた。

 ここでいま、朝鮮半島の運命を左右する決断が下されようとしていた。



 藤村総理大臣は障子越しの雨音に耳を澄ませながら、机上の地図を見つめていた。

 その横に、大久保利通が控えている。薩摩仕込みの鋭い眼差しは、戦国武将のような緊張を漂わせていた。


 藤村は静かに口を開いた。

 「大久保。今度の朝鮮外交、我らが取るべき道は一つだ。

  ――清国依存を完全に断ち切る。」


 その声は低いが、確固たる響きを持って広間に落ちた。



 大久保は深く頷き、即答した。

 「承知しております。これまでの交渉はすべて中途半端。

  いくら近代化を説いても、朝鮮は土壇場で清国の庇護に逃げ込む。

  その構造を断ち切らねば、未来はありません」


 藤村は机上の地図に手を置き、指で線を引いた。

 「この半島の通信と交通を日本が握る。

  清国との往来を物理的に遮断する状況を作り、選択の余地を与えない。

  我らの圧倒的な実績と力を背景に、既成事実を積み上げ、保護国化を事実上完成させる」



 大久保の口元にわずかな笑みが浮かんだ。

 「大胆にして明快なお考えです。

  私はそのために、後藤新平の行政システムを丸ごと移植するつもりです。

  清国式の制度はすべて廃し、日本式の官僚機構に改める。

  三か月で、表も裏も完全に我らの手に置いてみせましょう」


 藤村は視線を上げ、大久保の決意を確かめるように見つめた。

 「よい。時間をかけるな。曖昧さを残せば、必ず清国が干渉する。

  一気呵成に事を運び、朝鮮を日本の傘下に収めるのだ」



 雨脚が一段と強まり、障子に細かい水滴が飛び散った。

 その音を背に、大久保は再び深々と頭を垂れた。

 「御意。清国の影を完全に断つため、政治・軍事・行政の三本柱を即座に動かします」


 この瞬間、朝鮮半島の未来は、すでに東京の雨音の中で決せられていた。

梅雨の雨はやむ気配を見せず、東京の町は薄暗い雲の下で煙のような霞に覆われていた。

 その湿った空気を切り裂くように、外務省の作戦会議では地図と書状が次々に机の上に積まれていった。



 陸奥宗光が巻物を広げ、鋭い声を放った。

 「まずは清国との通信・交通を断ち切る。

  陸路も海路も、日本の管理下に置き、朝鮮の対外関係は日本経由に一本化する。

  電信線は日本式に張り替え、港湾には日本の検査官を常駐させる。

  清国へ通じる道を閉ざせば、朝鮮は自ずとこちらを向く」


 その言葉に、一同は頷いた。

 墨で描かれた線が、朝鮮半島を縦横に走り、日本の港と結ばれていく。



 大久保利通は筆をとり、力強く書き加えた。

 「三か月で体制を変える。

  後藤システムを朝鮮全土に即時導入し、行政・軍事・経済のあらゆる制度を日本式に統一する。

  清国式の役所は廃止し、官僚は再教育、あるいは新任用に切り替える。

  朝鮮に“旧制度”が残らぬよう徹底せよ」


 その厳しさに、場の空気はさらに引き締まった。



 後藤新平がすかさず言葉を添える。

 「官僚制度は私が直ちに再設計する。

  戸籍、租税、軍役、警察――四つの柱を日本式に揃え、地方から中央まで一本の線で繋ぐ。

  これにより清国式の古い仕組みは根絶され、三か月後には“朝鮮の行政は日本語でしか動かぬ”状態になる」


 机上に並んだ図面には、新たに描かれた官庁舎や兵営の設計が示されていた。



 藤村総理大臣はその様子を見渡し、静かに告げた。

 「朝鮮に選択肢を残すな。

  我らが与える仕組み以外に、彼らが依拠できる制度があってはならぬ。

  曖昧さを残せば、必ず清国が影を差し込んでくる。

  だからこそ、一気呵成に進めよ」



 その言葉に、広間の重臣たちは一斉に頷いた。

 墨の地図に引かれた線は、雨雲の下でなお鮮やかに輝いて見えた。

 それは、清国との古き絆を断ち切り、日本式の新秩序を朝鮮全土に刻み込むための路筋であった。

外務省での決定から間もなく、梅雨の雨脚がいっそう強くなったころ、ロシア帝国公使館から急報が届いた。

 重厚な書簡は赤い蝋で封じられ、その印には双頭の鷲が睨みを利かせていた。



 陸奥宗光が封を切り、広間で読み上げる。

 「――朝鮮半島の急速な日本化は、極東における勢力均衡を根本から覆す。

  ロシア帝国はこれを断固として容認できない。

  シベリア鉄道計画にも重大な支障を来すものであり、必要とあらば武力行使も辞さぬ」


 読み上げが終わると、場内に重苦しい沈黙が落ちた。

 蝋燭の火が揺れ、机上の地図に描かれた朝鮮半島が赤く照らされた。



 さらに追い打ちをかけるように、沿海州方面からの報告がもたらされた。

 「ロシア太平洋艦隊が朝鮮近海に展開。

  艦砲を半島へ向け、威嚇射撃の準備を整えている模様」


 その声に、若い官僚の一人は息を呑んだ。

 「……このままでは衝突は避けられぬのでは」



 だが、大久保利通は眉一つ動かさず、低い声で言った。

 「想定通りだ。ロシアは必ず動く。

  しかし我らには対抗策がある」


 彼は机上の地図に手を置き、指先で北方から半島へ迫る矢印をなぞった。

 「ロシアの進出は遅く重い。

  我らは既に制度を敷き、港と電信を掌握している。

  既成事実は日ごとに積み重なり、朝鮮はすでに日本の傘下にある」



 陸奥は険しい面持ちで問い返した。

 「しかし軍事圧力は現実です。

  艦砲の一斉射撃が始まれば、朝鮮は恐怖に駆られ、清国かロシアへ逃げ込むやもしれません」


 大久保は即座に答えた。

 「だからこそ、我らが冷静さを失ってはならぬ。

  ロシアの威嚇を逆に利用し、朝鮮にこう告げよ――

  『ロシアの脅威から守れるのは日本だけだ』と」



 その言葉に後藤新平が頷き、補足する。

 「恐怖は最大の説得材料となります。

  制度改組を急ぎ、同時に“保護”の名で日本軍を駐屯させれば、朝鮮政府は逃げ場を失う」


 北里柴三郎も冷静に加えた。

 「戦端が開かれれば、ロシア軍は防疫面で必ず後れを取ります。

  彼らの兵は寒冷地に慣れていても、湿潤な夏の半島では病に倒れるでしょう。

  我らは医学で優位を保てます」



 藤村総理大臣は静かに皆を見渡し、確かめるように言った。

 「ロシアの艦砲は脅しにすぎぬ。

  彼らが一発撃つごとに、我らの国際的立場は強まる。

  重要なのは、軍事・外交・経済すべてで備えを示し、決して動揺せぬことだ」


 重臣たちは深く頷いた。

 ロシアの影は確かに大きい。だがその圧力を逆手に取り、朝鮮を完全に日本の傘下へと組み込む――その道筋が、ここに確立されつつあった。



 外の雨音はなお激しく、障子を打つ水滴はまるで大国の威圧のように響いていた。

 だが広間に座す者たちの眼差しは揺るがず、嵐を受け止める覚悟がそこにあった。

重苦しい雨音のなか、藤村総理大臣は静かに立ち上がった。

 机上の地図に墨のしずくが落ちたかのように、広間の空気は張りつめていた。



 「よいか。ロシアの圧力は想定内だ。

  彼らの艦砲は脅しにすぎず、我らの備えを揺るがすものではない。

  これより、多面的戦略を発動する」


 その声は低く、しかし広間の隅々まで響き渡った。



 榎本武揚が先に進み出て、海軍案を示す。

 「我が海軍力は、すでに太平洋艦隊を凌駕しています。

  近代化された巡洋艦と砲艦は、いずれもロシア艦を上回る。

  制海権はこちらの手にあり、もし彼らが火を放てば、直ちに制圧できましょう。

  加えて、満州作戦の準備により、陸軍の兵站も整っております。

  軍事的に恐れる要素はございません」



 陸奥宗光が外交文書を掲げる。

 「イギリス・フランス・ドイツにはすでに通達済みです。

  『ロシアの極東拡張を阻止する』という旗印を掲げれば、彼らは我らを支持する。

  すでにロンドンとパリからは好意的な返答が届いています。

  ロシアが動けば、国際的に孤立するのは彼らの側だ」


 広間の重臣たちは小さく安堵の息を漏らした。



 渋沢栄一が眼鏡を光らせながら口を開いた。

 「経済でも手は打ってあります。

  ヨーロッパ市場における日本の金融的影響力を用い、ロシアの資金調達を妨害する。

  彼らがシベリア鉄道の資金を求めても、我らが圧力をかければ融資は滞る。

  戦費を調達できぬ国は、長期にわたり戦えません」



 北里柴三郎は冷静に補足した。

 「さらに、兵站と防疫で我らは優位に立ちます。

  ロシア兵は寒冷地には強くとも、梅雨と酷暑の半島では必ず病に倒れる。

  我らは既に検疫所と隔離病院を設置済み。

  医学の面でも、我が軍が圧倒的に有利です」



 その言葉に、大久保利通が結論を下すように告げた。

 「すべては織り込み済みだ。

  ロシアの威嚇を逆手に取り、朝鮮にこう告げよ――

  『ロシアの脅威から守れるのは日本だけである』と。

  これで彼らは自ら進んで日本に依存せざるを得なくなる」



 実際に、朝鮮政府からの返答は迅速だった。

 「ロシアの艦砲が迫る中、日本が守ってくれるならば、我らは完全に日本に従います」


 この一文が届いた瞬間、広間には安堵とともに静かな笑みが広がった。

 大久保は机に筆を走らせ、決裁印を押した。

 「これでよい。ロシアの介入はむしろ我らを強めた」



 藤村総理大臣はゆっくりと立ち上がり、重臣たちに言い渡した。

 「ロシアの影は大きい。だが我らの国力はさらに大きい。

  軍事、外交、経済、医学――すべてを重ね合わせれば、ロシアといえど我らの歩みを止められぬ。

  この梅雨の雨がやがて晴れる頃、朝鮮は完全に日本の傘下にある。

  その未来を、今日ここに確定させたのだ」



 雨音はなお強く障子を叩いていた。

 だがその響きはもはや不安ではなく、勝利を確信させる太鼓のように聞こえていた。

 嵐の中で結ばれた新秩序は、やがて朝鮮半島全体を覆うことになる。

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