248話:(1877年8月/晩夏)晩夏の新展開
八月の江戸は、夏の熱を残しながらも、どこか陰りを帯びていた。
昼は蝉の声がなお力強く鳴き響いていたが、夕暮れになると草むらから秋の虫の音が混じり始める。
空は高く澄み渡り、白い入道雲が遠くに浮かぶ。だがその輪郭は少しずつ崩れ、季節の移ろいを告げていた。
城下の通りには盆踊りの準備をする人々の姿があり、子どもたちは浴衣姿で手を叩きながら歌を口ずさんでいる。
夏の名残を惜しむ賑やかさの一方で、江戸城の石垣の内側には、もっと重く、熱を帯びた空気が漂っていた。
そこでは今まさに、日本という国の進路を変える決定が下されようとしていた。
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江戸城大広間。
障子越しの光はやわらかく、外の蝉の声だけが途切れず響いていた。
畳の上には重厚な巻物が並び、武官・文官が一堂に会している。
その中心に座る藤村総理大臣が、静かに立ち上がった。
「諸君。――藩札処理は完全に成功した。
その成果をもって、我らは新たな展開に進む。
満州進出のための軍事費蓄積が完了したのだ」
広間がざわめきに包まれた。
七千万両処理の勝利に続く次の大きな一歩――その重みが全員の胸を震わせた。
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榎本武揚海軍大臣が即座に立ち上がった。
その眼差しは鋭く、声は力強かった。
「北里博士の防疫技術により、満州の厳しい気候における疫病対策は万全です。
兵士の健康を守る体制は、世界のどの軍隊にも勝ります」
島津久光内務大臣も巻物を掲げ、報告を重ねた。
「後藤の兵站管理システムにより、補給・輸送・通信を一体で運用する仕組みが整いました。
軍事作戦の成功率は飛躍的に高まります」
慶篤副総理が深く頷き、言葉を添える。
「医学と行政の力が軍事を支える――これぞ近代的な戦争準備です。
刀や銃だけでなく、制度と知識が勝敗を決めるのです」
陸奥宗光外務大臣は机に手を置き、外交の側面を語った。
「外交面でも、満州進出の国際的正当性を確保する準備は整いました。
欧州列強に対しても、我らの行動は正当なものであると説明できるでしょう」
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藤村は静かに頷き、言葉を重ねた。
「国内の安定は盤石となり、財政は堅固となった。
次は外に目を向ける時だ。
満州進出は、我らが積み重ねたすべてを試す場となろう」
障子の外からは、夏の名残を惜しむような蝉の声が、なおも響き渡っていた。
だが広間にいる者たちの心は、すでに北へ、海を越えた満州の地へと向かっていた。
晩夏の江戸は、陽が傾くと同時に蒸し暑さが増す不思議な季節だった。
夕立の後の路地には白い湯気が立ち、石畳からはむっとする熱気が立ち上る。
家々の軒には赤トンボが舞い、子どもたちの浴衣姿が夕暮れの光に浮かんでいた。
その喧噪の向こう、江戸城の大広間では、静かながらも熱を帯びた議論が進んでいた。
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松平春嶽財務大臣が立ち上がり、巻物を広げた。
その声は湿った空気を押し分けるように朗々と響いた。
「総理、諸閣下。――専売証券化システムの技術供与が本格化しております。
フランス、ドイツ、ロシアからの要請が相次ぎ、年間三百万両のライセンス収入を確保しました」
広間がざわめいた。
財政を立て直すために生まれた仕組みが、いまや国境を越えて“輸出産業”に変わりつつあるのだ。
小栗上野介が巻物の数字を確認し、冷静に補足した。
「技術供与は長期契約であり、安定収入として見込めます。
これは基金運用とは別系統の柱となり、財政基盤をさらに強固にします」
渋沢栄一産業大臣も続けて報告した。
「永久コンソル債の二次流通市場も整備され、金融市場の深化が進みました。
海外の投資家も参入し、江戸はアジア金融の中心地として評価され始めています」
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藤村総理大臣は深く頷き、満足そうに言った。
「知識と制度を輸出し、国際的信用を得る――これこそ新しい時代の富の形だ。
物資に頼らず、知識を武器とする。日本はその先頭を走っている」
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そのとき、机の端に座っていた幼子が小さく手を挙げた。
義親――四歳にして令和の知識を学び続ける少年である。
「父上……僕、化学の勉強を始めてみたいです。
物質の構造と、反応の仕組みに興味があります」
広間が静まり返った。
その幼い瞳は真剣で、冗談や思いつきではないことが誰の目にも分かった。
藤村は一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに笑みを浮かべた。
「化学か……。確かにお前なら理解できるだろう。
化学は物理と密接に結びつき、産業や医学の基盤となる。
それを学べば、国の未来にさらに大きく寄与できるはずだ」
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義親は小さな指で巻物に描かれた化学器具の図をなぞりながら呟いた。
「原子や分子が組み合わさって世界ができている。
もしその仕組みを解き明かせれば、物質の変化を自由に操れる。
父上、これは政治や経済とも繋がると思います。
火薬も、染料も、薬も……すべて化学から生まれるのですから」
春嶽は驚きに目を細め、扇を畳んだ。
「四歳児が“原子”を語るとは……未来の学者ですな」
慶篤副総理も感慨深げに言葉を添えた。
「金融と行政に続いて、化学にまで興味を広げるか。
義親こそ、学術の天が与えた才であろう」
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外では再び夕立が始まり、畳を打つ雨音が響き渡った。
しかし広間に集う者たちの心は、その音をかき消すほどの熱で満たされていた。
金融の国際展開と、義親の新たな興味――それは、日本の未来に新しい道を切り拓く兆しであった。
晩夏の江戸は、夕暮れになるとわずかな涼しさを運んできた。
日中は蝉の声が耳を圧するように響いていたが、夕刻には蜩の鳴き声がそれに代わる。
空は茜から群青へと移ろい、瓦屋根の上を赤とんぼが舞った。
季節の変わり目の柔らかな光が、江戸城の障子越しに差し込んでいた。
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広間では、藤村総理大臣が重臣たちを前に、新たな巻物を広げていた。
その眼差しは厳しくも穏やかで、声には未来を見据える響きがあった。
「諸君。藩札処理が成功し、国は盤石となった。
次に求められるのは、未来を担う後継者の確立である」
重臣たちは息をのんで耳を傾けた。
「義信は、令和の軍事理論を完全に習得しつつある。
戦略、兵站、情報、衛生――その全てを理解し、軍事的天才としての資質を備えている」
榎本武揚海軍大臣が深く頷き、言葉を添えた。
「義信様は、すでに我らが軍議においても意見を述べ、その的確さで将官たちを唸らせております。
戦略眼は天与の才でありましょう」
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藤村は次に、温厚な笑みを浮かべた。
「久信は、清廉潔白で温厚篤実な人格をもっている。
その誠実さは人々の心を捉え、すでに民衆から“理想的指導者”と仰がれている」
島津久光内務大臣が書状を掲げた。
「地方からの報告にも“久信様と話すと心が安らぐ”とあります。
彼は人心を掌握する特別な力をお持ちです」
慶篤副総理は微笑み、言葉を重ねた。
「義信は軍略の才を、久信は人望を。
二人の対照的な力が、国を支える双柱となるでしょう」
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そして藤村は、幼い義親に視線を向けた。
「そして義親は、私の真の後継者である。
政治、経済、学術――あらゆる分野で令和の知識を吸収しつつある。
しかも、今は化学への興味を示した。学びの幅は無限に広がっている」
渋沢栄一産業大臣が声を上げた。
「金融市場の仕組みを理解した上で、さらに化学にまで関心を持つとは。
これは新しい産業文明を生み出す原動力となりましょう」
後藤新平も頷き、力強く言った。
「義信様は軍事、久信様は人心、義親様は学術と政治。
三人それぞれの強みを活かせば、理想的な体制が築けます」
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その頃、学習室でも三兄弟の姿があった。
義信は地図を前に、兵站路を赤線で引いていた。
「満州作戦は補給線の確保が命です。兵站・情報・防疫を統合した総合戦略が必要ですね」
その眼差しは真剣で、大人顔負けの冷静さを漂わせていた。
久信は子どもたちと触れ合いながら微笑んでいた。
「僕は兄たちのように特別な才能はないけれど、みんなが笑顔になれるお手伝いをしたいです」
その言葉に町人の子らは声を上げて喜び、素朴な人柄が自然と人心をつかんでいた。
義親は父から与えられた帳面に筆を走らせていた。
「原子、分子、化合物……これらは物理学とも繋がっている。量子の考え方も面白い」
幼いながらに化学の基礎を語る姿は、まさに天才の萌芽であった。
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慶篤副総理は三人の姿を見守りながら呟いた。
「義信は軍事の天才、久信は人格的指導者、義親は学術の天才。
三者三様の才が一国に備わったことは、奇跡に等しい」
篤敬が感嘆を込めて言った。
「三兄弟それぞれの個性が鮮明で、互いに補い合っている。これほど理想的な後継者体制はありません」
篤守も頷き、声を添えた。
「特に久信様の誠実な人柄には、私も学ぶことが多いです」
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障子の外では、晩夏の風が竹林を揺らし、蜩の声が重なった。
三兄弟の未来は、季節の移ろいのように確実に形を整えつつあった。
国を支える次世代の体制は、もはや揺るがぬ輪郭を帯び始めていたのである。
晩夏の夜、江戸の空には赤い残照がかすかに残り、堀の水面に映る灯がゆらゆらと揺れていた。
虫の音が響き、どこか秋の気配を先取りするような涼風が、竹林を抜けて城の座敷に吹き込んでいた。
藤村家の夕餉は、今宵も閣僚たちと共に賑やかに催されていた。
食卓には秋を先取りした膳――秋刀魚の塩焼き、茄子の煮浸し、栗を添えた麦飯、そして氷で冷やした甘酒が並ぶ。
その香ばしい匂いに包まれながら、家族と重臣たちは今日の成果を振り返っていた。
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藤村総理大臣は盃を掲げ、静かに言葉を切り出した。
「諸君。藩札処理の完全成功により、満州進出のための軍事費蓄積は整った。
金融システムの国際展開は軌道に乗り、三百万両規模のライセンス収入を確保した。
そして何より――三兄弟それぞれが、己の道を歩み始めた」
春嶽財務大臣は盃を置き、深い声で言った。
「財務省としても、継続収入が確保されたのは何よりの安心です。
財政の基盤は、これまで以上に強固となりました」
慶篤副総理はゆっくりと頷き、言葉を重ねた。
「義信は軍事の天才として、久信は民に愛される人格者として、義親は学術と政治の天才として。
三者三様の力が備わった。副総理として、次代を託すに足る体制が完成したと確信します」
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義信は背筋を正し、真剣な眼差しで言った。
「僕は軍事面での責任を自覚しています。
兵站、情報、防疫を統合した戦略を磨き、国防に貢献します」
久信は少し照れたように笑い、しかし真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「僕は特別な才能はないけれど、人々が安心して暮らせるよう、誠実に努力します。
笑顔を増やすことが、僕の役割だと思っています」
義親は盃を持つ小さな手を少し上げ、幼いながらもはっきりと語った。
「兄たちとは違う分野で国に貢献したいです。
化学を学べば、薬や染料、火薬や金属の技術に繋がるはず。
政治や経済に応用できる知識として、必ず役立てます」
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渋沢栄一産業大臣は感嘆の声を漏らした。
「四歳にして“化学を政治に応用する”とは……。
義親様の発想は、新しい産業文明を先取りしていますな」
後藤新平も力強く言った。
「義信様は軍事で国を護り、久信様は人心で国をまとめ、義親様は知識で国を導く。
理想的な三兄弟の役割分担です」
清水昭武からの電信も読み上げられた。
「北海道の開発も進み、満州進出の兵站基地としての準備は万全です」
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藤村は盃を掲げ、結んだ。
「満州進出の準備は整い、金融と行政の輸出は成功した。
そして三兄弟の成長は、国の未来を保証するものだ。
義信の軍略、久信の人望、義親の知識――この三つが揃えば、日本はどこへでも進める。
新たな時代の扉が、今まさに開かれようとしている」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が夏の夜に響いた。
障子の外では、蜩と鈴虫の声が重なり、晩夏の夜を彩っていた。
その音はまるで、新しい時代の鼓動のように聞こえていた。