246話:(1877年6月/夏)夏の政治安定
六月、江戸の空は夏の陽射しに覆われていた。
梅雨が明けきらぬまま訪れる晴れ間は蒸し暑く、湿り気を含んだ風が城下を吹き抜ける。
軒先には風鈴が下げられ、かすかな音を響かせていた。
町人たちは団扇を片手に往来を急ぎ、子どもたちは川辺で水遊びに興じていた。
強い陽光の中に漂う湿気と蝉の声――夏の訪れを告げる音と匂いが町を満たしていた。
しかし江戸城大広間の空気は、季節の暑さに負けぬほどの熱気に包まれていた。
藤村総理大臣は重臣たちを前に、机上に広げられた巻物を指で叩きながら告げた。
「諸君。――長きにわたり国家の頭痛であった武士層の不満、これを完全に解決する制度を施行する」
重臣たちはざわめき、顔を見合わせた。
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春嶽財務大臣が身を乗り出し、真剣な声で問うた。
「総理、それは新たな財政負担を生むのではありませんか」
藤村は首を横に振り、静かに言葉を重ねた。
「これまでの年金は現金給付であった。
だが今後は基金運用による利子収入へと置き換える。
支給額は安定し、運用益により実質的には増額となる。
しかも一般会計からの繰入れを減らし、財政負担も軽減される」
広間に沈黙が落ちた。
やがて小栗上野介が巻物の数字を確かめ、目を見開いた。
「確かに……利子収入に置き換えれば、給付総額はむしろ増える。
士族にとっては恩恵が拡大し、国にとっては負担が減る。
双方にとって利益しかない」
慶篤副総理が深く頷き、穏やかに言った。
「これなら旧士族の不満は完全に解消されましょう。
“国は我らを見捨てていない”という感覚が広がれば、彼らは政府の支持者へと転じる」
島津久光内務大臣も声を添えた。
「家督相続とも重なり、武士社会の秩序を守ったまま近代制度へ移行できる。
これほどの妙案はあるまい」
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その報告はすぐに江戸の武家屋敷へと広まった。
縁側で団扇をあおぐ老人は、手にした巻物を見て目を細めた。
「年金が利子で入る……しかも減らぬどころか増えるとな」
隣に座る息子が驚いたように言った。
「これで暮らしは安定します。
父上の代も、子の代も、国に守られるのですね」
老人はしわだらけの手で団扇を置き、静かに頷いた。
「これでわしらも安心して国を支えられる」
かつて不満を募らせていた士族層の心に、政府への信頼が根を下ろしていった。
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江戸城大広間に戻り、藤村は重臣たちを見渡した。
「諸君。士族の支持を得ることで、政治の安定は盤石となる。
武力反乱の芽は完全に摘み取られ、国は内から揺らぐことはない」
春嶽が静かに言った。
「財務省としても、これで心置きなく未来を描けます。
政治の安定こそ、財政の安定の基盤ですからな」
藤村は深く頷き、巻物を閉じた。
「夏の陽射しは強くとも、我らの国は揺るがぬ。
安定の上にこそ、成長の果実は実る」
障子の外では、蝉の声が一層高まり、夏の到来を告げていた。
だが大広間に響いていたのは、それを上回る確かな自信の声であった。
盛夏の陽射しは強烈で、江戸城の白壁をぎらりと照らしていた。
堀に映る空は真っ青で、蝉の声が一斉に響き渡っている。
その暑気の中にあっても、江戸城の研究所には涼やかな熱気が満ちていた。
それは炎天下の喧噪とは異なる、知の探究が生む静かな熱であった。
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北里柴三郎は顕微鏡の前に座り、弟子たちに指示を飛ばしていた。
机の上には整然と並ぶ試験管、異国から取り寄せた最新の器具、そして欧州から届いたばかりの学術誌。
研究所の壁には世界地図が掲げられ、各国の都市に赤い印が打たれている。
それはすべて、日本との共同研究の拠点を示すものだった。
「ドイツからは追加研究費二万マルク、フランスからは実験動物提供の申し出。
イギリスは研究員十名を派遣し、アメリカからも最新の顕微鏡が贈られることになった」
助手の声に、北里は静かに頷いた。
「よろしい。これで我らの研究はさらに加速する。
ここ江戸こそ、世界細菌学の中心地となる」
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その報告はすぐに藤村総理大臣の耳にも届いた。
江戸城大広間に集まった重臣たちの前で、陸奥宗光外務大臣が興奮気味に巻物を読み上げる。
「欧州各国の研究機関が、日本を細菌学研究の拠点として正式に認めました。
各国からの研究費と共同研究費が、国家収入に直接貢献しております!」
榎本武揚海軍大臣が笑みを浮かべ、声を重ねた。
「軍事医学でも恩恵は大きい。
北里の研究が兵士の生存率を飛躍的に高めている。
外国海軍からも“日本の血清を購入したい”との要望が届いております」
春嶽財務大臣が扇を閉じ、重々しく言った。
「研究費が国家収入になる……前代未聞のことですな。
学術がそのまま財政基盤となるとは、まさに“知の輸出”」
小栗上野介が続けた。
「これにより、財政はさらなる余力を得るでしょう。
借換えと投資の循環に加え、研究という新たな収入源が加わったのです」
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北里自身も、広間に呼ばれ、静かに口を開いた。
「研究は一人の学者のものではなく、国家の信用を背負っています。
我らの成果が評価されることは、そのまま日本国家の威信を高めることになる」
藤村総理大臣は深く頷き、言葉を添えた。
「財政と医学が一体となった今、日本は真に“細菌学帝国”と呼ばれるにふさわしい。
知識こそ最大の資産だ」
慶篤副総理も盃を掲げ、力強く言った。
「学術と財政の融合は、政治の新しい形を示しています。
民衆も誇りを持ち、国際社会も尊敬を寄せている」
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江戸の町にも、この動きはすぐに広がった。
長屋の井戸端で、町人たちは囁き合った。
「北里先生の研究に外国が金を払うらしいぞ」
「すげえな、日本が学問で世界を稼ぐ時代か」
「俺たちの子どもも、学問をすれば世界で食っていけるんだな」
人々の目には希望の光が宿っていた。
雨後の青空のように、未来が開けていく感覚が広がっていた。
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藤村は静かに総括した。
「士族の不満を解き、学術で財政を潤す。
日本は内外ともに安定を得た。
これが“夏の政治安定”だ」
障子の外では蝉の声が鳴り響き、夏の陽光が畳に射し込んでいた。
国の未来は、その光と同じように明るく照らされていた。
真夏の陽射しは、江戸の白壁をじりじりと焼いていた。
蝉の声は朝から絶え間なく響き、堀に映る空は澄んだ青で満ちていた。
町人たちは団扇をあおぎ、氷水を売る屋台には行列ができていた。
熱気に包まれる江戸の町をよそに、江戸城の大広間では海外に目を向けた議論が始まろうとしていた。
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後藤新平が立ち上がり、巻物を広げた。
その眼差しは鋭く、声には確信が宿っていた。
「総理、閣僚の皆様。日本で築いた行政システムを、海外へ輸出する時が参りました。
朝鮮、台湾――これら近隣の地に“日本式”を導入し、技術料を収入として国家に還元いたします」
広間に静かなざわめきが走った。
春嶽財務大臣が目を細め、慎重に問う。
「行政制度を輸出……? 確かに理屈はわかりますが、果たして受け入れられましょうか」
後藤は頷き、言葉を重ねた。
「制度はすでに成果を証明しています。
財政均衡、年金基金、社会保険、都市計画――これらを組み合わせた“日本式”は、近代国家の理想形です。
各国が学びたいと求めている。ならば我らが主導し、体系化して提供するのです」
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藤田小四郎が補足するように口を開いた。
「実務的にも可能です。
我らの役所の方式を翻訳し、現地役人に教授すればよい。
教育と監督を組み合わせ、数年で定着させられましょう」
島津久光内務大臣が深く頷き、扇を畳んだ。
「地方統治の経験を持つ我らだからこそ可能なのだ。
“売るものは物資ではなく制度”――新しい時代の商いですな」
慶篤副総理は杯を置き、穏やかな笑みを浮かべた。
「民間の活力に頼るだけでなく、国家が知識そのものを輸出する。
これが“日本式”の国際ブランド化につながるのでしょう」
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坂本龍馬が笑い声を上げた。
「面白い! 今までは銃や船を輸入していたのに、これからは制度を輸出するとは。
国が商売人になる時代が来たんですな」
岩崎弥太郎も真剣な顔で頷いた。
「制度が安定していれば、商人も安心して投資できる。
我ら政商にとっても追い風となりましょう」
春嶽が巻物を手に取り、数字を確かめた。
「導入費用に対して得られる技術料は相当な額になる。
財政収入の新しい柱となりますな」
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藤村総理大臣は静かに言葉を結んだ。
「無増税で債務処理を成し遂げ、成長と安定を両立させた今。
次に世界へ広げるのは“日本式”という知恵そのものだ。
我らは物資の輸入国ではなく、制度の輸出国として歩み始める」
障子の外では強い風が木々を揺らし、蝉の声が一層大きくなった。
夏の熱気は、国外へと広がる日本の勢いを象徴しているかのようであった。
夕暮れの江戸の空は赤く染まり、堀の水面には黄金の光が揺れていた。
蝉の声は弱まり、代わりに蛍が飛び交い始め、夏の夜の訪れを告げていた。
城下の通りには涼を求める人々が集まり、氷水や冷やし瓜を売る屋台が賑わいを見せていた。
その頃、江戸城大広間では、さらに歴史を動かす報告が届けられていた。
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陸奥宗光外務大臣が巻物を広げ、声を張り上げた。
「総理、各国政府が我が国の債務処理手法を研究し、導入を希望しております!
英国、フランス、ドイツ、アメリカ――いずれも“日本モデル”を模範として認めました」
広間にどよめきが広がった。
春嶽財務大臣が扇を閉じ、感慨深げに言った。
「無増税で七千万両を処理した我が国の手法は、確かに世界に類を見ません。
その成功が、ついに国際的収入源となるのですな」
小栗上野介が冷静に補足する。
「各国からの依頼に応じ、金融コンサルティング団を派遣する。
その報酬は技術料として国庫に入ります。
つまり、我らの知恵がそのまま外貨獲得につながるのです」
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後藤新平が立ち上がり、力強く言った。
「制度と知識を輸出することで、国は物資に頼らずとも富を得られる。
行政、社会政策、そして債務管理――すべてを“日本式パッケージ”として提供するのです」
北里柴三郎も静かに言葉を添えた。
「医学研究もまた、同様に輸出可能です。
共同研究費や留学受入料が国家収入に直結している。
学術と金融、両輪が揃ってこそ、真の強国といえましょう」
慶篤副総理は深く頷き、声を張った。
「無増税での債務処理が、外交の最大の武器となった。
我らは今や、世界の師となったのです」
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その夜、藤村家の座敷では、祝賀の夕餉が整えられていた。
食卓には鱧の吸い物、夏野菜の煮浸し、氷で冷やした甘酒。
雨上がりの湿気を吹き払うように、灯火は明るく揺れていた。
藤村総理大臣は杯を掲げ、子どもたちと閣僚たちに向けて語った。
「諸君。士族の不満を利子収入に転じて解消し、北里の研究は世界を惹きつけ、後藤の行政は海外で求められている。
そして債務管理は、各国の模範例となった。
我らの知恵そのものが、新しい産業となったのだ」
義信が真剣な顔で答えた。
「数学的に見ても、この仕組みは持続可能性が極めて高いです。
金融技術の輸出は、新たな収益モデルとなりましょう」
義親は瞳を輝かせ、続けた。
「父上、この“日本モデル”を体系化して国際市場に提供すれば、外貨を安定的に得られます。
知識こそ最大の資源です」
久信は驚いたように笑い、兄弟を見つめた。
「義親の言葉はもう大人そのものだ……。
でも僕も追いついて、必ず役に立ちます」
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春嶽は杯を置き、重々しく言った。
「財務省として、この成功を後世に伝える責務を感じております」
慶篤副総理も力強く言った。
「制度の完成と知識の輸出――これが“夏の政治安定”の証です」
藤村は盃を掲げ、結んだ。
「この夏、日本は真の意味で世界を導く国となった。
知識と制度を武器に、未来を切り拓くのだ」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が夏の夜に響いた。
障子の外では蛍が瞬き、その光は新たな時代の灯火となって江戸の空に舞い上がっていた。