245話:(1877年5月/梅雨)梅雨と成長持続
五月、江戸の空は厚い雲に覆われ、しとしとと雨が降り続いていた。
石畳は濡れて黒く光り、軒先からは水滴が滴り落ちる。
町人たちは笠を傾け、川沿いの商人は荷を濡らさぬよう必死に覆いをかけていた。
湿った空気の中に、若葉の青い匂いと土の匂いが混じり合い、梅雨特有の重たい気配を漂わせていた。
だが、その湿り気に包まれた城下とは裏腹に、江戸城の大広間には確かな活気がみなぎっていた。
七千万両処理の大事業は既に完成を迎えていたが、国家運営はそこで終わるわけではない。
成長と安定を両立させるための次の段階が、今まさに議論されようとしていた。
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藤村総理大臣は巻物を机に置き、静かに口を開いた。
「諸君。――七千万両処理は果たした。
だが国の歩みを止めてはならぬ。
景気を冷やすことなく、成長と債務処理を両立させる新体制を、この梅雨の季節にこそ固めるのだ」
広間の空気が張り詰め、重臣たちは一斉に姿勢を正した。
春嶽財務大臣が巻物を広げ、詳細を読み上げる。
「鉱山・鉄道・港湾への前倒し投資を継続しつつ、借換えシステムを完全軌道化させます。
景気を減速させずに資金を循環させることで、安定と成長を同時に確保いたします」
小栗上野介が数字を指し示し、冷静に言葉を添えた。
「借換えによる負担は既に年九十六万両。
これを超える支出を避けつつ、余剰分を産業投資に回す設計です。
債務を処理しながら景気を冷やさぬ――理想的な均衡が実現しつつあります」
慶篤副総理が頷き、静かに結んだ。
「財政の安定と成長の持続。
これは近代国家の理想像だ。
我らは今、その姿を自らの手で描き出している」
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島津久光内務大臣が席を立ち、地方の報告を紹介した。
「九州では鉱山投資により雇用が急増し、農村の若者が新たな仕事を得ています。
東北では鉄道建設が進み、米の輸送が飛躍的に効率化しました。
港湾整備により、江戸・大坂・長崎からの貿易は順調に拡大しています」
藤田小四郎が加えて言った。
「各地の役所からは、“投資と借換えが同時進行することで、地域の景気が冷えない”との報告が届いております」
春嶽は扇を畳み、感慨深げに言った。
「従来ならば、債務処理のために国は緊縮に走り、景気は必ず冷え込むもの。
だが今回は違う。
借換えと投資が一体化し、成長を阻まずに未来を拓いている」
藤村はゆっくりと頷き、結んだ。
「諸君。これこそが我らの誇るべき“成長と両立する債務処理”だ」
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障子の外では、雨脚が強まり、庭の石灯籠に水滴が滴っていた。
だが大広間に満ちる空気は、梅雨の湿り気を押し返すように熱を帯びていた。
七千万両処理の成功は過去のものとなり、今は“持続する成長”こそが目の前の目標となっていた。
雨は途切れることなく江戸の町を叩いていた。
川は濁流を抱え、軒先の樋からは絶えず水が落ちる。
湿気に包まれた路地を歩く人々の顔は、どこか憂鬱さを帯びていたが、それでも話題は明るかった。
「聞いたかい? 宝くじ公債の新しい賞品は米や塩、それに反物だってよ」
「ほう! 銭よりも実物で当たるのか。それなら家計に助かる」
「この雨で商売は冷えるが、くじが当たれば一気に潤うさ」
町人たちは濡れた草履を鳴らしながら、笑い声を交わした。
梅雨の湿り気を吹き飛ばすように、人々の心を掴んでいたのが、この新しい「物価連動型宝くじ公債」であった。
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江戸城の大広間。
藤村総理大臣は巻物を広げ、重臣たちに新たな施策を説明していた。
「従来の宝くじ公債は銭での配当や当選金であった。
だが今回は米、塩、反物といった実物を景品に組み込む。
これにより庶民の生活を直接支えると同時に、物価の安定にも寄与するのだ」
春嶽財務大臣が頷き、補足する。
「米相場が不安定でも、公債当選で得られる米は一定量。
庶民にとっては“価格変動に左右されない保険”となります。
この仕組みは、物価連動型金融商品と呼べるでしょう」
小栗上野介が扇子を置き、数字を示した。
「追加発行分は既に江戸と大坂で完売同然。
庶民の人気は衰えるどころか、さらに高まっています」
慶篤副総理が微笑み、声を添えた。
「民衆が“楽しみながら国を支える”仕組み。
これこそ政治の理想ですな」
島津久光内務大臣も目を細め、静かに言った。
「地方の農村でも評判は上々です。
“塩が当たれば一年分の保存食”“反物が当たれば嫁入り道具になる”――そう語る農婦たちの笑顔が目に浮かびます」
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町の茶屋では、雨音を背に賑わいが続いていた。
帳場の隅に貼られた当選札には、実物賞品の内容が細かく記され、人々は目を輝かせて眺めていた。
「米十俵! こりゃ一生分だ!」
「反物三反……嫁入りの時に使えるぞ」
「塩百斤! 漬物も干物も思う存分できる」
人々は盃を打ち鳴らし、声を弾ませた。
雨で沈んだ気分も、この話題の前ではたちまち晴れてしまうのだった。
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藤村は報告を受け、静かに結んだ。
「庶民の生活を守りつつ、国の財政を潤す。
宝くじ公債は単なる資金調達ではなく、社会を支える柱となった。
梅雨の空の下であっても、この国の心は晴れている」
障子の外では雨脚が強まり、庭の青葉を濡らしていた。
だが広間の空気は、庶民の笑顔を想像することで、どこか温かさに包まれていた。
雨脚は衰えることなく続き、江戸の町は灰色の帳に覆われていた。
軒下に吊るされた簾からは絶えず水が滴り、石畳は水鏡のように光を反射する。
湿った空気は人々の衣を重くし、火鉢の炭もなかなか火を噴かなかった。
だが、その重苦しい梅雨空の下で、物価の乱れは一向に起きていなかった。
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江戸城の大広間。
春嶽財務大臣が帳簿を広げ、報告を読み上げた。
「旧札の短期吸上げと新札・貯金転化策が功を奏し、物価は安定を保っています。
米価は昨年比で一割以内の変動、塩と反物も同様。
庶民の生活は混乱することなく、むしろ安心感が広がっています」
小栗上野介が補足した。
「短期で旧札を回収したのは正解でした。
市場に余剰通貨が滞留せず、自然に貯蓄へと流れたのです。
その結果、通貨量は制御され、インフレは完全に抑え込まれました」
慶篤副総理が頷き、重々しく言った。
「緊縮ではなく、成長を維持したまま物価を安定させる――これは奇跡的です。
この成果は、必ずや世界の金融史に記されましょう」
藤村総理大臣は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
「七千万両の処理だけでは足りぬ。
その後の安定を築いてこそ、真の勝利だ。
我らはそれを成し遂げつつある」
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一方その頃、城内の研究所では、全く異なる熱気が渦巻いていた。
北里柴三郎が原稿を前に、ペンを走らせていたのである。
机の上には分厚い書籍と研究資料が積み重ねられ、蝋燭の炎が紙面を照らしていた。
「欧州での講演では、結核菌と血清療法を中心に据える。
“東洋の医学革命者”と呼ばれる責任は重い。
だが日本の威信を背負い、必ずや果たしてみせる」
彼の声には緊張と決意が入り混じっていた。
助手たちは固唾をのんで見守り、記録を整理していた。
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数日後、外務省に欧州からの招待状が届いた。
陸奥宗光外務大臣が広間で報告を行った。
「パリ、ロンドン、ベルリン。
各都市の学術会議から、北里博士の講演依頼が届きました。
内容は“細菌学と国家統治”――医学と政治を結びつけた新しい視点を求めているのです」
榎本武揚海軍大臣が声を上げた。
「海軍としても心強い。
血清療法は兵士の生存率を劇的に高める。
欧州諸国がその価値を理解したのは必然です」
春嶽財務大臣は扇を閉じ、感慨深げに言った。
「医学的威信がそのまま国家の信用となる。
この国の財政安定もまた、北里の成果に支えられているのです」
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その夜、藤村は学習室で子どもたちに話をした。
雨音が障子を叩き、部屋には火鉢の赤い光が揺れていた。
「義信、義親、久信。
金融と医学は別物に見えて、実は根を同じくしている。
“未来を予測し、備えを整える”――それが全てだ」
義信が帳面に数式を書きながら言った。
「確かに、物価安定も医学的防疫も、リスクを計算して制御する仕組みです。
国家にとっての統治理論は、すべて数理に通じていますね」
義親は小さな手で筆を持ち、真剣な瞳で父を見つめた。
「父上、北里先生の講演は日本国家そのものへの信頼を高めます。
科学外交は、金融外交と同じように外貨獲得戦略となるのです」
久信は驚き、苦笑した。
「義親の言葉はもう大人そのものだ……。
僕も必死に追いかけないと」
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梅雨の雨は尽きることなく降り続いていた。
だが江戸城の内には確かな熱気が宿っていた。
インフレを抑えた財政政策と、世界を魅了する医学的飛躍。
それは日本を、雨雲の上に広がる青空へと導く力であった。
夜の江戸は雨音に包まれていた。
瓦屋根を叩く雨は途切れることなく続き、堀の水面には波紋が広がっていた。
梅雨の重たい空気は城下の家々に染み込み、人々は囲炉裏や火鉢に身を寄せていた。
しかし江戸城の一角、藤村家の座敷には、しっとりとした雨音を背景にしながらも、明るい灯火と笑顔があった。
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食卓には、筍ご飯、鮎の塩焼き、青菜のおひたし、梅酒の盃が並んでいた。
窓の外では雨が竹林を揺らし、葉から葉へと滴が落ちていた。
その中で、藤村総理大臣が杯を掲げ、静かに口を開いた。
「諸君。七千万両処理の完成から数ヶ月。
成長と債務処理の両立は、見事に軌道に乗った。
鉱山・鉄道・港湾への投資は進み、景気は冷えるどころか温まっている」
春嶽財務大臣が盃を置き、感慨深げに言った。
「緊縮ではなく投資を続け、しかも借換えで負担を軽減する。
これほど理想的な財政運営は、世界でも例を見ないでしょう」
小栗上野介が数字を示し、冷静に付け加えた。
「宝くじ公債の物価連動は庶民の支持を集め、追加発行も順調。
庶民が楽しみながら国を支え、物価は安定している。
インフレ抑制も完全に成功しました」
慶篤副総理は杯を掲げ、穏やかに言った。
「民の生活を守りながら成長を続ける。
これこそ近代国家の理想像だ」
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島津久光内務大臣が報告を添えた。
「地方では農村の若者が鉱山や鉄道工事に雇われ、生活が豊かになったと喜んでおります。
“国の事業に加わっている”という誇りも芽生えております」
藤田小四郎も声を重ねた。
「役所の現場でも、借換えと投資の両立により、景気の停滞を感じさせぬとの声が多いです」
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その時、陸奥宗光外務大臣が巻物を手にした。
「欧州各国で北里博士の講演が絶賛されています。
“東洋の医学革命者”と呼ばれ、日本国家への信頼度も急上昇しております」
榎本武揚海軍大臣も頷き、力強く言った。
「海軍にとっても大きな助けです。
血清療法と防疫体制により、航海での生存率が飛躍的に高まりました」
北里柴三郎は照れたように盃を持ち、静かに言った。
「私一人の功績ではありません。
国の支援があってこそ、研究も進められるのです」
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その時、義信が真剣な顔で口を開いた。
「父上、金融・行政・医学――すべてで世界をリードする基盤が整いました。
数学的に見ても、このシステムは長期的に持続可能です」
義親は瞳を輝かせ、続けた。
「父上、金融技術と医学的威信を“日本モデル”として体系化すべきです。
知識と技術を輸出し、新たな産業を創出できます」
久信は驚いたように弟を見つめ、苦笑した。
「義親の考えは、もう完全に大人だね……。
でも僕も負けずに勉強して、必ず役に立ちます!」
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篤敬は兄弟の様子に感嘆し、言った。
「義親君の戦略的思考の深さは、毎回驚かされます」
篤守も真剣に頷いた。
「経済や医学を国際政治と結びつける視点――私も学ばねばなりません」
慶篤副総理は微笑み、子どもたちに向き直った。
「次の時代を担うのは君たちだ。
我らの築いた土台を守り、さらに発展させよ」
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藤村総理大臣は盃を掲げ、力強く結んだ。
「諸君。梅雨の雨は続けども、我らの国は揺るがぬ。
成長と安定を両立し、世界に信を示した。
次の世代へ知識を託し、この国をさらに高みへ導こう」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が雨音と重なった。
障子の外では竹林が雨に濡れ、しなやかに揺れていた。
それはまるで、日本という国がしなやかに、そして力強く未来へ伸びていく姿を映しているかのようであった。