242話:(1877年2月/春)春の最終設計
冬の名残がまだ残る二月。
それでも江戸の町には、春の兆しが確かに忍び込んでいた。
梅の花が白くほころび、甘い香りが冷たい空気に混じる。
川辺の柳は芽吹き始め、浅草寺の境内には参詣客が薄手の羽織に袖を通して歩いていた。
火鉢の炭火はまだ欠かせぬが、人々の声にはどこか明るい響きが宿り始めていた。
江戸城もまた、春の気配に包まれていた。
庭の梅は紅白の花を咲かせ、雪解け水が石畳を濡らす。
その光景を背に、大広間には重臣たちがずらりと並んでいた。
蝋燭の灯りは昼の光に押されて小さく、障子の外からは鶯の初音が微かに届いていた。
その場に立ったのは、内閣総理大臣・藤村である。
長きにわたる七千万両の処理戦は、ついに終幕を迎えようとしていた。
彼の手には分厚い巻物があり、その中にはすべての改革効果を統合した最終設計が記されていた。
「諸君。――今日ここに、七千万両処理の最終設計を発表する」
広間の空気が一層張り詰めた。
誰もが息を呑み、藤村の声を待った。
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藤村は巻物を広げ、静かに続けた。
「専売証券、鉱山契約、宝くじ公債、港湾コンセッション、相殺清算、偽札排除、収益連動債、永久債、武士年金改革、行政効率化――
これらすべてを統合し、我らは無増税で七千万両を処理する道筋を確定した」
松平春嶽財務大臣が立ち上がり、詳細な計算結果を読み上げた。
「金利等、年八十一万両。計画償還四十六万七千両。
合わせて年間負担百二十七万七千両。
さらに武士年金改革と行政効率化による削減三十二万両を差し引けば――実効負担は九十五万七千両」
その言葉に広間がどよめいた。
当初、二百万両以上と予測された負担が、半分以下にまで圧縮されていたのだ。
慶篤副総理が深く頷き、感嘆の声を漏らした。
「当初想定していた年間負担の半分以下……驚異的な成果です」
島津久光内務大臣も目を細め、重々しく言った。
「無増税でここまでの成果を上げるとは、まさに奇跡だ」
重臣たちは互いに目を見交わし、その表情には驚きと安堵、そして誇りが入り混じっていた。
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藤村は静かに言葉を重ねた。
「七千万両という絶望的な数字を、我らは理論と実行でここまで削った。
そしていま、残された道は確かに見えている。
今日をもって、七千万両処理の最終設計は完成した」
広間には静かな熱気が広がった。
その空気は、外の梅の香りと混じり合い、未来の春を予感させるものだった。
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春嶽が巻物を閉じ、扇を畳んだ。
「財務省として、この計算に一点の曖昧さもないことを保証いたします。
すべての数理が揃い、実務の裏付けも完璧です」
小栗上野介が続ける。
「武士年金改革と行政効率化の成果は、年三十二万両の恒常的削減を生んでおります。
制度は永続的に機能するでしょう」
藤田小四郎も声を張った。
「現場の実務を統括する立場から申し上げても、これ以上ない完璧な設計です。
すでに全国からの報告でも、旧札回収は順調に進んでおります」
後藤新平が一歩進み、胸を張った。
「この成功により、社会保険制度の基盤も完全に整いました。
次は国民全体を対象とする包括的な制度を築くことができます」
その言葉に重臣たちは頷き、未来を見据えた。
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藤村は再び広間を見渡し、言葉を結んだ。
「これは我らの勝利であると同時に、民衆の勝利でもある。
無増税で七千万両を処理したのは、理論の力だけではない。
民の信と協力があったからこそだ。
今日の設計は、我が国が近代国家として歩み出した証だ」
障子の外で、鶯が一声鳴いた。
その澄んだ声は、広間に満ちた静かな熱と共鳴するかのように響いた。
春の風はまだ冷たかったが、江戸の町には確かな明るさがあった。
梅の花は満開となり、城下の路地には甘い香りが漂っている。
参詣帰りの町人たちが「今年の春は早い」と語り合い、商家の店先には新しい布地が並んでいた。
そんな穏やかな景色とは対照的に、江戸城大広間は厳粛な熱気に包まれていた。
藤村総理大臣は机に広げられた文書に筆を走らせていた。
それは国民向けの歴史的宣言――七千万両処理の完成を告げる言葉であった。
彼は書き上げた紙を掲げ、重臣たちに向けて読み上げた。
「――我らは無増税で七千万両を処理した。
年九十六万両の負担は、当初想定の半分以下に収まった。
これは金融工学と、全国民の協力の結晶である」
その言葉に広間は静まり返り、やがて拍手が湧き起こった。
春嶽が感慨深げに頷き、扇を畳んだ。
「歴史に残る宣言ですな。民衆は必ず歓喜するでしょう」
小栗も机に肘をつき、静かに言った。
「数字が示す通り、制度は安定している。
これは空論ではなく、現実に機能する最終設計です」
慶篤副総理は杯を掲げ、声を重ねた。
「当初の予測を大幅に下回る負担――この成果は政治の理想形だ。
民の生活を守りつつ、国家を再建したのだから」
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その時、幼子の声が響いた。
義親――わずか四歳にして令和の知識を吸収しつつある少年が、机に近づき、父の計算を覗き込んでいた。
「父上、実効負担率を債務総額で割ると……およそ一・三七%です」
広間の大人たちは一斉に息を呑んだ。
義親は小さな手で筆を動かし、数式を書き並べた。
「これは現代の国債金利水準と比べても極めて優秀な成果です。
つまり、国は世界に誇れる財政を築いたことになります」
藤村は一瞬言葉を失い、やがて深く息を吐いた。
「……義親、お前は本当に四歳か」
春嶽は驚きを隠せず、扇で口元を覆った。
「幼子の口から“国債金利水準”という言葉が出るとは……」
小栗は瞳を輝かせ、声を上げた。
「数学的精度の高さは、もはや我らの想像を超えております」
慶篤は笑みを浮かべ、弟を見守る義信に目を向けた。
「兄弟で未来を語る姿は、この国の希望そのものだ」
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後藤新平が席を立ち、力強く言った。
「この成功によって、社会保険制度の基盤も完全に整いました。
医療、年金、労災を統合し、国が国民全体を守る制度を築けます」
藤田小四郎も声を重ねた。
「実務統括の立場から見ても、これ以上ない設計です。
現場の役人たちも誇りを持って仕事にあたっています」
島津久光が目を細め、静かに言った。
「武士の不満は完全に消え、庶民も安心して暮らしている。
無増税で国家を立て直すとは……まさに奇跡のようだ」
陸奥宗光が続ける。
「各国も日本を“世界最先端”と評しています。
外交の場で、我らの立場はかつてなく強固です」
榎本武揚が杯を掲げ、声を響かせた。
「軍事においても、医学の成果で兵士の生存率が飛躍的に高まりました。
軍の士気も上がり、国力全体が強まっております」
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宣言の文面が仕上がると、藤村はそれを巻き、机に置いた。
その目は深い疲労と同時に、確かな達成感に満ちていた。
「諸君。――我らはやり遂げた。
この成果は、歴史に刻まれるだろう」
広間には拍手が鳴り響き、障子の外の梅の香りが一層濃く漂った。
まるで春の花が、この勝利を祝福しているかのようだった。
春の日差しが江戸城の石垣を柔らかく照らしていた。
庭の梅は満開を迎え、紅白の花弁が風に舞っては砂利の上を転がっていく。
兵士たちは冬の外套を脱ぎ、軽装で訓練を始めていた。
寒気と温かさが交じり合う早春の気配は、まるで国全体の空気を映すようであった。
大広間では、再び歴史を動かす議論が進められていた。
そこに集まったのは、医学と行政の両輪を担う北里柴三郎と後藤新平。
二人の存在は、すでに国の未来を象徴していた。
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北里が研究成果を報告した。
机の上には、破傷風血清、結核菌の標本、そして熱帯医学に関する最新の実験記録が並んでいた。
「破傷風血清は兵士への配備が完了しました。
結核菌の同定は欧州の研究者たちとの文通で高く評価されています。
さらに熱帯病研究に着手し、将来の海外展開にも備えています」
陸奥宗光外務大臣が感嘆の声を上げた。
「各国が“日本は医学研究で世界最先端にある”と評している。
外交交渉でも、この威信は計り知れない」
榎本武揚海軍大臣も力強く言った。
「軍事医学の進歩により、兵士の死亡率は著しく低下しました。
戦場だけでなく長期航海でも、生存率は飛躍的に高まっております」
広間にどよめきが走り、重臣たちの顔に誇らしげな笑みが広がった。
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次に後藤新平が立ち上がった。
彼の手には、社会保険制度と都市計画に関する設計図が握られていた。
「社会保険制度の枠組みは、武士年金基金を基盤として完成に近づきました。
医療・年金・労災を統合し、国全体を支えるシステムです。
同時に、都市計画と科学的行政管理を徹底し、恒常的な効率化を実現します」
春嶽財務大臣が深く頷いた。
「財政削減と生活保障――その両立が実現するとは、夢のようだ」
慶篤副総理も声を重ねる。
「医学と行政、この二つが手を取り合えば、政府への信頼は揺るがぬものとなる」
広間には静かな熱が満ち、梅の香りがさらに濃く漂ってきた。
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藤村は机上の巻物を取り上げ、最後の施策を告げた。
「さらに、旧札回収の最終策を実行する。
期限内に持ち込めば、新紙幣に一%を上乗せ。
期限を過ぎれば、一割の減額とする」
その瞬間、重臣たちは息を呑んだ。
差は十一%――明確で、誰の目にもわかる損得勘定。
藤村は続けた。
「この落差こそ人の心を動かす。
得をしたい者も、損を避けたい者も、皆期限内に札を差し出すだろう」
春嶽が巻物をめくり、計算を確認した。
「確かに……この策なら残存旧札は一気に流れ込む。
期限交換と併せ、完全回収は目前です」
小栗も冷静に付け加えた。
「これで国庫に残る不安は消え去るでしょう。
人々の心理を突いた完璧な設計です」
重臣たちは深く頷き、広間の空気は勝利の確信で満たされた。
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その後、学習室では藤村が子どもたちに講義を行った。
義信は机に数式を並べながら言った。
「全ての要素が有機的に結合して、システム全体が最適化されていますね」
義親は父の言葉を受け、瞳を輝かせた。
「父上、この成功モデルは他国にも適用可能でしょうか。
技術移転によって外貨を得ることも期待できます」
久信は驚きの声を上げた。
「義親、どんどん大人びた発想をするようになったね……」
慶篤が笑みを浮かべ、若者たちに語りかけた。
「無増税での債務処理は政治の理想形だ。
民に負担を強いず、国家を再建する――その姿を忘れるな」
篤敬が真剣に言った。
「政治と科学が融合すれば、統治は新しい可能性を開きます」
篤守も続けた。
「義親君の成長速度に刺激を受けています。
我々も学び続けなければなりません」
北里と後藤が合同で講義を行い、二人の成果を説明した。
北里は静かに言った。
「医学的成功が政治的信頼を生む。それは実証されました」
後藤も力強く応じた。
「行政効率化が医学研究の基盤を支える。
この相互依存が、新しい価値を生むのです」
義親は筆を走らせ、真剣な声で言った。
「相互依存関係による価値創造……これは未来の社会科学の典型例です」
広間に笑いが広がり、大人たちは幼子の成長に驚きと喜びを覚えた。
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障子の外では、梅の花が風に散り始めていた。
だがその散り際は、終わりではなく新しい芽吹きの前触れである。
七千万両処理の完全勝利へ――国の未来を告げる春は、確かに訪れていた。
夕暮れの江戸城。
梅の花びらが風に舞い、城の石垣を白く染めていた。
長い冬を越え、春は確かに訪れていた。
そして七千万両処理の戦いもまた、終幕を迎えつつあった。
大広間に再び重臣たちが集まった。
机の上には分厚い巻物と計算表、そして旧札の回収報告書が積み上げられていた。
春嶽財務大臣が立ち上がり、声を張り上げた。
「報告いたします!
金利等八十一万両、計画償還四十六万七千両――合計年百二十七万七千両の負担。
そこから武士年金改革と行政効率化による三十二万両を差し引き、実効負担は九十五万七千両!
七千万両処理は、実質的に完了しました!」
広間がざわめきに包まれた。
誰もが顔を見合わせ、やがて拍手と歓声が広がった。
七千万両――絶望と呼ばれた巨額が、ついに克服されたのだ。
慶篤副総理が深く息を吐き、声を震わせた。
「当初想定の半分以下……。
政治の理想が、現実となった瞬間です」
島津久光内務大臣も頷き、重々しく言った。
「無増税でここまでの成果を上げるとは……まさに奇跡だ」
藤田小四郎が実務報告を添えた。
「期限交換策は成功を収め、残存旧札も期限内で回収可能。
現場は順調に動いております」
陸奥宗光外務大臣が巻物を広げた。
「各国から祝電が届いております。
“日本は無増税で債務を処理した世界初の国だ”と」
榎本武揚海軍大臣も声を上げた。
「軍事面でも、医学と財政の安定が戦力を支えております。
国は内外ともに最強の地位を得ました」
藤村総理大臣は静かに立ち上がり、広間を見渡した。
「諸君。――我らは勝利した。
この成果は理論と実務、そして民の協力によって築かれたものだ。
歴史は必ず、この日を記すだろう」
広間は大きな拍手に包まれ、障子の外からは春の鶯の声が重なった。
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その夜。
藤村家の夕食には、いつになく豪華な膳が並んでいた。
炊き立ての新米に、鯛の兜煮、菜の花の和え物、甘い白酒。
家族と閣僚たちが同席し、春を祝う宴が開かれた。
藤村は杯を掲げ、言った。
「七千万両の処理が完了し、年九十六万両の負担で国家を維持できるようになった。
これは家族と、そして諸君の努力のおかげだ」
義信が真剣な表情で答えた。
「数学的に見ても、この成功モデルは教科書に載るレベルの完璧さです。
後世の学者が必ず研究するでしょう」
義親が瞳を輝かせて言った。
「父上、この金融工学モデルを体系化すれば、他国に輸出できます。
外貨獲得の新たな産業となるでしょう」
久信は弟の言葉に目を丸くし、思わず笑った。
「義親の発想はすごすぎて驚くばかりです……」
春嶽が杯を置き、深い声で言った。
「財務省として、これ以上の成果は考えられぬ。
国家財政の未来は明るい」
慶篤副総理が盃を掲げ、力強く言った。
「副総理として、この成功を後世に伝える責任を感じる。
この物語は必ず歴史の教訓となるだろう」
清水昭武からの電信も読み上げられた。
「北海道でも早期交換が順調に進み、追加資金の確保も予定通りです」
後藤新平が席を立ち、声を張った。
「この基盤の上に、世界最先端の社会保障制度を築きます。
国民全体を守る制度が、ここから始まります」
北里柴三郎も杯を掲げた。
「医学面でも国際的地位は確立されました。
日本の研究は、技術輸出の時代を切り開くでしょう」
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最後に藤村は子どもたちを見渡し、静かに言った。
「義信、義親、久信――。
お前たちに令和の知識を託すことで、この国の未来はさらに明るくなる。
今日の勝利は終わりではなく、次の世代への始まりだ」
義信は力強く頷いた。
「兄弟で力を合わせ、必ず父上を支えます」
義親も真剣な顔で言った。
「学んだ知識を活かし、この国を世界の先頭に導きます」
久信は拳を握りしめ、声を弾ませた。
「僕も必ず役に立ちます!」
盃が打ち合わされ、澄んだ音が夜空に響いた。
障子の外には満月が昇り、梅の花が白く輝いていた。
その光は、新しい時代の始まりを祝福するかのように城を照らしていた。