240話:(1876年10月/冬支度)冬支度と期限交換
十月、江戸の町に初霜が降りた。
畑の野菜には白い縁がつき、朝の空気は肌を刺すように冷たかった。
農夫たちは手をこすり合わせながら声をかけ合い、冬支度に追われていた。
薪を積み上げ、藁を束ね、納屋の屋根を修繕する。
夏から秋にかけて実った収穫物は倉に収められ、人々の暮らしは長い冬を迎える準備に忙しかった。
江戸の町筋にも、冬の匂いが漂っていた。
着物の袖は厚手になり、炭を商う行商人の声が響く。
魚河岸では脂の乗った鰤や鱈が並び、茶屋の火鉢には早くも炭火が赤々と燃えていた。
しかし、江戸城の石畳を踏みしめる役人たちの足取りは、町の落ち着いた空気とは対照的に緊張を帯びていた。
七千万両の藩札処理は大詰めを迎えていた。
相殺清算と偽札排除で一五四〇万両を圧縮し、さらに収益連動債と永久債で二千万両を借換えた。
だが、残された三千数百万両をどう処理するか――その最終段階が、今日決まろうとしていた。
大広間に重臣たちが集った。
障子の外からは冷たい風の音が入り込み、蝋燭の炎が小さく揺れた。
藤村総理大臣は静かに立ち上がり、机上の巻物を広げた。
「諸君。――本日、我らは最終段階に入る」
その声に、広間の空気が一段と引き締まった。
誰もが息を呑み、藤村の次の言葉を待った。
「旧藩札の期限付き高レート交換を開始する。
六ヶ月間は百対百で等価交換とし、その後は百対九十へと交換率を下げる」
広間がざわめいた。
春嶽財務大臣が身を乗り出し、声を低めた。
「百:百から百:九十へ……なるほど、早期交換を促す策ですな」
小栗上野介が続けた。
「期限を区切り、交換レートに差を設けることで、人々の心理を揺さぶる。
“今出さなければ損をする”――そう思わせるのですな」
藤村は深く頷き、力強く言った。
「そうだ。早期交換のインセンティブを明確にし、“早い者勝ち”の心理を活用する。
遅らせれば一割を失う。人々は必ず動くだろう」
慶篤副総理が扇を閉じ、微笑を浮かべた。
「メリハリの効いた条件設定により、市民の行動を適切に誘導できますね」
島津久光内務大臣も頷き、声を添えた。
「地方でも“早く交換した方が得”という理解が広がるでしょう。
民は損得に敏感だ。明確な差を示せば、一気に旧札を差し出すはずです」
春嶽が巻物を広げ、詳細を読み上げた。
「交換所は江戸、大坂、京都を中心に全国に設置。
記録簿と照合し、不正防止のため三人証人を置く。
交換は新紙幣か、郵便貯金口座への入金のいずれかを選ばせる。
これにより旧札の滞留を完全に解消する」
広間に驚きの声が広がった。
「郵便貯金と連動を?」
「旧札を預ければ利子も付く……なるほど、これなら民は競って預けに来る」
小栗は満足そうに頷いた。
「金融制度の普及にもつながりましょう。
人々は初めて“預ければ増える”という感覚を持つのです」
藤村は静かに結んだ。
「期限を設け、心理を突き、制度を広める。
これこそ行動経済学に基づいた政策だ。
旧札は必ず吸い上げ、残る債務を半減させる」
障子の外では木枯らしが吹き、竹林がざわめいた。
その音は、まるで国を覆う債務の影を吹き払う前触れのように響いていた。
布告が出た翌朝、江戸の町はざわめきに包まれていた。
「六ヶ月以内なら百対百で交換できる」「半年過ぎたら百対九十になる」――人々は口々にそう囁き合い、旧札を手に握りしめて表へ飛び出した。
浅草寺の境内に設けられた交換所には、夜明け前から列ができていた。
長屋の職人、町娘、商家の女将、老いも若きも、皆が同じ方向を見つめていた。
冷たい朝霧が立ち込める中、吐く息は白く、札を入れた財布を握る手は固くこわばっていた。
「早くしなきゃ損するぞ!」
「六ヶ月過ぎりゃ一割も削られるんだ!」
人々は焦燥を隠さずに声を上げた。
列の先頭で帳場に座る役人は、台帳をめくりながら淡々と告げた。
「確認済み、百対百で新紙幣へ。こちらに朱印を」
朱印が押されると、待ちかねた者は深く頭を下げ、新札を胸に抱えて列を抜けていった。
その姿を見た後ろの人々が「やはり本当だ」と安堵の声を漏らし、列はさらに長く伸びていった。
同じ頃、大坂の堂島米会所前でも人々が殺到していた。
米相場を日々気にする商人たちは、貨幣の価値が一割も揺らぐことを恐れ、こぞって札を差し出した。
京都・三条大橋のたもとでも、町衆が列をなし、「半年以内なら損はしない」と繰り返していた。
坂本龍馬は江戸の酒場に姿を見せ、豪快に笑いながら声を張り上げた。
「聞け聞け! 損したくなきゃ、今すぐ札を持って交換所へ走れ!
“急げ急げ”の大合唱だ!」
その言葉に酒場の者たちは立ち上がり、酒を残したまま駆け出していった。
一方、岩崎弥太郎は各地の商館を通じて流通業界に号令をかけていた。
「六ヶ月以内に整理しなければ、取引で不利を被るぞ! 商売の信用を守るためにも、一刻も早く交換せよ!」
その声は港町から農村にまで届き、荷車に札を積んで役所へ向かう商人の姿が各地で見られた。
常陸州の役所では、藤田小四郎が実務統括にあたっていた。
帳場の机には山のような札が積まれ、役人たちが汗を滴らせながら処理を続けていた。
「初日だけで予想の三倍のペースです! このままでは保管庫が溢れます!」
「構わん! 今は受け入れを優先せよ! 記録は夜を徹してでも処理する!」
小四郎の声が響き、若い役人たちは必死に筆を走らせた。
墨の匂いと人いきれが広間に充満し、蝋燭の炎が揺らいでいた。
そして今回の交換策には、新たな仕掛けがあった。
郵便貯金との連動である。
交換所の別机には「郵便貯金口座開設」と書かれた札が掲げられ、役人が人々に説明していた。
「旧札をそのまま貯金に預ければ、新紙幣と同時に利子が付きます」
驚いた顔で耳を傾けた町人が声を上げた。
「預ければ増える……だと?」
老女が震える手で藩札を差し出し、役人が口座を開設した。
帳簿に名が記されると、彼女の目には涙が浮かんだ。
「利子が付くなんて……生まれて初めて聞きました」
若い職人が隣で笑いながら言った。
「こりゃええ、貯めときゃ銭が増えるってんだからな」
その声が広がり、次々と人々が「預けたい」と名乗り出た。
旧札はただ交換されるだけでなく、貯蓄へと姿を変え、国民の金融リテラシーを育てていった。
数日のうちに、江戸の交換所だけで月間目標の四割が処理された。
江戸城に届けられた報告書には、膨大な数字が並び、春嶽と小栗は思わず顔を見合わせた。
「これは……予想を大きく上回る成果だ」
「民の心理を突いた施策、恐るべしだな」
慶篤は報告書を手にし、静かに頷いた。
「損を避けるために動く――その単純な心理を逆手に取った。
理論と実践の融合がここにある」
藤村は机の上の旧札の山を見下ろし、深く息を吐いた。
「人の心が、ここまで制度を動かす……。
この流れを逃さず、最後まで吸い上げるのだ」
障子の外では木枯らしが鳴り、竹林がざわめいていた。
その音は、国を覆っていた借財の影を吹き払う風のように聞こえた。
木枯らしが江戸の町を吹き抜けた。
銀杏の葉は黄色に染まり、風に舞って石畳を転がっていく。
町人たちは肩をすぼめ、冬支度に余念がなかった。
だが、江戸城の中では、さらに大きな備えが進んでいた。
それは七千万両という巨額の債務を、いよいよ半減させるための最後の仕掛けであった。
財務省の広間には、厚い帳簿と札束が山と積まれていた。
春嶽財務大臣と小栗上野介が前に進み、藤村総理大臣に報告する。
「総理。これまでに確保した前受け資金一七〇〇万両を、一括償還に充てます」
広間に静寂が落ちた。
春嶽は巻物を広げ、数字を示す。
「専売証券八百万両、鉱山契約六百万両、港湾コンセッション三百万両。
合計一七〇〇万両を、直接旧札償還に投入すれば、残高は三七六〇万両にまで減少いたします」
重臣たちの目が一斉に見開かれた。
あの七千万両が、ついに半分近くまで削れる――数字の重みが皆の胸に響いた。
小栗が補足した。
「相殺清算と偽札排除で一五四〇万両を削り、さらにこの前受け資金を投じれば、削減率は四六・三%に達します。
もはや借財の山は、越えられぬ峰ではありません」
慶篤副総理が深く頷き、言葉を添えた。
「財政再建の道筋は明確になった。
残る三七六〇万両も、期限交換の効果でさらに縮むだろう」
藤村は報告を聞き、静かに頷いた。
机上に置かれた数字の列は冷たく無機質に見えたが、その裏には無数の人々の努力と汗があった。
役人、商人、庶民――皆が力を合わせ、この成果を作り上げたのだ。
「よかろう。前受け資金はただの一文たりとも無駄にせず、すべて旧札償還に充てる。
これで我らは借財の半分を超えて削った。
民に、そして世界に、我らの決意を示そう」
その言葉に、広間の空気が熱を帯びた。
同じ頃、江戸城の別棟――研究所には、まったく別種の熱気が渦巻いていた。
北里柴三郎が机に向かい、筆を走らせていた。
目の前には分厚い洋書、そして顕微鏡のスケッチが広がっている。
手紙の宛先は、遠くドイツのコッホ研究所。
さらにフランスのパスツール研究所とも文通を始めていた。
北里は筆を止め、顕微鏡を覗き込んだ。
視野の中に見えるのは、病の原因を示す細菌の姿。
彼は小さく息を吐き、再び筆を走らせる。
「日本における細菌学研究は、欧州の成果に比肩し得る段階に到達しました。
今や我らは同じ学術の土俵で議論できるのです」
彼の声には確信が宿っていた。
助手たちは驚きの眼差しを向け、誰もがこの瞬間の歴史的意味を感じ取っていた。
数週間後、欧州から返書が届いた。
パスツールもコッホも、北里の研究成果に強い関心を示し、さらなる議論を求めてきたのだ。
「日本の研究がここまで来たか」――その驚きは、たちまち国際社会に広がっていった。
この知らせは江戸城にも届いた。
陸奥宗光外務大臣が巻物を手にし、藤村の前で読み上げる。
「フランスとドイツの学術機関から、正式に学術交流の打診がありました。
彼らは日本を対等な研究パートナーとして認めています」
重臣たちの目に驚きと喜びが広がった。
春嶽は深く頷き、静かに言った。
「財政と学術、両輪がそろったな。
国の信用は、数字と同時に、こうした知の力によっても築かれるのだ」
慶篤も杯を置き、力強く言葉を添えた。
「北里の発見は、単なる医学的快挙ではない。
それは国家の威信を世界に示す証だ」
藤村は静かに目を閉じ、胸の奥でつぶやいた。
「民の信を得て、世界の信を得る。
この二つが揃えば、七千万両の処理は必ず成る」
障子の外では冷たい風が竹林を揺らし、葉がさらさらと鳴っていた。
だが、城内には確かな熱が満ちていた。
財政の半減と、国際的学術の躍進――その両方が、確かに日本の未来を照らしていた。
夕暮れの江戸城。
冷たい風が石畳を渡り、初冬の匂いを運んでいた。
庭の松には霜が白く降り、竹林はからからと乾いた音を立てて揺れていた。
そんな寒気とは裏腹に、大広間に集まった重臣たちの胸には熱いものがあった。
春嶽財務大臣が巻物を広げ、声を張り上げた。
「報告いたします。
相殺清算と偽札排除で一五四〇万両を削減。
さらに前受け資金一七〇〇万両を一括償還に投入。
旧札残高はついに三七六〇万両にまで減少しました。
削減率、四六・三%!」
広間にどよめきが起こった。
七千万両という巨大な負債が、ついに半分以下となったのだ。
重臣たちの顔に驚きと安堵が同時に浮かんだ。
小栗上野介が冷静に付け加えた。
「期限交換策により、さらに十から十五%の追加削減が見込めます。
この流れを維持すれば、残り三七六〇万両の処理も予定より早く終えられるでしょう」
島津久光内務大臣が扇を畳み、力強く言った。
「地方からの報告では“早く交換せよ”の声が広がり、庶民は自ら進んで札を持ち込んでおります。
“得をするうちに動こう”という心理が見事に働いております」
慶篤副総理は深く頷き、声を添えた。
「行動経済学の成果だ。
人は利益よりも損を避けるために動く。
その心理を突いた策こそ、今回の成功の要因だろう」
藤村総理大臣は静かに目を閉じ、そして低く言った。
「民の心理を理解し、制度に組み込む。
それが統治の真髄だ。
我らは今、民と共に歩んでいる」
その時、藤田小四郎が駆け込んできた。
机の上に報告書を置き、声を弾ませる。
「総理! 期限交換開始から三日で、旧札回収量が月間目標の四割に達しました!
このペースなら二ヶ月で目標達成可能です!」
広間が再びざわめいた。
春嶽が巻物を閉じ、深く息を吐いた。
「財務省としても、最終段階への準備を本格化させねばなりませんな」
そこへ清水昭武からの電信が届いた。
「追加の鉱山契約で二百万両の前借りを確保。最終仕上げの準備は完了した」
報告を読み上げる声に、重臣たちの顔が一層明るくなった。
後藤新平が静かに口を開いた。
「社会保険制度の実施準備も、この財政成功により前倒しで進められます。
医療、年金、労災を統合する新しい制度……その基盤は整いました」
慶篤が頷き、力強く言った。
「副総理として、残り三七六〇万両の完全処理に向けた最終戦略を練りましょう」
藤村は深く頷き、広間を見渡した。
「よい。最終段階は目前だ。
我らの力を結集し、この借財を必ずや完結させる」
蝋燭の炎が揺れ、畳に長い影を落とした。
その光景は、国の歴史に新しい章が刻まれようとしていることを予感させた。
⸻
その夜、藤村家の食卓にも、成果を祝う和やかな空気が満ちていた。
新米の炊き立てご飯に、熱々の味噌汁、鮭の塩焼き。
温かな膳を囲みながらも、話題はやはり財政であった。
義信が真剣な眼差しで言った。
「当初七千万両が三七六〇万両に……。
この削減速度なら、残りも予定より早く処理できそうです」
義親が澄んだ声で続けた。
「期限交換の効果で、さらに十から十五%は追加で削減できるはずです」
久信は頬を赤らめ、声を弾ませた。
「父上の数学は本当にすごいです!
僕ももっと勉強して、計算を手伝えるようになります」
藤田小四郎が膳を前に控え、報告を重ねた。
「交換所には連日長蛇の列。
庶民から大商人まで競って札を差し出しております。
この調子なら年内に大きな区切りが付けられましょう」
春嶽が杯を置き、重々しく言った。
「財務省としても、最終段階に全力を注ぐ覚悟です」
清水昭武からの電信が改めて読み上げられる。
「北海道の鉱山契約により二百万両確保。追加資金として投入可能」
その声に、後藤新平が頷いた。
「社会保障制度の基盤も揺るぎません。
国民生活を守る仕組みを整える時が来ました」
慶篤は盃を掲げ、声を張った。
「副総理として、最終仕上げに臨む覚悟をここに誓う」
藤村は子どもたちの顔を見渡し、静かに盃を掲げた。
「諸君。七千万両の山は、ここまで削られた。
残る三七六〇万両も必ず処理し、未来に借財の影を残さぬ。
我らの力で、新しい国を築くのだ」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が冬の夜空に響いた。
その音は、木枯らしと虫の声に混じり合い、江戸の空に未来の鼓動を刻んでいた。
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