239話:(1876年9月/秋祭り)秋祭りと借換え設計
九月、江戸の町は秋祭りの喧噪に包まれていた。
太鼓の音が夜空を揺らし、色鮮やかな提灯が軒を連ね、子どもたちの歓声が町の隅々に響き渡っている。
屋台には焼き団子や鮎の塩焼きが並び、酒を片手に声を張り上げる町人たちの笑い声が絶えなかった。
夏の疲れを癒すかのように、人々は秋の実りを祝い、豊かなひとときを楽しんでいた。
だが、その賑わいから一歩離れた江戸城の広間では、全く異なる緊張が漂っていた。
祭囃子の余韻が障子を通して微かに届く中、重臣たちが一堂に会し、蝋燭の炎に照らされた顔は真剣そのものであった。
藤村総理大臣が正面に座し、机上の文書を手に取った。
その目には、これまでの債務処理の成果を踏まえ、次の一手を放つ確固たる決意が宿っていた。
「諸君。――本日より第四段階に入る」
その言葉に、広間が静まり返る。
誰もが耳を澄ませ、藤村の次の言葉を待った。
「我らはすでに相殺清算と偽札排除で一五四〇万両を削減し、残高は五四六〇万両となった。
だが、これをさらに持続可能な形に整える必要がある。
そこで――収益連動債を発行する」
広間にざわめきが走った。
春嶽が身を乗り出し、興味深そうに目を細める。
「収益連動債……?」
藤村は頷き、説明を続けた。
「固定利を一%台に抑え、その代わり専売益の一部を分配する仕組みだ。
好景気で専売が潤えば投資家は大きな利益を得る。
不景気で収益が落ち込めば、政府の負担は軽くなる。
つまり、国と投資家が利益とリスクを分かち合う仕組みだ」
小栗上野介が瞳を輝かせ、低く呟いた。
「なるほど……リスクシェアリングの概念か」
慶篤が腕を組み、しばし考え込んだのちに口を開いた。
「『赤字年は分配ゼロ』条項があるのか。
ならば政府は負担を大幅に軽減できる。
……これは革命的発想だ」
藤村は重々しく頷いた。
「そうだ。投資家は国の成長に賭ける。
国が発展すれば自らも潤い、不況なら共に耐える。
これは、政府と民間が一体となって未来を築く債券だ」
その言葉に、広間の空気が熱を帯びていった。
春嶽は深い息を吐き、口元に笑みを浮かべた。
「面白い。財務としても大いに挑む価値がある。
だが、市場が本当にこの仕組みを受け入れるか……」
渋沢栄一が前に進み出て、声を張った。
「専売証券や宝くじ公債で国民はすでに経験を積んでおります。
“国の成長と共に利益を得る”と説明すれば、豪商から庶民まで理解します。
私は販売戦略を立て、この債券を必ず成功させてみせます」
龍馬が豪快に笑い、手を打った。
「庶民にゃ難しい理屈はいらん。“専売が好調なら配当も増える”――これだけで十分だ!」
岩崎弥太郎も慎重に頷いた。
「配当を求める商人もいれば、安定を重んじる者もいる。
だがこの仕組みは、その両方を満たす。
必ずや市場に浸透するでしょう」
広間には熱気が満ち、障子越しに届く祭囃子と重なり合うかのようだった。
藤村は机上に置かれた試算表を指で押さえ、改めて宣言した。
「目標は一千万両の調達。
年平均実負担は十五万両に収まる。
これは政府にとって極めて有利な条件だ」
小栗は試算表を手に取り、唇を引き結んだ。
「確かに……従来の債務管理の常識を覆す仕組みだ」
春嶽も静かに頷き、扇を閉じた。
「よかろう。財務省としても全力で支える」
祭囃子が遠くで鳴り響き、広間の空気と重なっていった。
人々が豊穣を祝い、神輿を担いで練り歩くその裏で――国の未来を左右する金融革命が、静かに幕を開けようとしていた。
藤村は心の内で呟いた。
「七千万両の山を崩すための道筋は、必ずある。
そのために私はここにいる」
障子の外に揺れる灯籠の光は、江戸の夜空に淡く溶けていった。
祭りの賑わいと、国を背負う重圧。
二つの世界が、同じ九月の夜に交差していた。
収益連動債の発行が布告されると、江戸の町は再びざわめきに包まれた。
秋祭りの提灯が揺れる通りで、町人たちは口々に噂を交わした。
「今度は国の専売と一緒に稼げる札だってよ」
「好景気なら配当が増える、不景気なら国の負担が減る――なるほど考えたもんだ」
「俺たちが国と一緒に成長する? 面白いじゃねえか」
人々は驚きと期待を半ばにしながら、新しい仕組みに関心を寄せた。
庶民にとっては、藩札よりも分かりやすく、宝くじ公債よりも堅実に見えた。
渋沢栄一は江戸城の執務室で、販売戦略を練っていた。
机の上には分厚い帳面が積まれ、各地の豪商や問屋の名が並んでいる。
彼は筆を走らせ、配布する文書にこう書き記した。
「――国の発展は、諸君の利益である。
収益連動債は、専売益の一部を分配し、国と共に成長する器である」
坂本龍馬は各地を駆け巡り、庶民向けに説明した。
酒場で徳利を片手に、豪快に笑いながら言う。
「難しい話はいらん! 専売が好調なら配当が増える、それだけだ。
国が発展すれば、おまえさんの懐も膨らむ。
要は国と一緒に夢を見ようって札なんじゃ」
その明快さに、人々は手を打って笑い、財布を開いた。
一方、岩崎弥太郎は商館を通じて地方の流通網を動かした。
「政府と共に成長する投資」という文句は、各地の商人たちの心を捉えた。
「これなら国の信用を担保にしながら、自分たちの商いも拡大できる」――そう考えた商人たちは次々と購入を申し込んだ。
江戸の両替商では、帳場に人だかりができた。
豪商が千両単位で買い求めるかと思えば、職人がわずか十両を差し出して「これで将来が安心できるなら」と笑顔を見せた。
帳簿に書き込まれる数字は刻一刻と増え、墨の匂いが立ち込める中で朱印が次々と押されていった。
ある老舗の呉服商は言った。
「国と一緒に稼ぐなら、これは長い目で見て悪くない。
子や孫に残せる配当となれば、なおのことだ」
長屋の庶民は顔を見合わせ、頷いた。
「俺たちが国を支えるなんて思ってもみなかったが、これなら分かりやすい」
「夢じゃなくて、現実の儲けにつながるんだな」
数日のうちに、江戸だけでなく大坂や長崎、名古屋、仙台といった地方都市にも熱気は広がった。
祭りの山車が練り歩く通りで、投資の話題が飛び交うという奇妙な光景さえ見られた。
渋沢は各地からの報告をまとめ、藤村に提出した。
「調達総額、すでに八百万両。目標一千万両は目前です」
藤村は静かに頷いた。
「民が国と共に歩む意志を示したのだ。これでよい」
龍馬は豪快に笑い、岩崎は安堵の表情を浮かべた。
「国と一緒に儲ける」――その単純で力強いメッセージが、人々の心を動かしたのである。
最終的に、収益連動債は一千万両を達成した。
政府の年平均実負担はわずか十五万両。
これまでのどの金融商品よりも有利な条件で、国の財政を支える仕組みが完成した。
島津久光が地方からの報告を読み上げた。
「地方の商人たちも、『国と一緒に成長する投資』として理解しています。
反発は皆無。むしろ誇りを持って購入しています」
春嶽は深く頷き、扇を閉じた。
「財務として、これほど有利な借入はかつてなかった。
国の未来を担保に、国民が自ら資金を差し出す……まさに新しい時代だ」
広間には熱気が満ちていた。
障子越しに聞こえる秋祭りの太鼓と掛け声が、まるでこの金融革命を祝福しているかのようだった。
藤村は机上の帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
「これで第四段階の第一歩は成功した。
残るは永久コンソル債だ」
その言葉に、重臣たちは一斉にうなずいた。
国と民が一体となった投資の仕組み――収益連動債の成功は、次なる革新的借換えへの道を大きく拓いたのだった。
収益連動債の大成功から数日。
江戸の町には、まだその熱気が残っていた。
「国と一緒に儲ける札」という分かりやすい仕組みは、人々に安心感を与え、未来への希望を芽吹かせていた。
しかし江戸城の奥では、さらに大胆な策が静かに練られていた。
藤村総理大臣が広間に姿を現すと、重臣たちの視線が一斉に集まった。
彼は机上に置かれた分厚い書類を手に取り、静かに告げた。
「諸君。――次は、永久コンソル債を発行する」
その言葉に、広間がざわめいた。
松平春嶽が眉を寄せ、思わず問い返す。
「永久……とは、元本を返さぬ債券ですか」
藤村はうなずき、文書を広げた。
蝋燭の灯りが紙面に反射し、数字と条文が浮かび上がる。
「そうだ。三%の利率で永続的に利息を払い続ける。
元本の償還義務はない。
代わりに、海関や鉱税といった安定収入を担保にする。
これで借換えを行えば、長期にわたって安定的な負担で財政を運営できる」
小栗上野介が目を細め、帳簿を覗き込んだ。
「なるほど……元本償還を不要にすれば、負債の山を一気に固定化できる。
年三十万両の利払いで一千万両を処理できるというわけですな」
春嶽は深く頷き、感嘆の声を漏らした。
「予測可能な財政……これほど計画の立てやすい仕組みはない」
慶篤が扇を閉じ、静かに言った。
「これで債務管理の未来が見える。
政府は長期的な国家計画を立てられるようになる」
広間の空気は次第に熱を帯びていった。
藤村はさらに言葉を続ける。
「我らは目先の危機を乗り越えるだけでなく、未来の制度を築かねばならぬ。
永久債はその土台となる。
そして――この安定を背景に、社会制度を整えるのだ」
その瞬間、後藤新平が一歩前に出た。
若き行政官の瞳は炎のように輝いていた。
「総理。財政基盤が安定した今こそ、国民皆保険制度の設計を進めるべきです。
病や老後の不安を和らげる制度があれば、人々は安心して働き、国も成長する。
医学、労働、警察――あらゆる分野を統合し、社会全体を守る仕組みを作らねばなりません」
春嶽が驚きの表情を浮かべ、小栗は腕を組んで考え込んだ。
しかし慶篤はすぐに笑みを浮かべた。
「大胆だが、確かにその通りだ。
財政が安定したからこそ、国民の生活基盤を支える制度が必要になる」
後藤は机上に広げられた設計図を指し示した。
そこには医療・年金・労災を統合した仕組みの骨子が描かれていた。
「病に倒れた者には治療費を支給し、老いた者には年金を与える。
働き手が事故で命を落とせば、その家族を守る。
こうして社会全体のリスクを国が引き受ければ、民は安心し、国はより強固になるのです」
広間に再びざわめきが起こった。
それは驚きと期待が入り混じった音だった。
藤村は静かにうなずき、言葉を添えた。
「よい。後藤の構想は、いずれ必ず国の柱となる。
永久債で得られる安定収入を土台にすれば、それも夢ではない」
重臣たちは互いに目を見交わし、やがて深く頷いた。
この若者の構想が未来を変えるのだと、誰もが直感していた。
その夜、学習室では金融と社会政策の融合についての講義が行われていた。
義信は数式を書き連ねながら言った。
「永久コンソル債の現在価値は、利率一つで大きく変わります。
金利政策と連動させれば、国家の安定を測る道具となりますね」
義親が目を輝かせて続ける。
「収益連動債と組み合わせれば、国の負担は平準化され、市場も安定します。
リスクを分散し、利益を共有する――父上の考えそのものです」
久信は真剣に数表を眺め、やがて小さく笑った。
「僕にはまだ難しいけれど……数式が美しいのは分かります」
慶篤は子どもたちを見渡し、静かに言った。
「金融工学と社会政策を結びつけることで、政府の力は飛躍的に増す。
これが近代国家の姿だ」
篤敬は感慨深げに呟いた。
「複雑な仕組みでも、民に分かりやすい言葉で伝えることが重要なのですね」
篤守も真剣な面持ちで頷いた。
「国の成長と個人の利益を一致させる発想……素晴らしいです」
その言葉に、後藤新平が笑みを浮かべ、子どもたちに向かって言った。
「皆の理解力には驚かされます。
君たちが成長する頃には、この国は必ず世界に誇れる社会制度を持つだろう」
窓の外には秋の虫の声が響き、涼やかな風が障子を揺らしていた。
永久債の設計と社会保障の構想――その二つは、未来の日本を支える二本柱となることを、誰もが確信していた。
秋祭りの余韻がまだ町に残る夜、藤村家の食卓はにぎやかであった。
障子の向こうには、遠くで神輿を担ぐ掛け声がかすかに響き、風が運んでくる祭り囃子が秋の虫の声と混ざり合っていた。
卓上には新米の白飯、松茸の土瓶蒸し、秋茄子の煮浸しが並び、温かな湯気が子どもたちの頬を照らしていた。
しかし話題は、秋の味覚ではなく、つい先日成功した金融革命であった。
藤村が盃を置き、静かに切り出した。
「収益連動債一千万両、永久コンソル債一千万両――合わせて二千万両の借換えが成った。
これで年負担は四十五万両程度に平準化され、予測可能な財政基盤が整った。
債務はもはや単なる山ではなく、管理可能な“制度”となったのだ」
義信が真剣な眼差しで口を開いた。
「国の債務が、株式のようにリスクとリターンで管理される……。
これは前代未聞です。
数学的に見れば、国そのものを巨大な投資ポートフォリオに変えたようなものです」
春嶽が驚きの表情を浮かべた。
「十一歳でそこまで言えるのか……」と小さく呟くと、場に笑いが広がった。
義親は小さな茶碗を両手で持ちながら澄んだ声を添えた。
「永久債は“未来世代との契約”のようです。
国は元本を返さない代わりに、永遠に利息を払い続ける。
それは、まだ生まれていない人々とも約束を交わすことになるのです」
その発想に、慶篤も春嶽も目を細め、感嘆の息を漏らした。
久信は帳面に書かれた数字をじっと見つめ、やがて顔を上げて言った。
「僕には難しいけど……長く安心できる仕組みって、すごいことなんだと思います。
だって、人々は“返済の恐怖”から解放されるんですから」
藤村は微笑み、子どもたちを見渡した。
「そうだ。恐怖を取り除くこと、それこそ政治の役割だ」
後藤新平が膳の向こうから口を開いた。
「財政基盤が安定した今こそ、社会保障制度を築く好機です。
医療、年金、労災を統合した国民皆保険の枠組みを作りたい。
財政が安定しているからこそ、人々は安心して働き、国もまた成長する。
今日の金融革命は、明日の社会制度を支える礎になるでしょう」
義信が目を輝かせた。
「医療も年金も労災も……社会全体のリスクを一つにまとめるのですね。
まるで巨大な“国民ポートフォリオ”です」
義親が首を傾げ、無邪気に続ける。
「病気や事故のリスクを分け合うのは、債券のリスクを分け合うのと同じ。
金融と暮らしが一つになるんですね」
春嶽が深く頷き、扇を畳んだ。
「まさにその通りだ。財務の安定は、民の生活を守るためにある」
小栗も口を挟んだ。
「制度は複雑でも、民には分かりやすく伝える必要がある。
“国と共に生きる仕組み”と説明すれば、必ず理解されよう」
慶篤が杯を掲げ、低い声で結んだ。
「金融工学と社会政策の統合――これこそ近代国家の姿だ」
その時、陸奥宗光が報告を携えて入室した。
「総理。フランス、イギリス、ドイツから研究団派遣の要請が届きました。
ただし今回は、単なる債務管理だけでなく、社会保障制度の設計そのものにも強い関心を示しています」
場が一瞬ざわめいた。
渋沢は驚き、春嶽は深く息を吐いた。
「金融だけでなく……社会制度まで?」
藤村は静かに頷いた。
「そうだ。世界は今、日本の債務処理と金融工学に驚いている。
だが次に注目されるのは、財政と社会保障を結びつけた我らの新しい国の形だ」
義信が声を弾ませた。
「つまり、日本が世界で初めて、国家財政と国民生活を統合的に設計した例になるのですね!」
義親も幼い声で言った。
「世界の人たちも、安心できる仕組みを欲しがっているのかもしれません」
久信は拳を握りしめ、真剣な表情で続けた。
「僕もその仕組みをもっと勉強して、外国の人に説明できるようになります!」
藤村は盃を掲げ、力強く言った。
「七千万両の処理は、ここまで進んだ。
残る最終段階も必ず成功させる。
そして、世界が学ぶ国家システムを完成させるのだ」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が夜空に響いた。
その響きは、遠くの秋祭りの太鼓と重なり合い、江戸の空に新しい時代の鼓動を告げていた。