238話:(1876年8月/収穫期) 収穫と相殺清算
立秋を過ぎた江戸の空は、まだ夏の熱気を残していた。
だが川面を渡る風には、わずかに涼しさが混じり、夜ごと虫の声が聞こえるようになっていた。
稲田は黄金色に染まり、農夫たちの鎌が一斉に動き始めていた。
「今年は豊作だ」――田の畔では、笑みを浮かべる声があちこちから聞こえ、藁束を積む子どもたちの顔も輝いていた。
米相場も安定し、町の空気は収穫の季節らしい安心感に包まれていた。
魚河岸には秋刀魚や鯖が並び、茶屋では新米を炊いた飯の香りが漂う。
だが、その穏やかな季節感とは裏腹に、江戸城内には重い空気が漂っていた。
藩札七千万両――依然として国家の頭上にのしかかる巨額の債務が、いかに処理されるか。
それは民の暮らしを左右する切実な問題であった。
江戸城大広間。
障子を閉め切った室内には、蝋燭の炎が揺れ、役人たちの筆音と紙をめくる音だけが響いていた。
畳の上に広げられた帳簿には、細かな数字と氏名がびっしりと記されている。
各地から集められた藩札保有者の名簿と、政府への未納金の一覧。
それを突き合わせる準備はすでに整えられていた。
藤村総理大臣が正面に座り、沈黙を破った。
「諸君。これまで我らは専売証券八百万両、鉱山前借り六百万両、宝くじ公債千二百万両、港湾コンセッション三百万両――合計二千九百万両の資金を確保してきた。
だが、これはあくまで原資を整えたにすぎぬ。
今日からは、いよいよ元本そのものを削り取る段階に入る」
広間に緊張が走った。
松平春嶽財務大臣が立ち上がり、巻物を広げる。
「財務省として、本日より全国一斉に相殺清算を実施いたします。
藩札保有者が政府に未納の税金、官有地の賃料、公共事業の補償金、鉄道用地の代金――これらを藩札と突き合わせ、帳消しとする。
これにより千百万両の元本圧縮を目指します」
巻物に記された数字がろうそくの光に浮かび上がると、重臣たちは一斉に前のめりになった。
小栗上野介が補足する。
「これは複雑に見えて、民衆には“借金と貸し借りの帳消し”と説明できます。
彼らにとっては煩雑な計算は不要。ただ“国と自分の貸し借りが整理された”という実感だけが残る。
政治的反発は最小限で済みましょう」
島津久光内務大臣が力強く言った。
「なるほど、“借金と貸金を帳消しに”と庶民に伝えればわかりやすい。
むしろ歓迎する者も多かろう。
負担を増すのではなく、すでにある貸し借りを整理するのだから」
慶篤副総理が頷き、声を添えた。
「お互い様の精算であれば、民は納得する。
政府にとっても、市場にとっても、整理されること自体が大きな利益だ」
その言葉に、広間の空気がやや和らいだ。
だが藤村の顔は変わらず厳しい。
彼は深く息を吸い、広間に響く声で告げた。
「よろしい。――全国一斉に相殺清算を実行せよ」
その瞬間、蝋燭の炎が揺れ、室内に緊張の波が広がった。
書役たちは一斉に筆を走らせ、命令の文面を書き写していった。
春嶽は巻物を閉じ、深々と頭を下げた。
「必ずや目標を達成してみせます」
小栗は帳簿を手に取り、冷静に告げた。
「準備はすでに完了しております。各地の役人は待機中。
この命令が下れば、即日動き出します」
藤村は二人に目を向け、ゆっくりと頷いた。
「頼むぞ。これは国の命運を懸けた戦である」
障子の外から、かすかな虫の声が聞こえた。
それは秋の到来を告げる静かな調べだったが、広間に座す人々には、戦鼓の響きのように聞こえた。
命令が下された翌日、全国の財務役人たちは一斉に動き出した。
夏の名残がまだ強い八月の朝、各地の役所の門前には長い行列ができていた。
藩札を手にした町人や農民、商人たちが、真新しい木札に書かれた「相殺清算所」の文字を見上げている。
常陸州の役所前。
藤田小四郎が陣頭指揮を執り、声を張り上げた。
「皆の者、これは国と諸君の貸し借りを整理するための場である!
藩札を持っておるなら、未納の年貢や官有地の賃料と差し引きし、帳消しとする。
余った分は新札に換え、足りなければ追って納めればよい!」
群衆の間にざわめきが広がった。
だが、その表情は不安よりも安堵に近かった。
「つまり……借りた分と貸した分を突き合わせて、残りを出せばいいってことか?」
「そういうことだ。複雑な計算は役所がやってくれる」
「なら楽でいいや。どうせ払わなきゃならんもんだしな」
人々は頷き合い、手にした藩札を差し出していった。
役人たちは台帳を開き、未納の記録と藩札を突き合わせる。
墨の匂いが漂い、筆が走るたびに「相殺済」の朱印が押されていく。
小四郎の耳に、次々と現場からの報告が入った。
「庄内にて、相殺分二百両の処理を完了!」
「水戸にて、千両の相殺実行!」
「大阪にて、大商人が五千両の相殺に応じました!」
その声は広間に響き、彼の胸を熱くした。
机に置かれた集計表の数字は、刻一刻と増えていく。
坂本龍馬は各地の商人ネットワークを駆使し、説明役に奔走していた。
酒場で豪快に笑いながら、彼は言った。
「要は国と自分の貸し借りをチャラにするっちゅう話じゃ。
損はせん。むしろ胸を張って“きれいになった”と言えるわけよ!」
その言葉に、商人たちは顔を見合わせ、笑いながら藩札を差し出した。
「なるほど、龍馬殿がそう言うなら間違いない」と。
一方、岩崎弥太郎は長崎や土佐の商館を動かし、流通業界に説明を広げていた。
「政府と清算しておけば、今後の商いも安泰だ」との言葉に、問屋や両替商が次々と協力を表明した。
藩札の山が次々と役所に運ばれ、台帳に記録されていく。
江戸の清算所では、老女が震える手で藩札を差し出していた。
「これで年貢の滞納を帳消しにしてもらえるのですか」
役人は笑みを浮かべて頷いた。
「はい。残りはこの新札で返します」
老女は目に涙を浮かべ、「ありがたい」と深く頭を下げた。
その様子を見ていた若い役人は、胸に熱いものを覚えた。
数字の羅列にすぎないと思っていた作業が、人々の生活を直接救うことにつながっている。
その実感が、彼の筆に力を込めさせた。
数日のうちに、全国から続々と報告が届いた。
「目標を上回る成果です」――藤田小四郎は内閣への報告書にそう記した。
圧縮総額は千百万両を超え、当初の見込みを上回る勢いだった。
江戸城の執務室で、藤村はその報を受け取った。
春嶽が深い息を吐き、小栗が満足そうに頷いた。
「これで確かに、七千万両の山が少しずつ削れていく」
「庶民の反発もなく、むしろ歓迎されている。これは大きい」
藤村は報告書を手に取り、静かに呟いた。
「これでよい。負債の山を崩すのは、一気ではなく、一つ一つの石を取り除くことだ」
障子の外には、収穫を祝う祭囃子が聞こえていた。
人々の暮らしと国の財政――その両方が少しずつ整っていく手応えが、確かにそこにあった。
相殺清算の実施が全国で進む中、江戸城ではもう一つの大仕事が本格化していた。
それは、藩札の中に紛れ込む偽造札・無効札を徹底的に洗い出す作業である。
藩札を本当に減らすためには、流通している「価値なき紙」を厳格に排除せねばならなかった。
法務大臣・松平容保の指揮の下、広間には膨大な札束が積み上げられていた。
机の上に並べられた札は、刻印や墨の色合い、紙質の違いで見分けられていく。
役人たちの指先は墨で黒く染まり、額には汗がにじんでいた。
「まずは発行台帳と照らし合わせろ」
「はい、こちらは記録にない番号です!」
帳簿をめくる音と、札を擦る音が響き渡る。
刻印の一つ一つを虫眼鏡で確認し、線の歪みや彫りの浅さを見逃さない。
不審な札には「無効」と大書された紙札が添えられ、脇に積まれていった。
ある若い役人が、小さな声を上げた。
「この札、墨がにじみ過ぎています」
上司が一瞥し、頷いた。
「紙も粗悪だ。印影も不正確。……偽札だ」
朱印が押され、札は廃棄の山に投げ込まれた。
火鉢の火が燃え盛り、無効札は次々と焼かれていった。
炎が札を呑み込むたび、広間の空気がわずかに軽くなるように感じられた。
松平容保は冷静な表情のまま告げた。
「締切日を定め、以降に出てきた札は受け付けぬ。
無権限の発行も徹底的に調べ上げろ。
国の信用を守るためには、一枚たりとも見逃してはならぬ」
役人たちは一層の緊張をもって作業に没頭した。
数日のうちに、四百四十万両分の札が「偽造」「無効」と判定され、流通から外された。
これは国の財政を大きく軽くするだけでなく、民の信を高める行為でもあった。
一方その頃、江戸城の別棟に設けられた研究所では、まったく別の熱気が生まれていた。
顕微鏡を覗き込んでいた北里柴三郎が、興奮を抑えきれぬ声を上げた。
「……見えた! ついに、この菌こそが結核の正体だ!」
周囲にいた若い研究員たちが息を呑み、彼の肩越しに顕微鏡を覗き込んだ。
スライドガラスの上には、細長い桿状の菌が群れをなしていた。
それは長らく人類を苦しめてきた不治の病――結核の原因そのものであった。
北里は汗を拭い、震える手で記録を走らせた。
「人類の大敵、結核の正体を突き止めた!
これは医学の歴史を変える発見だ!」
研究所の空気は一気に沸き立ち、誰もが声を上げた。
「ついにやった!」「これで多くの命が救われる!」
この報せは電信によって瞬く間に全国に広まった。
江戸の町でも、大坂でも、長崎でも――人々は「北里先生が結核の正体を見つけた」と囁き合った。
病で家族を失った者たちの目には涙が浮かび、子どもを抱えた母は祈るように空を仰いだ。
「北里先生が病を治すなら、政府の借金処理もきっと成功する」
そんな素朴な言葉が町のあちこちで交わされた。
医学の快挙は、政治への信頼をも押し上げる。
その夜、学習室でもこの話題が持ち上がった。
義信は帳面に数字を書き連ねながら言った。
「相殺清算は取引コスト削減と情報効率化の同時達成です。
そこに偽札排除が加われば、市場はより健全になりますね」
義親が目を輝かせて続けた。
「偽札排除による市場の健全化効果は計り知れません。
北里先生の発見と同じで、“病巣を取り除く”ことが大切なのです」
久信は難しい顔で数字を追いながらも、やがて笑みを見せた。
「計算は複雑ですが、結果は誰にでも分かる。
藩札が減り、病も治る――分かりやすい成果です」
慶篤は子どもたちを見渡し、穏やかに言った。
「相殺清算、偽札排除、そして医学的成功。
三つが重なって政府への信頼を強めている。
これこそ近代的統治の力だ」
篤敬は真剣な面持ちで言った。
「政府の信用が、抽象ではなく具体的行動で示される。
これが民を安心させるのですね」
篤守も頷き、口を開いた。
「複数の成功が同時に重なることの重要性を実感します。
財政も医学も、どちらか一方だけでは足りないのですね」
北里自身も、研究報告会で子どもたちに語った。
「結核菌の発見は始まりに過ぎません。
だが、病の正体を知れば、必ず治療法も見つかる。
そして科学の成果は、政治の信用にも直結する。
皆さんは、それを胸に刻んでください」
義信が深く頷いた。
「医学の進歩が政治的信用に直結するのは、興味深い現象です」
義親は首を傾げ、幼い声で尋ねた。
「科学的成果による社会心理への影響は、計算できるのでしょうか」
大人たちは思わず笑い、しかし誰も軽く否定はしなかった。
未来の可能性を思わせる問いだったからだ。
蝉の声が遠ざかり、秋の虫の音が夜を包み込んでいた。
相殺清算と偽札排除、そして結核菌発見――。
三つの成果は互いに響き合い、国の信用を強固にしていった。
夕刻、江戸城大広間。
障子の向こうからは、収穫を祝う太鼓の音が遠く響いていた。
しかし広間の空気は重く、蝋燭の炎がわずかに揺れる音さえ聞こえるようだった。
そこに並ぶのは、各省の大臣たち。
机の上には、相殺清算と偽札排除の最終報告が積まれていた。
藤村総理大臣が立ち上がり、ゆっくりと口を開いた。
「諸君。――本日の報告をもって、第三段階の作戦は完了した」
広間が静まり返った。
彼は報告書を手にし、力強く読み上げた。
「相殺清算により千百万両を圧縮。
偽造・無効札の排除により四百四十万両を削減。
合計一千五百四十万両の元本圧縮を達成した。
これは藩札総額七千万両の二二%にあたり、残高は五千四百六十万両まで減少した」
言葉が響くと、広間には深い沈黙が広がった。
数字の重みが胸に落ちる。
誰もがその成果の大きさを理解し、言葉を失っていた。
最初に口を開いたのは松平春嶽だった。
白髪の老臣は、目を細め、深く頷いた。
「財務省として、この成果は想像以上のものでした。
七千万両という絶望的な数字が、ここまで削れるとは……」
小栗上野介が冷静に続けた。
「実務的にも完璧でした。
全国の役人が一斉に動き、庶民から大商人に至るまで“お互い様の帳消し”と理解させることに成功した。
これこそ近代的な財政執行です」
島津久光が扇を畳み、静かに言った。
「地方からの反発も最小限。
むしろ喜ぶ声が多かった。
“借金を整理できた”という感覚が、人々に安心を与えたのでしょう」
松平容保は報告書を手にし、厳しい声で告げた。
「法務としても、偽造札の排除は適正に行われました。
締切日を設け、刻印を精査し、無権限の発行を徹底的に排除。
国の信用は確実に守られました」
藤村は深く頷き、皆を見渡した。
「よくやってくれた。
この成果は、数字の上だけではない。
民の心に“政府はやるべきことをやっている”という信を刻んだ。
これこそ最大の収穫だ」
広間に集った者たちは一斉に頭を下げた。
その姿は、長い戦の一幕を終えた兵たちのようでもあった。
その夜。
藤村家の食卓には、いつもより豪華な膳が並んでいた。
新米の白飯、鯛の煮付け、秋野菜の煮物。
湯気が立ち上り、子どもたちの頬を照らしていた。
義信が箸を置き、真剣な声で言った。
「二二%の圧縮率……数学的にも見事な成果です。
七千万両が五千四百六十万両になった。
実質的な問題規模が、大きく縮小したことになります」
義親が小さな手で新米を握りしめ、幼い声で続けた。
「数字は難しいけれど、七が五になったなら、軽くなったってことです。
だから、みんな嬉しいんですね」
久信は顔を赤らめながらも、胸を張って言った。
「父上の計画は本当にすごいです!
僕ももっと勉強して、次は数字の計算を手伝えるようになります」
慶篤が盃を置き、穏やかに言った。
「副総理として言うが、民の信頼を得ることこそが最も重要だ。
相殺清算、偽札排除、そして北里の結核菌発見――三つの成果が重なり、政府への信は一層強固になった」
篤敬が真剣な顔で頷く。
「政府の信用が、抽象ではなく具体的な成果として示されたのですね」
篤守も続けて言った。
「複数の成功が同時に重なることの意義を学びました。
政治とは、一手一手を重ね、全体で信を築くものなのですね」
その時、清水昭武からの電信が届けられた。
藤村が封を切り、声に出した。
「北海道の資源開発、順調に進行中。
次段階の準備は万全です」
食卓に笑顔が広がった。
義信は目を輝かせ、声を弾ませた。
「これで第四段階への道も整いましたね!」
義親も無邪気に笑った。
「残りの五千四百六十万両も、きっと減らせます!」
藤村は子どもたちの顔を見渡し、杯を掲げた。
「これで第三段階も成功した。
北里の医学的快挙と、相殺清算の実務的成功が相乗効果を生んだ。
残り五千四百六十万両の処理も、必ず成功させる」
一同の盃が打ち合わされ、澄んだ音が響いた。
障子の外には秋の虫の声が続き、夜空には星が瞬いていた。
その光は、借金という暗雲の向こうにある未来の輝きを予感させるものだった。