237話:(1876年7月/秋)秋の宝くじ公債
七月、江戸の空には夏雲が大きく盛り上がっていた。
蝉の声は朝から絶えず、川面には照り返しが揺れている。
その熱気の中で、城下の町人たちは妙な興奮に包まれていた。
「三%の利回りに、抽選の当たり付きだとよ」
「当たれば百両、いや千両も夢じゃないらしい」
宝くじ公債――そう名付けられた新しい金融商品は、江戸の大通りから裏長屋にまで噂が駆け巡っていた。
国が借金を返すために出す札に、夢を買う仕掛けを忍ばせる。
藤村が打ち出したこの発想は、庶民にも分かりやすく、そして何より心を浮き立たせるものだった。
浅草寺の門前には、早朝から人だかりができていた。
「宝くじ公債取扱所」と書かれた立て札の前には、行列が蛇のように伸びている。
老舗の両替商が臨時の帳場を設け、役人と共に札をさばいていた。
白い着物に身を包んだ若い女が、銭袋を胸に抱えて順番を待っている。
隣に並ぶ職人風の男が声をかけた。
「お嬢さんも買うのかい」
「ええ、少しだけ。でも、もし当たったら……」
女は頬を赤らめ、夢見るように笑った。
その後ろでは、商家の旦那が大きな財布を手にしている。
「十口だ、いや二十口にしてくれ」
帳場の筆が走り、厚い帳面に名が記されていく。
金持ちも庶民も、同じ札を手にして夢を買う。
まさに新しい時代の熱狂であった。
昼過ぎには、江戸のあちこちで歓声が上がった。
「俺も買ったぞ」「抽選はいつだ」「もし当たったら長屋を建て替えてやる」
酒場では公債の話題が肴となり、路地裏の子どもたちでさえ「お父っつぁんが一口買った」と自慢げに話した。
江戸城の執務室。
報告を受けた慶篤が、驚きの声を漏らした。
「わずか一日で……千二百万両を公募達成?」
渋沢が帳面を広げ、汗を拭いながら答える。
「はい。金持ちの豪商だけでなく、長屋の庶民まで競うように買い求めました。
“夢を買う”という仕掛けが、かつてない勢いで市中を動かしています」
小栗が腕を組み、慎重に言った。
「だが、抽選の仕組みを誤れば、不満が爆発する。
透明に、誰も疑いを抱かぬ方法を徹底せねばならぬ」
藤村は静かに頷いた。
「抽選は江戸城大広間で行う。大勢の目の前で、役人も商人も同席させる。
信の器は、目に見える形で示さねばならない」
数日後、大広間には群衆が押し寄せた。
公債を買った庶民はもちろん、豪商や侍までもが顔を揃える。
長い木製の抽選箱が据えられ、役人が札を一枚ずつ取り出していく。
「百両当選、浅草の大工・喜三郎!」
その名が告げられると、場内はどよめきに包まれた。
見物人が口々に歓声を上げ、当人は顔を真っ赤にして頭を下げた。
「俺にも夢が来るかもしれねえ」――その思いが群衆の胸に広がっていった。
抽選は続き、豪商の名も庶民の名も公平に読み上げられた。
「これなら確かに信用できる」と人々は頷き、札の人気はさらに高まった。
その夜、江戸の町は祭りのような熱気に包まれた。
居酒屋では「当たったか」「いや外れた」と笑い声が響き、裏長屋では「今度こそ」と再挑戦を誓う声があった。
金持ちも庶民も、一枚の札を通して同じ夢を見ていた。
江戸城の窓辺で、藤村は静かに外を見下ろしていた。
夜空に広がる星々の下、町の灯が波のように瞬いている。
七千万両という重荷を前にしても、人々の心がひとつに動けば道は開ける――そう確信できる光景だった。
「夢を支えにした財政……これもまた、国の力だ」
藤村の呟きは、夏の夜風に溶けていった。
宝くじ公債が社会現象となり、江戸の町が浮き立つような熱気に包まれていた頃、政府はさらに大きな一手を打とうとしていた。
それは鉄道、港湾、電信――近代化の象徴である基幹インフラの「運営権」を一定期間、政商たちに付与するという前代未聞の仕組みであった。
江戸城の会議室。
藤村は、集まった大臣と政商たちを前に静かに口を開いた。
「国の柱を売るわけではない。
あくまで十年から十五年の運営権を与えるにすぎぬ。
見返りに、一時金三百万両を国庫に納めてもらう」
場にどよめきが走った。
鉄道や港湾は国家の象徴であり、権益を外に渡すことには抵抗があった。
だが七千万両の重荷を前に、誰もが冷静に計算せざるを得ない。
最初に口を開いたのは坂本龍馬であった。
彼は長い羽織を翻し、目を細めながら笑った。
「こりゃ面白い。
港や線路を預けてもらえりゃ、我らは利を得る。
だが国は重荷を下ろせる。
互いに損はない、いや、夢を共有できる仕組みじゃ」
岩崎弥太郎は龍馬の隣で慎重に口を開いた。
「だが、運営を任された我らが怠れば、民は不満を募らせ、政府の信を失います。
契約の細部を詰めねばなりません」
小栗上野介が机に身を乗り出した。
「その通りだ。
運営の基準、料金の上限、維持管理の責任――曖昧にすれば必ず禍根を残す。
契約条文は一字一句、厳格でなければならぬ」
春嶽は扇を閉じ、低い声で言った。
「政商に利を与えることは、政治的批判を招く。
だが、それを恐れて手をこまねけば、財政再建の道は閉ざされる。
ここは、民が納得する仕組みを見せるほかない」
藤村は頷き、机の上に広げられた図面に指を置いた。
「鉄道は東京から横浜へ、港湾は長崎と神戸、電信は江戸から大阪へ。
これらの権益を、一括して政商に付与する。
ただし監査を置き、収益の一部は政府に還元させる。
違反すれば即座に契約を破棄する」
坂本は豪快に笑った。
「分かりやすい。
俺たちが儲ける代わりに、国も潤う。
民には便利な道や港が残る。
これぞ三方よし、じゃの」
岩崎は真剣な表情で頷き、筆を取り出して契約条文に目を走らせた。
「責任もまた重い。
だが、これを果たせば我らの商会は一段と広がる」
江戸の町では、この知らせがすぐに噂となった。
「鉄道を商人に任せるだと?」「港もか?」「だが国に銭が入るなら……」
最初は戸惑いが多かったが、やがて「十年十五年なら構わぬ」「民の足や港が動けばそれでよい」と受け入れる声が広がっていった。
ある酒場では、職人たちが盃を酌み交わしていた。
「国の金繰りが楽になるなら、ええことじゃねえか」
「だが料金が上がっちまったら困るぞ」
「そこは監査があるらしい」
人々は不安と期待を半ばにしながらも、国の大事に自分たちが関わっている感覚を覚え始めていた。
契約の日。
江戸城の大広間には、政商たちと大臣が一堂に会した。
厚い契約書に墨で署名が加えられるたび、重い筆音が畳に響いた。
坂本は豪快に署名し、岩崎は慎重に一字一字を確かめ、小栗は最後まで条文を確認した。
三百万両の一時金が国庫に納められたとき、広間には大きな安堵の吐息が広がった。
藤村はその場に立ち、低くしかし力強い声で告げた。
「我らは国の未来を売ったのではない。
未来を共に作る権利を、一時預けたにすぎぬ。
この道を進めば、七千万両の重荷は必ず克服できる」
慶篤はその横で深く頷いた。
「民にとって大事なのは、国が立ち続けること。
今日の契約は、そのための一歩にすぎない」
その夜、江戸の町は再びざわめいた。
「三百万両が国に入ったらしい」「鉄道も港も動き続ける」
酒場の笑い声、長屋の囁き、商家の算盤――あらゆる場所で、この契約の話題が交わされた。
やがて、江戸城の窓辺に立った藤村は、月明かりに照らされた町を見下ろした。
そこには、不安と希望の入り混じったざわめきがあった。
だが、そのざわめきこそが、国の力を生む源に違いなかった。
江戸の夏はますます蒸し暑さを増し、町の空気は熱気に満ちていた。
宝くじ公債の熱狂が街を覆い、さらに港湾コンセッションで国庫に銭が流れ込んだ。
しかし、藩札七千万両という重荷は、まだ半ばしか処理できていない。
藤村は、次の一手を打つために、広間に人々を集めた。
その場に立ったのは、一人の若者だった。
年若く、背筋の伸びた後藤新平――内務省で衛生局を改革した才気ある青年である。
広げられた大地図の前に立つと、その瞳には炎のような熱が宿っていた。
「江戸を、近代都市へと作り替える必要があります」
広間がざわめいた。
春嶽が眉を上げ、小栗は無言で扇を閉じた。
十九歳の青年が、国の都を根本から改造すると言い放ったのだ。
新平は地図の上に指を置き、静かに続けた。
「道路を広げ、区画を整理し、川沿いには倉庫と市場を設ける。
これにより物流は活性化し、土地の価値は高まります。
国がその地を管理し、地代や貸与で収益を得れば、藩札償還資金の一助とできましょう」
彼の声は若さゆえの熱を帯びていたが、その内容は精緻であった。
聞く者の胸に、ただの夢物語ではなく、現実味をもった未来像として響いた。
春嶽が低い声で問いかけた。
「……しかし、町人たちは土地を動かされることに反発せぬか」
新平は即座に答えた。
「便利さと利益を示せば、反発は支持に変わります。
新しい道路、新しい市場、清潔な街並み――商いは広がり、暮らしは楽になります。
人々は自らの生活が豊かになることを望んでいます」
小栗は依然として慎重だった。
「区画整理には膨大な労力がいる。金も人も要る。それをどうする」
新平は視線を逸らさずに答えた。
「計画に伴う労役を公平に割り振り、必要な費用は地価の上昇で賄います。
先に国が投資し、後に収益で回収するのです」
その言葉に、慶篤は静かに頷いた。
「なるほど……債務を未来の収益で支える、か。専売証券と同じ理がここにも働いている」
広間の空気が変わった。
最初は「若すぎる」と疑いの目を向けられていた新平の言葉が、徐々に大人たちを納得させ始めていた。
渋沢栄一が前に出て、地図を覗き込みながら声を上げた。
「土地の付加価値を資金に転じる……これは金融にも通じますな。
都市そのものを資産として活用する。まさしく革命的な発想です」
藤村は黙ってそのやり取りを見守っていた。
彼の胸には、ある確信があった。
新平の語る言葉の奥には、彼自身が授けた“未来の行政知識”が息づいている。
だが、それを知る者は誰もいない。
この場の誰もが、「若き後藤新平の天才的発想」として受け止めていた。
そのとき、電信局から急ぎの報が届いた。
清水昭武からの報である。
伝令が封を差し出すと、藤村はすぐに封を切り、声に出して読み上げた。
「北海道にて、石狩炭田、天塩の森林資源、十勝の新鉱脈を担保に、前借り契約を締結。
前金二百万両を確保」
広間に再びどよめきが走った。
すでに佐渡や足尾の契約で六百万両を得ていたが、さらに北海道が加わったことで、国庫に流れ込む資金は膨大な額に達した。
春嶽は深く息を吐いた。
「専売証券、宝くじ公債、港湾コンセッション、そして都市計画と資源契約……
これほど多様な手を組み合わせ、国を動かした例がかつてあっただろうか」
慶篤が力強く言った。
「国の財政は、もはや一つの仕組みに頼る時代ではない。
あらゆる分野を組み合わせ、全体で未来を描く。
それが我らの時代の政治だ」
義信が学習帳を抱えながら前に進み出た。
「都市は体の臓器のようです。
道路は血管、港は心臓。資源は血で、金融は脳。
流れを滞らせなければ、国は生き続けます」
義親も小さな声で続けた。
「もし血が止まれば病になります。
だから流れを守ることが、国を守ることです」
幼い声に、大人たちは一瞬言葉を失った。
だが、その比喩は誰よりも的確に国の在り方を示していた。
藤村は静かに口を開いた。
「藩札の処理は、ただ借金を返すためではない。
国を立て直し、新しい時代を築くための設計だ。
我らはその道を歩んでいる」
広間に集まった者たちは深く頷いた。
蝉の声はなお強く、夏の空気は重かった。
だが、その熱気の奥には、確かに未来を築く鼓動が鳴り響いていた。
その夜、江戸城の一室に夕餉の膳が整えられていた。
障子の外では秋の虫の声がかすかに響き、庭の竹が風に揺れていた。
夏の熱気はまだ残っていたが、膳を囲む面々の表情には、昼間の会議で得られた手応えが刻まれていた。
藤村、慶篤、そして子どもたち。
さらに渋沢栄一、松平春嶽、小栗上野介、後藤新平、清水昭武らが一堂に会し、食卓を共にした。
炊き立ての白米の香りと、味噌汁の湯気が室内を柔らかく満たし、そこに熱い議論が自然と重なっていった。
義信が真剣な眼差しで口を開いた。
「専売証券、宝くじ公債、港湾コンセッション、そして都市計画と資源契約……
これで国の財政基盤が整いつつあります。
七千万両という重荷も、確実に軽くなっているはずです」
義親が膳の前で小さな手を動かしながら言った。
「人々は夢を買い、札を信じ、国を支えています。
医学や道路や港と同じで、信じる心があれば仕組みは生き続けるのです」
久信は箸を持ったまま顔を上げ、力強く言った。
「父上、僕ももっと勉強して手伝います。
数字を覚えて、計算を任されるようになります」
その言葉に、大人たちの口元に笑みが浮かんだ。
慶篤が杯を置き、ゆっくりと語った。
「副総理の立場から見ても、ここまでの進展は驚異的だ。
藩札処理を財政再建だけでなく、国の近代化の力に変えている。
まさに政治の理想形といえる」
渋沢も深く頷いた。
「産業の立場から見ても、この一連の策は商業と金融の活力を呼び込んでいます。
庶民から豪商まで同じ仕組みに関わり、社会全体で国を支える。
これこそ信用経済の本質です」
春嶽は扇を置き、静かな声で言った。
「長く財務を担ってきたが、ここまで多角的に資金を集めた例はない。
専売、宝くじ、港湾、都市計画、資源……。
国の力を余すことなく組み合わせるこの発想は、かつてなかった」
小栗は帳面を手にし、真剣な眼差しを向けた。
「ただし、監査と公開性を欠けば、たちまち信用は崩れます。
制度の細部を詰め、どの段階でも疑念を残さぬよう仕組みを固めねばなりません」
藤村はその言葉に頷き、膳に箸を置いた。
「信を守ることこそ、我らが最大の責務だ。
この国の未来を築くのは、数字よりもまず信頼だ」
そのとき、陸奥宗光が新たな報を携えて現れた。
彼は外務大臣として各国との往来を見ていた。
「諸君、朗報です。
ロンドンの金融街では、既に“東洋の金融革命”として日本の手法が話題になっております。
さらにフランス財務省から、日本の革新的資金調達手法を研究したいと、調査団派遣の打診が届いております」
広間が一瞬静まり、やがて大きなざわめきが広がった。
義信の瞳が輝き、声を弾ませた。
「世界が日本を学ぶ時代が来るのですね!」
義親が笑みを浮かべ、幼い声で言った。
「外国の人たちも、この札を欲しがるかもしれません」
久信は拳を握り、真剣な声を上げた。
「父上、僕もそのときまでに立派に役に立ちます!」
慶篤が深く頷き、杯を掲げた。
「副総理として、この金融革命を全力で支える」
渋沢も声を重ねた。
「産業の力を信じ、新しい財政の道を切り拓く」
春嶽もまた、静かに盃を掲げた。
「財務の経験をもって、必ず監査と制度の骨を固める」
小栗は眼鏡越しに皆を見渡し、短く言った。
「実務の綻びは私が許さぬ」
清水昭武も笑みを浮かべ、声を添えた。
「北海道の資源は国を支える柱となりましょう」
後藤新平が若い顔を紅潮させ、力強く宣言した。
「都市計画で土地の価値を高め、収益を国の財源に転じます。
科学的行政で、国の基盤を変えてみせます」
藤村は全員の顔を見渡し、静かに杯を掲げた。
「専売証券で八百万両、鉱山契約で八百万両、宝くじ公債で千二百万両、港湾コンセッションで三百万両。
合計で三千四百万両を確保した。
七千万両の半ばを超えたのだ。
残りも必ず処理し、新しい国を築き上げる」
一同の杯が打ち合わされ、涼やかな音が響いた。
障子の外で秋の虫が鳴き、その声はまるで新しい時代の鼓動のように聞こえた。
藤村は心の中で密かに思った。
――令和の知識は、誰にも知られてはならない。
だが、この国の未来を支える力として、必ず活かし続ける。
彼の眼差しは障子の向こうの夜空に注がれていた。
星々は静かに瞬き、世界の未来を照らしているように見えた。