236話:(1876年6月/夏)夏の専売、証券化の革命
梅雨が明けた江戸の空は、白く灼けるように輝いていた。
瓦屋根は陽をはじき返し、城の回廊には打ち水の匂いと蝉の声が入り混じる。
石畳はすでに熱を帯び、歩く者の足袋の裏にじんわりと湿気を移していた。
その日、内閣会議が開かれる広間は、夏の光を避けるため障子が閉じられていた。
だが、厚い空気は障子をすり抜け、座する大臣たちの額に細い汗を浮かばせる。
沈黙の中、紙をめくる音さえ鋭く響いた。
藤村が文箱を開き、口を開いた。
「――専売益の証券化を実施する」
その一言に、広間の空気が凍りついた。
誰もが息を止め、蝉の声すら遠ざかったかのようである。
松平春嶽が眉を寄せ、扇を閉じたまま、かすれた声をもらした。
「専売益を……証券に?」
渋沢栄一は筆を握り直し、白紙に線を引いた。
「将来の利益を束ね、今、銭に換える……そういうことですか」
藤村は頷き、試算表を広げる。
「塩、煙草、樟脳、この三専売の利益を五年分まとめ、収益手形として発行する。
庶民でも買える小口に刻み、監査を置き、透明に運用する。
これで初年度に八百万両を確保できる」
広間にざわめきが走った。
誰かの喉が小さく鳴り、畳に落ちた汗がじわりと染みを広げる。
慶篤が静かに口を開いた。
「……なるほど。将来収入を、時の秤にかけて今へ移す、ということか」
小栗上野介が机へ身を乗り出し、低く問う。
「実務はどう運びます? 印判、台紙、帳簿、すべて統一が要ります」
渋沢の筆が走り、墨の匂いが濃く広間に漂った。
「収益は専用勘定に計上し、両替商に受渡し所を設ける。
偽造防止には雁皮紙を使い、刻印は伊勢の職人に任せる。
買戻しを望む者には割引を定め、流動性を保つ――」
小栗は細い目をさらに細めて頷いた。
「監査は月次で行い、役人と商人から証人を立てる。
信用を固めるには公開性が肝要です」
春嶽は扇を膝に置き、なお慎重な表情を崩さずに言った。
「八百万両……果たして本当に集まるのか」
藤村は机の上に手を置き、揺るぎない声で答えた。
「去年の実収益を基礎に算出した数字だ。
欲張らず、まずは信用を築く。
市中がこの新しい器を信じるかどうか、それが肝要だ」
渋沢の瞳が光を帯びた。
「革命的です。利潤の道を銭の道に組み替える……商業の仕組みそのものを変える発明です」
慶篤は隣でわずかに笑んだ。
「名はどうする」
「“専売収益手形”と呼べばよい。名は簡明でなければならぬ」
誰もが未来を垣間見た。
数字ではなく、人の覚悟が信用を生む――藤村の目がそう物語っていた。
春嶽は深く頷き、扇を畳んだ。
「ならば財務は道を拓こう。ただし監査は厳に」
藤村は全員を見渡し、静かに宣言した。
「八百万両をここで掴む。増税はしない。
信を積み、形にし、明日に渡す」
会議が閉じられ、障子が開かれた。
夏の白光がなだれ込み、石畳が乾いた匂いを立ち上らせる。
大臣たちは眩しさに目を細めながらも、視線を逸らさなかった。
その日の夕刻、城下の両替商の前には人だかりができていた。
「専売の利益を札にするそうだ」「八百万両だと……」
噂は露より早く広がり、町人たちはざわめきを隠せなかった。
江戸の夏の空気はなお重く熱い。
しかし、人々の胸に生まれたざわめきは、確かに新しい時代の鼓動であった。
会議の翌朝、江戸城の書院には早くも渋沢栄一の机が置かれていた。
筆は紙の上を走り、墨の点が細かく並んでいく。
収益勘定、元利の流れ、買戻しの割引率。
数字と線が織り合わさり、白紙に新しい金融の姿が描かれていった。
「これは……まさに革命的発想だ」
渋沢は独り言のようにつぶやき、手を止めなかった。
利潤を将来から引き出し、今の銭に変える。
これまでの商業にはなかった仕組みである。
藤村はその背後に立ち、静かに指を差した。
「庶民でも買える小口にする。百文、五百文、一両。
国を支える器は、広く手に届くものでなくてはならぬ」
渋沢は深くうなずき、設計にその条を加えた。
その筆音は、まるで江戸の街路を走る駒のように軽やかで力強かった。
昼下がり、坂本龍馬と岩崎弥太郎が城下へ駆け出していた。
龍馬は笑みを浮かべ、草履を鳴らしながら声をあげる。
「庶民でも手に取れるようにすりゃええ。
百文からなら、町人も農夫も“国を支えとる”て胸張れるわけじゃ」
岩崎は真剣な顔で頷き、懐から帳面を取り出した。
「土佐の商人衆を動かしましょう。
長崎の商館とも繋げば、流通は一気に広がります」
ふたりは両替商や問屋を回り、説明に奔走した。
最初は訝しむ目が多かったが、坂本の快活な声と岩崎の理詰めの説明が次第に人々の心を解いた。
「未来の利益を、今、皆で分け合う」――その考えは、江戸の熱気と同じくじわりと人々に染み込んでいった。
一方、城内では島津久光が内務大臣として専売組織の立て直しに着手していた。
全国の専売役人へ布告を出し、地方ごとに収益を計上させる。
帳簿の様式は統一し、紙質や印影は中央で決定する。
「未来の利益を売ると申すのは、聞き慣れぬ言葉じゃ。
だが、役人が疑えば民も疑う。
まずは我らが仕組みを信じねばならぬ」
久光は厳しい声で命じ、各地の役人は慌ただしく走り出した。
商人の町に新しい説明所が設けられ、札の見本が掲げられた。
「専売収益手形」と墨書きされた板札が、夏の陽に白く光った。
江戸の街角にも噂は広がった。
「百文で国を支える札が買えるらしいぞ」「塩や煙草の利益で元が返るそうだ」
最初は半信半疑だった町人も、両替商の帳場で見本札を手にしたとき、その重みに新しさを感じた。
夕刻、再び渋沢の机。
仕組みはほぼ完成していた。
元金、利払い、監査の条文、偽造防止策――すべてが細かに記されている。
藤村が紙面を見下ろし、静かに言った。
「これでよい。道は拓けた」
その声に、渋沢の胸は熱くなった。
商いを知る者として、これがどれほどの飛躍か分かっていたからだ。
江戸の夜空にはまだ熱がこもっていた。
しかし、その熱気の中で、人々の胸に宿るのは不安ではなく、期待だった。
専売収益手形という新しい器は、すでに町の鼓動に溶け込み始めていた。
真夏の空は濃い藍色を帯び、江戸の町を照りつけていた。
蝉の声は昼も夜も途切れることなく、城下の路地に熱気をこもらせている。
その熱を吹き飛ばすかのように、江戸城の電信局からは次々と報が届けられていた。
清水昭武からの電信が最初に届いたのは、午後の盛り。
帳場に駆け込んだ伝令が封じられた紙片を差し出すと、藤村はすぐに封を切った。
その中には、力強い文が記されていた。
「佐渡金山、足尾銅山、九州炭田の採掘権者との交渉、成功。
将来産出分に対し、前金として六百万両を確保」
藤村の指先がわずかに震えた。
確かに、これは大きな一歩だった。
鉱山の将来収益を前借りする――これまで誰も考えなかった契約である。
慶篤が横で深くうなずいた。
「現に掘り出せぬ鉱脈を、未来の技術進歩を見越して契約する……実に大胆だ」
春嶽も感嘆を漏らした。
「六百万両……専売益八百万両と合わせれば、一挙に一千四百万両の資金となる」
小栗は帳簿を繰り、計算を弾き出した。
「七千万両のうち、すでに二割を超える資金を手にしたことになります。
これなら残りの処理も現実味を帯びましょう」
藤村は静かに紙片を畳み、胸に収めた。
経済の未来は、もはや過去の延長ではなく、先見の知で形づくられる。
そのことを証明する契約であった。
同じ頃、江戸城の一角に設けられた研究所では、もうひとつの“未来”が芽吹いていた。
北里柴三郎が顕微鏡を覗き込み、細い手を震わせながら試験管を扱っていた。
机の上には血清の入った小瓶が並び、微かに光を反射している。
「……ついに、抗毒素が作用しました」
北里の声は掠れていたが、そこには確信があった。
ジフテリア血清療法――史実では十三年後に成し遂げられるはずの発見が、この場で現実となった。
試験に立ち会った医師たちは息をのんだ。
実験動物の呼吸が安定し、喉の腫れがみるみる引いていく。
その光景に、誰もが言葉を失った。
「これで……子どもたちが命を落とさずに済む」
ある医師の頬を涙が伝った。
北里は静かに頷き、顕微鏡から目を離した。
この成果は単なる医学の進歩ではない。
民衆の命を救う確かな証であり、政府への信頼を支える基盤でもあった。
数日のうちに、この報は江戸の町に広がった。
「北里先生が新しい薬で命を救ったらしい」「政府の研究所が病を治してくれる」
庶民の素朴な信頼は、やがて専売証券の購入へとつながる土壌となっていった。
その夜、藤村は学習室に子どもたちを集めた。
蒸し暑い空気の中、灯明の火が揺れ、机の上の紙を照らしている。
義信は経済書を手にしながら言った。
「将来価値を現在価値に換算するのは、時間そのものを数値に置き換える技術です。
しかし、そこには必ずリスクの調整が必要ですね」
十一歳とは思えぬ冷静な口調だった。
四歳の義親が首をかしげつつも、驚くべき言葉を放つ。
「証券化は、ひとりに負担を集めず、多くに分けることで危険を小さくします。
しかも流れを作れば、銭が滞らずに回ります」
久信は汗を拭いながら、必死に帳面に書き写した。
「僕でも……計算の手伝いができそうです」
慶篤の講座では、二十一歳の篤敬が真剣な顔で言った。
「この金融技術は、他国にも応用できますね。
日本発の仕組みとして示せば、世界に影響を与えられるでしょう」
弟の篤守も頷いた。
「民衆の信頼を得ることこそ、制度の根本だと分かります。
いくら巧妙な仕組みでも、信がなければ立ちません」
北里の研究を聞いた義信は、机を叩いて言った。
「病を防ぐ仕組みと、国を守る制度は似ています。
広がる前に手を打つ、それが肝心です」
義親も小さな手を挙げた。
「国全体をひとつの体に見立てれば、税や証券は血の流れ。
病を治すのと同じように、流れを保つのです」
その比喩に、慶篤は目を細めて笑った。
未来を見据える子らの言葉は、単なる夢想ではなく、現実を照らす光に思えた。
夜も更け、城下の風はなお熱かった。
だが、蝋燭の灯に照らされた子どもたちの瞳は、星のように澄んでいた。
経済と医学、政治と教育――すべてが結びつき、七千万両という重荷を克服する道を照らしていた。
その夜、江戸城の食堂には涼を呼ぶ団扇風が行き交い、食卓に並んだ料理の湯気がほのかに漂っていた。
障子の外では、夜風が庭の竹を鳴らし、遠くで祭囃子の残響が聞こえる。
蒸し暑い夏の夜であったが、集まった顔ぶれの表情は明るく、どこか晴れやかだった。
藤村、慶篤、そして子どもたち。
さらに渋沢栄一、松平春嶽、小栗上野介、後藤象二郎も席を共にし、賑やかに箸を動かしていた。
昼間の会議で生まれた新しい仕組みの余韻が、まだ胸を高鳴らせていたのである。
義信が膳の前で背筋を伸ばし、声を張った。
「この専売証券の仕組みは、日本の金融技術を世界に示すものです。
父上、これで他国からも注目されるに違いありません」
四歳の義親が小さな盃を両手で持ちながら、澄んだ声を添えた。
「借金を処理するだけでなく、外のお金を呼び込む道にもなります。
外国の商人も、この証券を欲しがるかもしれません」
久信は顔を赤らめつつ、必死に言葉をつなげた。
「ぼ、僕も……計算を手伝って、証券の仕組みを覚えたいです」
その真剣な表情に、大人たちの口元に微笑が浮かんだ。
慶篤が杯を置き、ゆっくりと語る。
「副総理として申せば、この金融革命は、国を支える制度であると同時に、未来を見せるものだ。
民衆が自ら国を支える器を手にする。
その経験が、やがて国をひとつに束ねる力になる」
渋沢も頷き、低い声で続けた。
「産業大臣として、さらに革新的な手法を研究いたします。
この仕組みは、国の資金調達だけでなく、商業の形を変える。
私も全力を尽くしましょう」
春嶽は酒を口に含み、静かに微笑んだ。
「長き財務の務めにあたってきたが、今日ほど未来を信じた日はない。
これが国の信用を支える柱になるなら、わしも喜んで道を拓こう」
小栗は帳面を傍らに置いたまま、真剣な声で言った。
「監査の厳正さを欠けば、たちまち信用は崩れます。
私は実務の細部を固め、誰も疑いを挟めぬ仕組みにしてみせます」
食卓は和やかでありながら、言葉のひとつひとつが未来を支える誓いのように響いた。
そのとき、陸奥宗光が席に現れた。
彼は外務大臣としての報を携えていた。
「諸君、朗報です。
ロンドンの金融街で、すでに“東洋の金融革命”として話題になっているとの報せがありました。
さらにフランス財務省から、日本の革新的資金調達手法を研究したいと、調査団派遣の打診も届いております」
広間が一瞬ざわめき、やがて喜びの声が重なった。
義信の瞳が輝いた。
「世界が日本を学ぶ時代が来るのですね」
義親が無邪気に笑った。
「外のお客さんに売れば、もっとお金が増えます」
久信も拳を握りしめた。
「父上、僕もその時までに立派に役立ちたいです」
藤村は子らの顔を見渡し、静かに杯を掲げた。
「これで七千万両処理の第一段階は成功した。
専売証券で八百万両、鉱山契約で六百万両――合わせて一千四百万両を確保した。
残り五千六百万両も、必ず処理してみせる」
その言葉に、慶篤が力強く応じる。
「副総理として、この金融革命を全力で支えよう」
渋沢もまた、声を重ねた。
「産業の力を信じ、新しい財政の道を切り拓きます」
陸奥宗光は杯を掲げた。
「海外との交渉も、この信用があれば必ず有利になります。
日本は、もはや追う側ではなく、示す側に立つのです」
一同の杯が打ち合わされ、涼しい音が響いた。
その響きは、障子の外に広がる夏の夜へと滲んでいった。
竹林を渡る風はなお蒸し暑かったが、その場に集った人々の胸には、確かな涼やかさが宿っていた。
国の未来を切り拓く道筋が、今まさに形を持ち始めていたからである。