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235話(1876年5月/雨季)台湾の雨季、藩札の現実

江戸城の石畳は、朝から降り続く雨に濡れ、鈍い光を放っていた。

 空はどんよりと重く垂れこめ、まるで大地ごと押し潰そうとするかのようである。

 初夏の湿り気を含んだ空気は肺にまとわりつき、城内に漂う木の香りもどこか湿りすぎて、甘ったるく鼻に残った。


 台湾統治成功の報せが江戸にもたらされてから、城は祝賀一色に染まっていた。

 大広間では功績を称える声が絶えず、官僚や武士たちは笑みを浮かべて互いの労をねぎらい合う。

 町に出れば、民草の間でも「ついに海外を治める国となった」と囁かれ、誇らしげな熱気が漂っていた。


 しかし、その熱狂の影で、ひとつの封筒が静かに藤村の机上に置かれていた。

 厚手の和紙で封じられたその中身を取り出した瞬間、藤村の心臓は一拍、強く跳ねた。


 墨痕鮮やかに記された一行。


 ――「藩札総額調査結果:七千万両」。


 藤村は、しばし言葉を失った。

 視線を何度も紙面に走らせたが、数字は変わらない。

 頭の奥で金属の鈍い音が鳴り響き、全身から血の気が引いていく。


「七千……万両……いや、七千万両……」


 かすれた声が、雨音に溶けて消えた。

 喉の奥はひどく渇いているのに、口の中だけがやけに苦かった。

 目の前の文字は、ただの墨ではなく、国を呑み込もうとする黒い淵のように見えた。


 机の端に控えていた秘書役の若い官吏は、藤村の顔色に気づき、思わず息を呑んだ。

 だが彼は何も言わず、ただ目を伏せている。


 藤村は報告書を静かに机に置き、深く息を吐いた。

 背筋を伸ばし、雨音に負けぬほどの力で言葉を発した。


「……想像以上だ。しかし、必ず処理する。増税はしない。これは国の未来に関わることだ」


 その声音には、己を鼓舞する気迫が宿っていた。

 若い官吏は驚きと共に、安堵のようなものを感じていた。

 目の前の上司が、恐るべき数字を前にしてなお退かぬ姿を、心の奥に焼き付けたからだ。


 藩札。

 それは、かつて各藩が独自に発行した信用証券である。

 幕末の動乱期、財源を失った藩が頼った苦肉の策であり、今なお市中に溢れていた。

 明治新政府が成立してからも、その整理は後回しにされ、実態すら正確には掴めていなかった。

 だが、ようやく精密調査の結果が出た。

 七千万両。国の屋台骨を揺るがす負債が、白日の下にさらされたのである。


 藤村は、窓の外に視線を移した。

 雨脚はさらに強まり、瓦を叩く音が耳を打つ。

 城内の庭に張られた砂利の小道は、すでに小川のように濁流を流していた。


「……これは、民に知られてはならぬ。恐慌が起これば、国は持たぬ」


 低く呟いたその声は、自らに言い聞かせるものでもあった。

 だが隠し通すことはできない。

 いずれ必ず世に知れ渡る。

 その前に、手を打たねばならない。


 彼は机の引き出しから筆を取り出し、素早く数行を記した。

 宛先は、副総理大臣・徳川慶篤。

 緊急会議の召集を命じる書状である。


 夜半、雨は止む気配を見せなかった。

 会議室に集められた大臣たちは、報告を聞くなり一様に顔を蒼白にした。

 重い沈黙が広間を包む。


「……七千万両……とてつもない額だ」


「これを増税なしに処理するなど、不可能ではないか」


 誰かが漏らした言葉が、さらに空気を重くした。

 そのとき、慶篤が口を開いた。


「諸君、驚くのは無理もない。だが、藤村には策がある。私は彼の先見の明を信じている」


 藤村は黙って彼の言葉を受け止めた。

 内心では、まだ具体的な方策を全て詰めていたわけではない。

 だが、必ず打開策はある。

 そう信じ、信じさせることこそ、今この場で求められる指導者の役割であった。


 やがて藤村は口を開き、静かに宣言した。


「……諸君、恐れることはない。手段はある。藩札は必ず処理する」


 その目には、一点の迷いもなかった。

 重苦しい空気が、少しずつだが和らぎ始める。

 大臣たちは互いに目を見交わし、やがて小さくうなずいた。


 会議は続いたが、議題の核心――具体的な手法の提示は、まだ先延ばしにされた。

 藤村はそれを承知で、まず国の舵を握る自らの覚悟を示したのである。


 会議後、彼は執務室に戻った。

 窓を開け放つと、雨の匂いが一気に流れ込んできた。

 冷たく湿った空気が、火照った額を撫でる。


「七千万両……重い。しかし、この国の未来を背負う者として、必ず処理してみせる」


 その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。

 ただ、暗い夜を切り裂くように、藤村の胸の奥から溢れ出した誓いであった。

翌朝も雨は止まず、城の回廊にはしっとりと湿った空気が漂っていた。

 石畳に溜まった水は、薄く濁りながら光を反射し、人々の顔を青白く映し出している。


 緊急内閣会議が再び開かれた。

 大広間の障子は閉ざされ、外のざわめきは遮断されている。

 ここに集められたのは、ごく限られた重臣たちだけであった。


 藤村は正面に座り、静かに口を開いた。


「七千万両という数字は、もはや覆しようのない事実だ。

 だが、我らには手がある。増税に頼らず、まずは元本を削る」


 ざわついていた広間が、すっと静まった。

 慶篤が隣で言葉を継ぐ。


「第一の策は相殺清算だ。藩札を持つ者の中には、政府に未納の地代や税を抱える者も多い。

 それらを差し引けば、自然と残高は減る」


 財務官僚のひとりが前に進み出て、用意していた帳簿を開いた。

 地方ごとに整理された未納金の一覧が並ぶ。

 数字の列を追うにつれ、大臣たちの顔にはわずかな光が戻った。


「これだけで、数百万両は削れる見込みです」


 次に藤村が指示を下す。


「偽造藩札、時効を過ぎたものも少なくない。これを徹底的に調べ上げろ。

 全国一斉に調査班を派遣する。商人、豪農、旧藩士――誰であろうと例外は認めぬ」


 その言葉に、大広間の空気が引き締まった。

 各地に散らばる旧藩札の山を洗い出す作業は、容易ではない。

 だが、やらねば国が沈む。


 慶篤が低い声で続けた。


「……七千万両のすべてを肩代わりするのではない。

 虚の分を削ぎ落とせば、実質は三千万から四千万両に収まるはずだ」


 その数字に、多くの者が小さく息を吐いた。

 絶望的に思えた七千万両が、半分近くにまで減るかもしれない――その希望が、会議にわずかな熱を戻した。


 藤村は机に広げた地図に目を落とした。

 各地に点在する調査拠点が赤く記され、そこから矢印が江戸へと伸びている。

 藩札調査のための特別チームが、すでに動き出していた。


「時間との戦いだ」


 藤村の声が広間に響く。

 雨音をも断ち切るような強さを帯びていた。


「市場に不安が広がる前に、動きを示さねばならない。

 この国の信用は、数字そのものではなく、我らの覚悟にかかっている」


 その言葉に、慶篤もうなずいた。


「藤村の言う通りだ。恐れるな。われらが信を示せば、民もまた信を寄せる」


 会議は続き、各大臣に具体的な任務が割り振られていった。

 勘定奉行には未納金の照合、司法関係者には偽造札の取り締まり。

 さらに地方官へは、調査隊の支援と報告の迅速化が求められた。


 最後に藤村は一同を見渡した。


「これは単なる財政問題ではない。国家の根幹を揺るがす試練だ。

 だが、我らが一丸となれば必ず乗り越えられる。――皆、力を貸してほしい」


 大臣たちは黙って頭を下げた。

 その姿に、藤村は内心で小さく息を吐いた。


 まだ道は険しい。

 だが、国をまとめる力がここにあることを、彼は確かに感じていた。

その日の午後、江戸城の学習室には、雨音を遠くに聞きながらも熱気が満ちていた。

 藤村の子どもたち、そして慶篤の息子たちが机を並べ、それぞれの師の教えを受けている。

 ここは知の工房とも呼ぶべき場所であった。


 まずは経済学の教室。

 義信はまだ十一歳ながら、難解な経済学書を手にし、眉をひそめて読み進めていた。


「債務と信用の関係を数理的に分析すると……市場心理が大きな影響を与えるのですね」


 その言葉に、周囲の大人たちは思わず目を見張った。

 彼の声には、幼さよりもむしろ冷静な研究者の響きが宿っていた。


 四歳の義親は、さらに突飛なことを口にした。


「父上……複式簿記という仕組みを使えば、債務の本当の姿がもっとはっきり分かるのではありませんか?」


 その一言に、藤村は思わず筆を止めた。

 わずか四歳の口から出た言葉とは思えぬ的確さ。

 周囲の学者や官僚もざわついたが、藤村はただ静かにうなずき、胸の奥でその才能に感嘆していた。


 十歳の久信は兄たちに必死に食らいついている。

 額に汗をにじませながら、帳簿を写し取る手を止めない。


「僕も……負けない。難しいけど、やってみる」


 小さな声には決意が宿っていた。


 一方、別の部屋では慶篤が統治論を講じていた。

 副総理としての実務経験を交えながら、組織の在り方を語る。


「大規模な組織を治めるには、情報を正確に掴み、決断を迅速に下すことが要となる」


 二十一歳の篤敬が頷き、素直な感想を述べる。


「父上の統治論は実践的で分かりやすいです」


 弟の篤守も負けじと口を開く。


「理論と実務を共に学べるのは、何よりの財産ですね」


 慶篤は穏やかな笑みを浮かべ、息子たちの成長を頼もしく感じていた。


 さらに北里の医学教室では、顕微鏡を覗き込みながら篤敬と篤守が戸惑っていた。


「細菌……小さすぎて見えません」


「西洋の医学は、漢方とはまるで違う。けれど、きっと役に立つはずだ」


 義信が横から口を挟んだ。


「病気を防ぐという考え方は、政治にも似ていますね。問題が広がる前に対策を打つ……」


 義親もまた、きらりと目を光らせて言った。


「国全体をひとつの体に見立てれば、病を防ぐのは統治と同じことです」


 その発想に北里は驚き、しばし黙り込んだ。

 やがて彼は、幼子たちの中に未来を見たように微笑んだ。


 後藤の行政学教室では、勘定奉行を務める藤田小四郎が語った。


「藤村様から学んだ近代的な予算管理に、後藤殿の理論、そして慶篤様の統治論を重ねれば……効率的な行政が築けましょう」


 その言葉に、生徒たちの瞳が輝いた。


 そのとき、遠くから電信のベルが鳴った。

 北海道からの報告である。


「鉱山と林業資源を担保にした前借り契約で、債務処理の資金を確保できます」


 清水昭武の力強い文面が、学習室に新たな希望を運んできた。

 子どもたちの瞳は一層輝きを増し、大人たちもまた胸を高鳴らせた。

その夜、江戸城の一室には、湯気の立ち上る膳が並べられていた。

 雨は依然として降り続いていたが、部屋の中には温かな灯がともり、集まった顔ぶれの表情を照らしている。


 藤村、慶篤、そして子どもたち。

 さらに後藤や藤田小四郎らが招かれ、夕餉を共にしていた。

 学習室での議論を持ち寄り、互いに意見を交わすのが、この日の習わしであった。


 最初に口を開いたのは慶篤である。


「副総理の立場から申せば、この七千万両という重荷は、もはや個人や一部署の問題ではない。

 組織を挙げて取り組むべき課題だ。だが、皆の力を合わせれば必ず成し遂げられる」


 その言葉に、子どもたちの瞳が輝いた。


 義信が静かに続ける。


「経済も政治も医学も行政も……根本には同じ理があると思います。

 どれも、全体の均衡を守ることが大切なのです」


 まだ十一歳の少年の言葉に、大人たちは思わず息をのんだ。


 義親は小さな手を膝に置き、真剣な表情で言った。


「複雑な問題も、ひとつひとつに分けて考えれば、必ず解けます」


 わずか四歳の子の言葉とは思えぬ明晰さであった。

 藤村はその姿を見つめ、胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。


 十歳の久信は、兄たちに負けじと声を張った。


「僕も、必ず役に立ちます。勉強を続けて、いつか父上を助けます」


 その幼さゆえの決意に、場に和やかな笑みが広がった。


 藤田小四郎が膳を置き、言葉を添えた。


「藤村様、慶篤様。今日の議論で学んだことを組み合わせれば、必ずや効率的な行政と堅固な財政が築けましょう。

 各大臣の専門性に、皆様のご家族の才知が加われば、もはや鬼に金棒です」


 篤敬が膝を正し、父に向かって言った。


「父上と藤村様の統治と経済の指導を受ければ、我ら若輩も必ず成長できます。

 この国を守る力となりましょう」


 篤守も力強く続けた。


「内閣という制度の力を実感しています。

 血縁も役職も、すべては国を支えるためにひとつに結びつくのだと」


 場の空気は、重苦しい負債の話題を超えて、一体感に包まれていった。


 藤村は盃を手に取り、ゆっくりと口を開いた。


「七千万両という数字は確かに重い。だが、我らの知恵と力を合わせれば、必ず克服できる。

 内閣制度と人材育成、この二つの柱があれば、どんな嵐も越えられる」


 慶篤もうなずき、盃を掲げた。


「我らは共に進もう。この国の未来のために」


 一同の盃が静かに打ち合わされる。

 障子の向こうで雨音が鳴り響いていた。

 だがその音は、もはや不吉な響きではなかった。

 むしろ新たな挑戦の鼓動のように、彼らの胸に響いていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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